吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     上杉謙信

■大義には哭くが小義には哭かない、理想へは独往邁進

<本文から>
 由来、謙信は多感な質である。激しやすく感じやすい。二十歳ごろまでは、まま女のごとく泣くことすらあった。その前後には、多感なるばかりでなく、多情の面も性格に見られたが、翻然、禅に入って心鍛をこころざしてから一変した傾きがある。といっても多情多感な性は、もとより持って生れたもの、禅によってそれが血液から失くなるはずはないが、その強烈を挙げて、将来の大志へ打ちこめて来たのである。大義には哭くが、小義には哭かない。怒れば国の大事か武門の名かで、平常は至極無口になった。たいがいなことは、切れ長な瞼の辺で笑っている。ちと、壮年者には似あわないがそういう風格に変じて来た。
 そのかわり理想とするところへは独往邁進、着々と無言で進んでいる巨歩のあとが窺える。そのもっとも偉なのは、上洛朝拝の臣礼を、彼のみは怠らずにいることである。
 京都と越後との距離は、小田原の北条より、甲斐の信玄より、また駿府の今川家よりも、どこよりも遠かった。けれど信玄も義元も氏康も、各と自国の攻防と一身に気をとられて、まだその挙のないうちから、謙信は、天文二十二年のまだ弱冠のころに逸はやく上京し、時の将軍義輝を介して、朝廷に拝し、天盃を賜わり、種々の献上物を尊覧に入れなどして、臣謙信の把る弓矢の意義を世に明らかにしていた。
 つづいて、おととし永禄二年にも上洛した。度々の彼の忠誠に、朝廷におかれても、御感悦はいうまでもなかったが、関白の近衝前嗣などは、ひそかに彼のために.案じて、(遠隔の地、こうお留守になされては、御本国の領も、さだめしお心もとないことでしょう。あとの御守備はだいじょうぷなのですか)と、訊ねたことがある。
すると、謙信は、
(ほかならぬための上洛。領土のことなど、一向に捨て置いてもかまいません)
と、答えた。
▲UP

■「上杉陣」「武田陣」

<本文から>
  戦争とは、結局、人の力と力との高度なあらわれである。古今、いつの時代であろうと、その行動の基点から帰速まで人の力にあることに変りはない。政略、用兵、経済、器能の働きはもちろん、自然の山川原野を駆使し、月自烈日の光線を味方とし、暗夜暁闇の利を工夫し、雲の去来、風の方角、寒暑湿乾の気温気象にいたるまでのあらゆる万象を動員してそれに機動を与え、生命を吹き込み、そして「我が陣」となす中心のものは人間である、人間の力でしかない。
 また、箇々のものも、他に求められるまでもなく、各々磨かなければ、時代の戦国を生きぬいては行かれない。
 どしどし踏みつぶされ、落伍してゆく。
 惜しまれるものの生命すら、顧みられず、また、顧みる混もなく、先へうごいて行く世だった。惜しまれもせぬものの生命などは、何ともしない。
 わけていま、永禄四年ごろは、後の天正、慶長などの時代よりは、もっともっと人間が骨太だった。荒胆だった、生命を素裸にあらわしていた。
 越後衆も甲府衆も負けず劣らず、そうであった。
 対立して称ぶところの「上杉陣」「武田陣」というその「陣」なるものは、そうした人の力のかたまりであった。平常の心の修養と肉体の鍛錬をここに結集して、敵味方に不公平なき天地気象の下に立ち、
 「いで!」
 とたがいの目的、信念をここに賭し、ここに試そうとするものである。
 従って、その集結、その「陣」を構成している簡々の素質の如何によって、陣全体の性格と強勒かまた脆弱かのけじめが決まる。
 いま、千曲川をへだてて、雨宮の渡しにある武田の陣と、妻女山の上にある上杉陣とを、そうした観点から見くらべたところでは、いずれが強靭、いずれが脆弱とも思われなかった。どっちの陣営も、その旗の下にある宿将、謀将、部将、士卒まで、実に多士済々といってよい。
 名君のもとに名臣あり、ということばから推せば、その偉さは、やはり主将の信玄にあり、謙信にあるのかもしれない。
 越後の名臣と、世間から定評あるものは、宇佐美、柿崎、直江、甘糟だといわれているし、甲州の四臣として有名なものには、馬場、内藤、小畑、高坂がある。
 また、過ぐる年の原之町の合戦では、単騎、上杉勢の中へ奮迅して来て、二十三人の敵を槍にかけ、槍弾正という名を詣われた保科弾正や、それに劣らない武功をたてて鬼弾正とならび称された真田弾正のような勇士も、その部下にはたくさんいた。
 槍弾正も、鬼弾正も、甲州方の勇士であるが、上杉勢の下にも、武勇にかけてなら、彼に負けを取らないほどな者は、無数といっていいほどいる。
謙信が、人いちばん目をかけていた山本帯刀などは、阿修羅とさえ称ばれた者であった。いつの戦いでも、退け鉦が鳴って味方が退き出しても、いちばん最後でなければ敵中から帰って来なかった。そしてその帰ってくる婆はいつも兜のいただきから草鞋の緒まで朱に染まっていた。また、どんな大将首を獲っても、腰につけて持って帰ることはしなかった。
▲UP

