松平容保 (1835〜93) 会津藩主

松平容保   容保は会津松平家の血統ではなく、弘化三年、12歳のとき尾張徳川家の分家の高須松平家から養子となった。八代容敬に子がなかったからである。若い頃は朱子学者の山崎闇斎に師事して儒学や禅学を修めた。その後、神道と国学に傾倒し尊王思想の持ち主であった。
 文久2年(1862年)、朝廷や薩摩藩の圧力で政権についた将軍後見職・一橋慶喜と政事総裁職松平春嶽の下、幕府はさまざまな改革を行った。その一環として京都守護職が新たに設置され、容保が任命された。幕末京都守護職として、京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の考明天皇の厚い信頼を得る。薩摩藩と反長州・反尊攘激派で連携し(会薩連合)、公武合体派の中川宮を擁して、八・一八政変を実行した。この結果、長州及び激派公卿を京都から一掃された。その後の禁門の変では長州藩を撃退する。
 将軍家茂が亡くなり、続いて孝明天皇も病没するに及び、会津藩がすべてをかけていた公武合体は敗れ、ここに会津藩と容保の悲運の歴史が始まる。薩摩の寝返りにより倒幕派は形勢を逆転、戊辰戦争へ突入する。 会津藩は奥羽同盟を結び、西軍に抗戦して若松城に籠城、最後の決戦を試みたが、白虎隊や婦女子の自刃など数々の悲劇を生みながら、明治元年(1868)九月二十二日、遂に降伏落城した。
 会津落城後は妙国寺に謹慎、のち和歌山藩に移された。明治5年(1873)に謹慎を説かれ、13年より東照宮宮司に任ぜられた。のちの生涯は職のかたわら歌道にのみ没頭し世を去った。

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