佐久間象山 (1811〜64)松代藩士 

佐久間象山  象山は、文化八年(1811)2月11日、信州松代の城下、竹山町に生まれた。生家の近くに象山という岡があったため、その名をとったという。先祖は高望王で、のち安房佐久間の荘を得てから佐久間と称したが、江戸時代になっても元禄の頃までは、信濃の長沼城主であった。その後松代藩に仕えたが、数代をへて生まれた象山は神童の誉れ高く、藩主真田幸貫も近習に取り立てようとしたが、「学いまだ成らず」と固辞したため、学資をおくって江戸に遊学させた。
 大学者とはいえ、公武合体論者であり開国主義者である佐久間象山が、幕府の用命を帯びて、洋服のまま京都の町を行ききする姿は、志士らにとってはすこぷる刺激的であった。
 江戸では、林述斎と佐藤一斉に学び、また、渡辺華山や梁川星巌らと交わったが、やがて洋学と西洋砲術の研究を志し、遂に迅発銑を造り出した。
 こうして、象山は、海防学者として知られるようになり、天保十二年(1841)藩主が老中に就任したさい顧問として迎えられたが、その献策「海防策八条」はあまりにも進歩的で採用されなかった。1851年、江戸木挽町に西洋式砲術と兵学を教える塾を開いた。安政元年(1854)吉田松陰の密航未遂事件に連座したものとされ、自宅蟄居を命じられる。その後許され上洛し活躍する。
 島津久光や西郷隆盛も、象山の意見に傾けたように、けっして単純な開国主義者ではなかった。 
 文久二年(1862)七月、京都佐幕派の元凶、島田左近が虐殺されてから、天誅はいよいよ荒れ狂い、翌文久三年に入っても勢いは衰えず、翌々元治元年になると、遂に、当時から高名な学才だった佐久間象山が襲われた。象山を斬ったのは、肥後の河上彦斎らであろう、といわれている。

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