吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     平将門

■男女生活は原始的なまま、肉の意志のままに振る舞う

<本文から>
 彼女は、一心に、小次郎を想っている。小次郎は、かの女が告げた恐しさより、べつなものに襲われた。すぐ取って喰べてしまいたいような衝動に駆られ、アイヌ族の特有な梨の花みたいな肌をすぐ頭にえがいた。
 「…ね。ですから、ここは出ても、遠くへ行くのは、およしなさい。武蔵野は通ってはいけませんよ」
 蝦夷萩は、それだけ告げると、暗い床むしろを、後退りに、出て行きかけた。
 −と、小次郎の鼻に、彼女が日ごろ髪につけている猪油のにおいが、ぷうんと触れてきた。彼の影は、それを嗅ぐと、動物的に、跳びついて、香うものの焦点へ、ごしごし顔をこすりつけた。蝦夷萩は、鼻睦からひくい坤きに似た息を発し、身を仰向けに転ばして、嬉々と、十四の少年が、なすがままにまかせていた。
 まだ、人間たちの間には、人間の自覚すら、殆ど、稀薄な時代であったから、わずかに、夫婦の制度とか、妻の認知とかいう−本能と愛憎と専有慾を基とした、ごく単純な社会約束はあっても、男女生活の、多岐多角なすがたには、なんの思考も持たれてはいなかった。恋愛はしても、恋愛の自覚はないのだ。原始的なしきたりのまま、肉の意志のまま、振る舞うことが、人間として出来る何でもない行為の一つというに過ぎない。
 都人の風習は、上下一般に、早婚だった。男は十二、三歳から五、六歳迄に、女は九歳から十二、三歳といえばもう嫁いだ。放っておいても、小さい彼氏や彼女たちは、童戯のように、肉体の交わりも、卒業してしまうからである。それは、大人のまねでもあった。男女の大人たちは、その事をそう秘密に、不自由に、個々として、行ってはいない。いくらでも、童女童子たちは、それを見ることができる。見ればまねするし、まねすれば、喜悦であるし、習性づいてくれば、肉体も性情も、自然の状態に従ってくる。
 宮廷の人々から、一般の都人さえそうだから、この坂東地方などは、原始人時代の男女間から、まだいくらも自覚の男女に近づいてはいない。略奪結婚も、折々あるし、恋愛争奪戦争に、家人奴僕を武装させ、鉄を射つくし、矛に血を飛沫かす場合も稀ではない。
 宮廷の歌壇のように、夜もすがらの神前で、かがりも焚かず、他の人妻と他の人未が、閣の香を、まさぐり合う祭りに似た風習など、この豊田郡、相馬郡の辺りにも、広く行われていた。
 蝦夷萩は、十六だったから、奴隷仲間で、ただ措かれているはずはないし、二ツ下の小次郎とて、決して、彼女との馬糧倉が、初めてだったわけではない。
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■悶々とした都暮らしの将門