■第4次川中島の先手をうった謙信

<本文から>
 これは余談だし、ずっと後の事でもあるが、繊田信長が桶狭間で義元の中軍へ突撃したときでも、その宮中に斬り入るまでは義元の居どころは的確に知れなかったのである。あなたこなた姿をさがすうちに、溜塗の美々しい輿があったので、初めて、ここと信念され、信長の部下たちは一層男気づいて功を競い合ったというほどである。
 そのほかにも、人いちばん要心ぶかい信玄には、八人の影武者があったなどともいい伝えがあるが、それまでにはどうあろうか。しかし、家康や信長などの陣中生活を見ても、本陣には名代を置いて、自分はひそかに前線の先手に立ち交じって直接に下知をしていたというような例はいくらもあるから、信玄にしても、常備八人の影武者はどうか分らないが、名代を用いた場合などは屡々とあったものと観て大過はなかろうと思う。
 それとまた「車掛り」の陣形そのものの効果にも疑問説がある。けれど山鹿素行の兵書によると、
 車ガカリハ敵方ノ備エ立テ三段四段ナルニ用ウレバ功大ナリ。コレハ小事トハ臼ウ。サレド大事二用イ、敵備エ十段十一段トナリテハ利アラズ。
 とあるのを考え合せると、輪形陣の価値は十分認めているが、相手の備え如何によることを強調している。この説に反対して、車掛りを否定している論者には、同時代の萩生徂徠などがある。徂徠は、武田方のこの時の陣形はいわゆる魚鱗十二段の重厚な構えであるから、謙信が車掛りを用いるわけはないというような点を強弁している。
 けれど、陣形というものは、常に変化をふくんでいるもので、虚即実であり、正即奇である。いつでも早速に相変化転するのが陣形の本質で、鶴翼でも蛇形でも鳥雲の陣でも、そのままに固執したりするのでは、死陣であって活陣ではない。
−車掛り!
 と、信玄が直感したせつなに、信玄が、原隼人正へ向って疾く疾くと味方の諸部隊へ伝令を急がせたのは、いうまでもなくそれに対する「変」を直ちに命じたのである。
 しかもこの場合、いささか信玄の面にも慌て気味のあらわれたわけは、この瞬間まで、彼は自分が、
(越後勢の機先を衝いている)
 と、信念していたものだった。妻女山へ奇襲攻撃隊を向けていることといい、ここに陣取って、それに依る敵の崩れを待ちぶせている要筆陣といい、すべて先手を取ってさしている将棋として局面を観ていたのである。
 ところが.
 その立場は逆転して来た。
 謙信はすでに、迷いなく、ここへ邁進して来つつあるのに信玄は、事態の直前に、味方の布陣を更えなければならないという必要に − つまり後手に立たされてしまったのである。
 若輩謙信に、いやしくも用兵の神智と技術において、この一手を見事出鼻にさし込まれた信玄としては、その老練な分別や、最後の必勝を信念しても、人間的に、
 「小さかしき謙信の振舞」
 と、感情を怒らせずにはいられなかった。その分なら目にもの見せてくれるぞ−との覇気に満々たらざるを得なかったのである。
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■信玄との一騎打ち

