|
<本文から> 永禄二年。筒井順昭もすでにその頃病死していた。
時は近づいた。信貴山城の松永久秀が、大和へ攻め入る事前に、
「呼応して、南の地より、筒井領へ斬り入られよ」
と、簡を通じてきた。
この時から、柳生一族は、筒井の隷属から離れた。そして松永弾正の七手の旗頭として重用された。
多武ノ峰の合戦では、山徒の僧兵と戦い、松永氏の勢が昂まるに従って、柳生家も当然、隆昌に向ったが、その弾正久秀が、三好義継と共に、永禄八年の夏、二条御所へ放火して、乱刃の下に、将軍義輝を耗逆してから、柳生宗厳は、彼にもすっかり望みを断って、
「わが兵馬は、逆のために動かさず。わが剣は、乱のために把らず」
と、絶縁状を送りつけて、それ以後、ただ山間の孤城に拠り、深く守って、敢て、天下の乱へ出なかった。
義輝将軍の亡き後の京洛は、まるで無政府状態に近かった。中央の乱は当然、諸州に波及して、いよいよ天下大乱の相貌を呈して来た。
禅に。
読書に。
また、養身鍛心に、
世の春秋もよそにして、以来数年のあいだというもの、柳生宗厳は、まったく門を閉じ客を謝して、草庭に籠っていた。 |
|