<本文から>
  東国の客、秀郷が、右大臣家を訪れたさい、主の忠平が秀郷にもらしていたことばに依って、彼は、自分の運命の前途が−いや、前途も何もない、これッきりなものだという運命を−初めて、身に知ったのであった。
「大叔父の国香も、ほかの叔父めらも、ていよく、おれを故郷から追ったのだ。…右大臣家への、頼み状は、おれを都へ捨て子する、身売り証文もおなじだったのだ」
 今にして、それを知ったものの、東国の還さ、現在の境遇。−うらみは、独りの中で悶々と、独りを燃やすだけに過ぎない。
 −故郷の小さい弟どもは、どうして居るか。牧の馬は、どうなったろう?
 郷愁も、また、不安を手つだう。
 殊に、大叔父の国香の、肚ぐろい遠謀が、あきらかに、読めてきた今では、都にとどまって、空しい希望にすがるよりは、いッそ、東国へ帰ろうか − とは、何度も考えたことだった。
「だが。帰ったら、叔父たちが、どんな顔するか。大叔父たちの勢力をむこうにまわして、自分の小さい力が、どれほどに対抗できるか?」
 必然な、恐いものが予想されてくる。おそらく、自分の帰国を待つものは、弟と、馬ぐらいなものだろう。たくさんな奴舛、家人とて、信じられない。いわんや、大叔父たちを怖れている一族がいい顔して自分を迎えるはずはない。− こうふりかえると、帰国の途への不気味さは、都にとどまる空しさより、もっと暗い予感と、怨みとを、伴うのであった。
「…いや、今は帰るまい。帰ってもだめだ。おれさえ、一人前に成長すれば、自然、時が解決する。…また、いつかは、忠平公も、事情を知って下さるだろう。辛抱のしどころだ」
 小次郎は、思い直した。
 かくて、ひとりの輩舎人は、せッせと、輩の輪を洗い、牛を飼い、日ごと、参内する主人の轅に従って、勤勉を旨とした。
 そして、大内真の供待では−
「繁盛どのは、来ていないかしら。あの頼みは、どうなったろう」
 と、いつかの約束による彼の返事を楽しむことも久しかったが、繁盛の主人九条師輔の輩がここに見える日でも、繁盛のすがたは、あれきり見かけない。
 年は暮れて、延長二年の春、忠平は、左大臣に昇った。
 任官式やら、諸家の貿の参礼やら、春日社参やら、ひとりの大臣の昇格に、朝廷も洛内も、まるで国家の慶事みたいに騒いでいる一日。−左大臣家の玄関へ、″勧学院の歩み″が賀をのべるために、練って来た。
″歩み″というのは、行列の意味である。
 勧学院出身者の、同い年ぐらいな学生や公達が、冠のおいかけに、藤の花を挿し、直衣の色や沓までもおそろいで、華々と列をつくり、祝う館の玄関へ来て、賀詞を呈し、賀を唱歌して、ひきあげてゆく。
 藤原氏の誰かが、昇官したとか、朝廷によろこびがあるとかすると、かならずこの″勧学院の歩み″を、そこの門に見るのが、例であった。もともと藤原氏が創て、藤原氏の保護のもとに、学院経済も維持されているためである。
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■死にもの狂いに働いたため大飢饉でも豊田郷は富を増し人も集まった