<本文から>
 何か、附近で、異様な大声がしたので、ひとしく、そこに在った顛が、うしろを振向いた払き、
 「信玄っ、そこかっ」
 と、巨大な猛獣に踏み股がった巨大な人間のすがたが、ふたつの昨では見きれないほど、すぐ前に大きく見えた。
 −あっ.謙信。
 ここにいた者は直感したにちがいない。帷幕のうちではあり、君側まぢかにいた人々はみな檜とか長巻とかの武器は持っていなかった。また一時に、
 「すわ」
と、狼狽した味方同士のあいだでは、太刀を引抜く間隔さえお互いに保ち得なかったので、
 「おのれッ」
 ひとりの法師武者は、そこにあった床几を遠く投げつけた。
中ったか、中らないか、床几の行方も知れない。ただ雨の如く杉の柴がこぼれ落ちた。その巨杉の横枝へ、馬上の謙信のすがたは支えられたかと思われたが、届身、一躍すると、もう混雑の人々の中へ放生月毛の脚は踏みこんでいた。
 「くわッ」
と、響きがした。
 謙信のロから発した声か、挺下ろした小豆長光の肯か、せつなに、一人の法師武者は、彼の切ッ先からよろよろと後ろに什れ、陣幕の紐を断って仰向けに転がった。
 しかし、それは、信玄ではない。−信玄は、身を避けて、あだかも薮の中へ胴を潜めた猛虎のように、双の眼をひからせて、謙信のすがたを見ていた。
 いや、その時が、それを見るというまもなかったほどである。謙信は、右覗きに、一太刀伸ばした体を左転して信玄のほうへ向けるや杏、ふたたび、
 「かっッ」
と、さけんだ。
 正しく、こんどのものは、謙信の腹の底から出た声である。信玄は突嗟、右手の軍配団扇を伸ばし、わずかに面を左の肩へ沈めた。
 しびれた手から軍配団扇を捨てた。そして大鳳が起つように身の位置を変え、太刀のつかへ手をかけたとき、謙信の二太刀目が、彼の転じたあとの空間を斬った。
 その、せつなであった。
御小人頭の原大隅は、彼方に落ちていた青貝柄の槍を拾って、
「うわうっ」
と、噛みつくような声を放って駆けて来たが、主君信玄の危機、間一髪に、その槍で、馬上の敵を突き上げた。
 謙信は、見向きもせず、
「横山、卑怯なるぞ」
 と、三太刀めを振りかぶりながら、馬ぐるみ、信玄の上に確りかかろうとしていた。
 右の腕に負傷した信玄が、その肘を抱えたまま、身を翻して、後ろを見せかけたからである。
 その後ろ肩を臨んで、小豆長光のひかりが一閃を描いたが、ほとんど同じ一瞬に、放生月毛は一声いなないて竿立ちに脚を上げてしまった。−余りに気の急いた為、一檜、むなしく突き損じた原大隅が、
 「ちいッ」
 と、ばかり反れ檜を持直して、謙信の馬の三射有力まかせに撲りつけた為であった。
▲UP

