童門冬二著書
ここに付箋ここに付箋・・・
          50歳からの歴史の旅

■一期一会の旅へ出よう

<本文から>
 旅は、この"一期一会"が純粋におこなわれる場だ。家庭や職場にいると、どうしてもその場所なりの一種のルールやマニュアルがあって、なかなか思うように自己を解放できない。五十歳過ぎてからの人生目標は、もちろん職場における地位向上や、やりたい仕事の実現などもあるだろう。が、それらのことを成し遂げるうえにおいても、
 「他人から"この人なら"と思われるような"自分らしさ"」
 を生んでいくことが大事だ。このことを、中国では、
 「風度」
 といったという。風度が高い人は、
 「この人のいうことなら、すべて従っても間違いはない」
 「この人のやることなら、なにもいわなくても後ろ姿で学んでしまう」
 というような気風がわいてくる。だから、風度というのは一種のオーラ(気)なのだが、しかし、その構成は複雑で、単なる雰囲気というものではない。このオーラを出すためには、やはり人望・風格・魅力・カリスマ性・親愛感などが混合されてなければならない。
 わたしがそういう状況の中で、あえて、
 「五十歳になったら、旅をしよう」
  というのは、
 「人間も自然の一部である」
 ということを、まず謙虚に感じようということである。いわば、自然との一期一会の出会いを大切にすれば、いまの日常生活の中でもいろいろと振り返ってもいいようなことを発見できる。これは決して退化ではない。むしろ、
 「自己向上という進歩」
である。地方には、学べるような、
 「歴史と文化」
がゴロゴロころがっている。そういうものに接することによって、
 「自分なりの歴史のみかた」
 が可能になる。この自分なりの歴史のみかたが次々と相関関係を起こして、ひとつの地域で発見した人物や文化のありように自分なりの結論を出せば、ほかの地域にいったとき にそれがまた輪のひとつになる。つまり、
 「旅における相乗効果」
 が期待できるのだ。

■文学の街・尾道

<本文から>
おなじ広島県内の東方備後国の倉敷地として有名だつたのが尾道である。
 港湾業務が活発化してくると、物品を保管する倉庫が次々と建つ。そして、倉庫業者がカをもちはじめる。この倉庫業者を「問丸」といった。
 陸揚げされた物品は、単によそへ運び出すための一時保管だけではなく、市を立てて、そこで売買もおこなう。
 商人がどっと入りこんでくる。
 尾道では、当時、高野山領だった太田庄の倉敷地としての役人のほか、独立した商人としての問丸や、専門の運送業者である梶取りや、水手、造船の技術者などが軒をつらねて密集した。
 中世のこの町の家数は、実に千戸におよんだという。
 正確な統計はないが、このころの日本の総人口は、おそらく千二百万人から千三百万人ぐらいだったろうから、千戸の町というのはたいへんな賑わいだ。
 近畿地帯にも市が盛んに立ち、尾道は"親市"的な存在になった。
 この繁栄をみた当時の備後国の守護長井貞重という武士が、天応二(一三二〇)年、突然、数百の部下をひきいて尾道へ乱入した。
 寺社や民家を焼き払って、役人を殺したうえで、用意してきた船舶数十隻に倉敷に保管されていた年貢米や財宝のいっさいを奪い取ったという。
 尾道はまた、日明・日朝貿易の基地でもあった。
 倉庫管理者から出発した問丸商人が、その主体になった。
 次々と中国や朝鮮に船を出して貿易をおこなった。
 やがて、この貿易の実権は、近畿地方の大きな寺社や、しだいに勢力を増した大内、細川、山名などの室町幕府の大名たちが握るようになった。
 富裕商人のおこなう事業のひとつに、
 「寺社の建立」
 がある。
 尾道市は、おびただしい寺や塔の街でもある。その中で、浄土寺は、
 「聖徳太子が創建した」
 といわれる。
 しかし、やがて衰徹したので、これを嘆いた西大寺の定証上人が、
 「ぜひとも浄土寺を再興したい」
 と発願した。
 資金の提供を頼んだのが、尾道の閏丸大商人の光阿弥陀仏であった。
 中世では、よく自分の名を、
「阿弥」
 と名乗る。
 一般に、社会から差別されていた層に多い。
商人、技術者などはみずから、
 「阿弥」
 と名乗った。
 阿弥というのは、いうまでもなく阿弥陀仏の意味だ。したがって、阿弥という名をつけた人びとは、
 「自分はホトケである」
 と宣言したのとおなじことだ。
 謡曲、狂言で有名な観阿弥、世阿弥父子も、能狂言の世界において、
 「自分は阿弥陀仏である」
 と宣言した。これは半面、
 「自分がひそめている仏性を大いに発揮して他人につくしたい」
 という、ホトケの慈悲の気持ちを世にあらわしたい願いもあっただろう。

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