童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          90歳を生きること 生涯現役の人生学

■承認は8〜9割とし、残りのl〜2割でこっちの言い分をキチンと話す

<本文から>
  「交通や情報伝達システムが違うのに、歴史上の人物の言動が現代にどう役立つのか」
 歴史の話をした講演先で、時にこういう質問を受けることがある。私はマトモに受けて立たない。少し身をよじらせて応ずる。
 都庁に勤めていた時、議会で何度も議員と質疑応答した。初めての時、議員の質問が見当外れだったのでそのことを正直に指摘した。その議員は面目を失って怒り狂い、会議は中断された。さすがに私も慌てた。正論と違い理不尽な不条理が、この世界には厳然と存在することを思い知らされたからだ。
 先輩が助言してくれた。たとえ相手が誤っていても、それを真っ向から否定しないこと。まず相手の言うことを一応認めること。しかしその承認は8〜9割とし、残りのl〜2割でこっちの言い分をキチンと話すこと。したがってこの方法は高度な技術であり、練られた思考と話術が必要なのだ、と。
 なるほどな、議会答弁とは難しいものだな、とひどく考え込んだ。
 昔、先輩作家の伊藤桂一さんから「時代物を書くコツ」を教えられたことがある。
 読者が知らない人物の知らない出来事をいきなり書いてもダメだからといって、知っている人物の知っている出来事を書くのも能がない。いちばんいいのは、知っている人物の知らない出来事を書くこと。この時はその前提として(読者が)知っている出来事についても5割か6割、面倒くさがらずに書くことだという。
 小説巧者の桂さんらしいと感心した。
 新人だった私は、わかり切ったことを書くのは読者に対して失礼だと思っていた。
 始めから終わりまで、自分が発見した新しい人物と新しい出来事″でつづらなければいけないのだと決め込んでいたのだ。
 議会を騒がせた私は桂さんの言葉を思い起こした。とにかくこのケースは、私がピシャリと潰してしまった議員の面目を回復することから始めなければならない。それには無念だが謝罪する以外ない。不条理に対する全面的降伏からスタートだ。
 私は謝罪した。短絡して質問の趣旨を勘違いしたことにし、しかしその内容は都政にとっても未経験のことなので、今後精力的に研究させていただきたいと締めくくった。一応収まったが、当該議員の私をにらみつける憎悪のまなざしは、いまも脳裏に焼き付いている。議員の胸のうちは収まらなかったようだ。
 歴史にこういう話がある。江戸初期の老中に松平信綱という人物がいた。チエ伊豆≠ニ呼ばれていた。頭の働かせ方が鋭く、それもウイットとユーモアに富んだ対応をしていたからだ。
 ある時、江戸で大火があった。川越(埼玉県)城主の信綱は領地で大火の経験があったので、すぐ対策本部を設置した。それも江戸城内ではなく現場にだ。大名が続々と詰めかけた。信綱は非常時なので先着順に席に座らせた。
 酒井という大実力者がやってきた。席次にうるさい。どこでもいちばん上席に座らないと承知しない。しかしこの時、空いていたのは入り口近くの末席だけだった。
 酒井は怒って帰ろうとした。が、信綱は末席に座ることを求め、笑いながらこう言った。
 「たとえ末席であろうと、私たちは酒井様のお座りになる席を、その場での最上席と考えております」
 酒井もゴネるのは大人げないと苦笑しながら末席に座った。
 だから私は「歴史が現代にどう役立つのか」という質問には、こう答える。
 「不便な時代であっただけに、チエだけは絞ったようです」
 これも相手を立てながら、1〜2割の範囲で応答している。
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■失敗した時に犯人探しのわめき声を上げない

<本文から>
 黒田官兵衛の腹立てずの会
 後期高齢者である私は、多くの人から健康法を聞かれる。
 答えの一つとして、誰かが失敗した時に「これは誰がやったんだ!」と犯人探しのわめき声を上げないこと、と告げている。
 血圧は上がるし、精神衛生上もよくない。
 さらに意味がある。こういう瞬間湯沸かし器(これも言葉としては後期高齢者)的態度を見せると、一挙に信頼を失う。いったん失った信頼は、簡単には回復できない。
 黒田官兵衛(如水)が、こんなことを言っている。
 「神仏に対する過失は、祝詞やお経を上げて謝罪すれば許してもらえるだろう。しかし部下はそうはいかない。部下を傷付けたら、絶対に許しは得られない。民も同じだ」
 厳しい。如水は下意上達″のために、福岡城内に異(意ではなく)見会≠ニいうのを儲けた。藩政に関する討論会だが、ヒラの上層部批判も許した。そして上層部には、「どんなに批判されても腹を立てるな、笑顔で応ぜよ」と命じた。
 そのためこの会は腹立てずの会″と呼ぼれた。
 上層部の中には、うわべは笑顔を浮かべているが、その笑いは引きつっており、腹の中は煮えくり返っている者もいた。「よく言うよ、このヤロー。次の人事異動期を楽しみにしていろ。必ずトバしてやる」と、憎悪の言葉をつぶやき続ける上層部が必ずいたのだ。
 徳川御三家の筆頭、尾張(愛知県)徳川家の始祖は家康の九男義直だ。気鋭で気が短かった。部下の失敗には容赦なかった。仮借なく体罰を加えた。部下は戟々恐々とした。
  このうわさを聞いたのが、甥の光囲(水戸家の世子。後の黄門様)だ。義直はこの甥をひどくかわいがっていたので、尾張家の重役が、「あなた(光囲)から意見してほしい」と泣きついたのである。
 さっそく出掛けていった光囲は、自分のこととして「気持ちを鎮める方法として、謡曲を学び始めましたが、伯父上はどのようなことをなさっておいでですか」と尋ねた。
 義直は「うん、まあな」と言ってその場を切り抜けたが、その日から謡曲をうなり始めた。
 甥に一本取られたのだ。以後の義直は名君と言われた。
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