■第4次川中島の真の勝利は

<本文から>
 そこでこの永禄四年の川中島の大戦というものは、いったい甲越のいずれに真の勝利があったものか、武門はもちろん世上二一般の論議になり、ある者は、謙信の勝ちといい、ある者は信玄の勝利といい、当時からすでに喧しい是々非々が取交わされていたらしい。
 太田三楽入道は、戦国の名将として、妙なくも五指か七指のうちには数えられる兵学家の一人であるが、その人の戦評として、次のようなことばが伝えられている。
 「川中島の初度の槍(明方より午前中の戦況)においては、正しく十中の八まで、謙信の勝目なりと いっても誇張ではない。陣形から観ても、上杉の先鉢はふかく武田勢の三陣四陣までを突きくずしておる。かつてその旗本まで敵の足に踏みこませた例はないと誇っていた信玄の身辺すら、単騎の謙信に踏み込まれたのを見れば、いかに武田軍が一時は危険なる波乱状態に陥入ったか想像に難くない。かつは、有力なる大将たちも、幾人となく、枕をならべて集れ、信玄父子も傷つき、弟の典席信繁までが討死をとげたことは、何といっても惨たる敗滅の一歩てまえまで追いつめられていたことは蔽いようもない事実といわねばならん……けれど、後度の戦(午後より夕方まで)になっては、まったく形勢逆転して、十に七ツまでも、信玄の勝利となったは疑いもない。
 この転機は、妻女山隊の新手が上杉軍の息づかれを側面から衝いた瞬間から一変したものであり、上杉方の総敗退を余儀なくされたのは、首将謙信自身、陣の中枢を離れて、一挙に速戦即決を迫らんとしていたのが、ついにその事の半ばに、敵甲軍の盛返すところとなったので、謙信の悲壮窮まる覚悟のほどを思いやれば、彼の遺恨に対して一掬の悲涙なきを得ない。−一しかし、や上のように双方を大観すれば、この一戦は、勝敗なしの相引というのが公平なところであろう」
 太田三禁の戦評のほかに、徳川家康が後年駿府にいたとき、元、甲州の士だった横田甚右衝門とか、広瀬共演などという老兵を集めて川中島の評判をなしたことも伝えられている。
 家康がいうには、
 「あの折の一戦は、甲越ともに、興亡浮沈のわかれともなるところだから、軽々しくうごかず
大事最ったことは、双方とも当然といえるが、それにしても、信玄はちと大事を取過ぎている。謙信が妻女山の危地に拠って、わざと捨身の陣容をとったことに対し、信玄は自分の智恵に智空けの形が見えた。また、九月九日の夜半から暁にかけて、謙信が妻女山を降りて川を捗る半途を討つの計を立てていたら、おそらく越軍の主力は千曲川に漬滅を遂げたにちがいない。それを八幡原に押出して、相手の軍が、平野を踏んでから後を撃つ構えに出たのは、信玄に似あわしからぬ落度である。要するに信玄は、謙信の軍を観て、首将謙信の心事を観ぬくことが少し足らなかった」
 なお、兵学蒙の一芸なども、いろいろあるが、総じて、三楽と家康の批評にほぼ尽されている。
 ただ、なおここで、現代から観ていいうることは、信玄はあくまで物理的な重厚さと老練な常識を以て臨み、謙信はどこまでも、敵の常識の上に出て、学理や常識は想到し得ない高度な精神をふるい起して、この戦いをこれほどにまで善く戦ったということである。
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■謙信の晩年の心境

<本文から>
 義清は真っ蒼になっている。聞き澄ますその薄い耳たぶにも血の色はなかった。
「−さるにこの謙信が、何故信玄と長年戦って来たかと申せば、元来、謙信には謙信の信条があってのことです.自分、年二十三にして、初めて、国内平定の業一まず備わり、微勲天聴に達するところとなり、畏くも、叙位任官の便寵を賜う。−微購、遠くに坐ら、またひとたびの朝敷もせず、さきに優渥なる天恩に摸す。勿体なきことの極みと、すなわち翌年、万難を排し、上洛して、闕下に伏し、親しく咫尺を拝し、また天盃を降しおかる。…実に謙信が弓矢把る身に生れた歓びを知ったのはこのときにであった。戦わん、戦わん、この土にうけた生命のあらん限りはと、戦うことの尊さ、戦うことの大なる意義、それらのことどもも、同時に、肝に銘じ、心魂に徹し、わが生涯は御階の一門を守りて捨てん。悔いはあらじと、深く深く心に昔うて退京いたした」
 「……」
 「爾来、謙信の弓矢は、それ以外に、つがえたことはない。こえて永禄二年初夏、ふたたびの上洛にも、その前の折にも、長くも、綸旨を降しおかれ、隣填の乱あらば討つべし、皇土をみだし、民を苦しめるの暴国あらば赴いて平定せよと、不才謙信に身にあまる御諚であった。およそ臣子の分として、この叡慮にお応え申し奉らぎるものやあろう。遠く、この北越の辺隅にあっても、一日とて、そのありがたい優諚をわすれたことはない。いわんや、兵をうごかすの日においては−」
 夜は時雨となったらしい。雨樋をあふれる雨だれの音が烈しく軒下を打つ。
 禅家にも似た道者羽接、鶯茶の頭巾、室に妻もない謙信であったが、烈々、こういう問題に真情を吐き出してくると、そのひとみは実に若い.ともすれば義清とともに涙を沸らせてしまいそうであった。しかし義滑の眼は飽くまで小乗小愛の悔みに溺れ、彼の眼は大乗の海にも似て、満満たる涙をたたえながらも、なお仰ぐ人をして、何か洋々たる未来と曖昧を抱かしめる。
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