<本文から>
  彼は、世間に耳をふさいだ。家人や奴婢が、外から何を聞いて来て告げ口しようと、笑っていることに決めた。
 開拓しさえすれば、新たな農田は、無限に獲られた。山林を伐り、沼を埋め、治水に励み、そのとし一年だけでも、豊田郷の面積と農産は、面目を、あらためた。
 折ふし、承平二年から三年にかけては、全国的な大飢鍾が、日本の緯度を、見舞っていた。
 秋には、寒冷がつづき、翌年五月には、杏花の候というのに、各地で降霜を見、その夏にはまた度かさなる台風の襲来と、洪水の出現だった。
 そのため、二年目の秋には、地方の調貢(税物)が、まるっきり都へ送られなかった。
 天皇は、詔した、常の御膳部の量を、四分ノ一に減じられた。
 (−更ニ、服御ノ常膳ヲ、四分ノ一二減ゼヨ)
 という、倹約のために諸卿へ範を示された詔は、一年に二度まで、発せられた程である。
 おまけに、比較的、被害のない四国、九州などの西海地方では、海賊の蜂起が、頻々として、聞えた。
内海の海賊は、都の官庫へ輸送されてくる調貢船を狙っては、襲った。
「伊予の純友だ。…鈍友のしわざだ」
 と、それも、都の不安に、輪をかけた。
穀倉院の在庫高は、洛内の窮民に、施粥の炊き出しをするだけでも、日々、気がひけるほど減ってくる。大炊寮の廩院では、督促たちが、青くなって、全国の庄家(荘園役所)にたいし、私田、公田の徴税と輸送を、督促するのに、眼のいろを変えていた。
 当然、各地とも、微物使(徴税更)の取立てが、苛烈を極めた。
抗するにも、訴えるにも、何ら、法の庇護をもたないこの時代の無力の民は、どんな苛斂誅求にも服すしかない。膏血をしばっても、出さねばならない。
 平安赤の民の、その頃の民謡に。
  挿し櫛は
  十余り七つ
  ありしかど
  武生ノ掾の
  朝に取り、夜さり取り、
  取りしかば
  挿し櫛もなし
 わずかな税物の代りすら、髪飾りすら、地方の掾の下吏に持って行かれたと嘆いている土民の妻の顔が目に見えるような謡である。そのうらみを、後々まで、地方の子等は、無心に、謡っていたもの見える。
 が、櫛−おろか、自分たちの露命をつなぐ、何物すら無くなってしまうと、彼らは、最後の手段として、小屋を捨て、郷を捨て、一家離散して、思い思いに、自分の身を、奴隷に、落した。
 寺院であれ、官家であれ、豪族の家人であれ、どこでも、力のある所へ、奴稗奴僕として、奉公するのである。そういう、無籍の民には、税は負わせられない。つまり、身をすてて、税の負担から遁れるのであった。
 そういう逃散の流民が、将門の豊田郷にも、おびただしく、入りこんで来た。
 将門は、追わなかった。むしろ、幸いとして、
 「食えない者は、おれと働け、働くところに、飢鍾はない」
と、かかえ込んだ。そのため、館の大家族形態は、膨脹するし、郷民は殖える一方であったが、急開拓の火田法なども用いて、およそ二年半、死にもの狂いに、結束して働いた。
 世は、承平の大飢饉と云われた程なのに、豊田郷は、この期間に、かえって、富を増した。
 朝廷から任ぜられていた相馬御厨からの御料の納物は、春秋とも、きちんと都へ送っていたし、租税も完納できた。
 また、さっそく、種つけし始めた牧の牝馬は、みな仔を生み、明けて三歳の春駒や、二歳、当歳仔が、大結ノ牧に、群れ遊び、むかしに近い景観を呈し始めても居る。
 いや、もっと、大きな力を加えたことは、隣郡の結城や狭島の小武族が、帝系桓武の末流という魅力にひかれ、また実際に、彼の努力やら、豊田郷の勃興を見て、将門の館へ、何かと、誼みを通じてきた事である。
 それにたいしても、彼は、
「うむ、一つになるか。よかろう。小さく、こせこせ、触り合うよりは、再となって、力をむすび、深く根を張って、大木となろう」
 来る者は、拒まず、誰とでも、杯をくみ交わした。彼にはどこか、そんな風に慕われる親分肌な人がらがあったとみえる。関東八州は、後世まで、ややもすると、杯によって義を約す侠徒の風習を生じたのも、遠く、平安の世の坂東時代、この辺の原始制度の中で強く生きるために自然に仕組まれた族党結束の名残りと云えないこともない。
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■将門の妻子の斬殺

<本文から>
  凱旋の途中で彼は、将門の妻子の居場所を知ったのである。で、そのため急に、道を変えたのだ。鴻野、尾崎、大間木、声ケ谷と水路に添って来るうち、ふと、湖の東岸に近い芦の中に、三艘の苫船が、舶を入れているのを見つけた。しかも、その一艘の苫には、嬰児の褓が干してあった。
「あれへ、射込んでみろ」
 良兼は、兵に弓を揃えさせた。
数百箭の矢かぜが、一せいに、苫へむかって、放たれた。堪るものではない。苫の下には、何とも、名状しがたい人間の悲鳴が起った。
 桔梗の守りについていた十数名の郎党は、いちどに、船を躍り出して、
 「これ迄」と、船を近づけ、阿修羅になって、斬りこんで来たが、多くは、矢に中って、水中に落ち、岸を踏んだ者も、なぶり斬りになって、討死にした。
 その表に、良兼の部下が乗って、すぐ他の二般を、岸へ曳いて来た。表は、女房や女童ばかりである。良兼は、
「桔梗を溺めろ。ひきずり上げて、縄をかけろ」
と、わめいていた。然し、船が、岸近くへ、曳かれて来る迄に、桔梗は、将門との中に生じた−この春、生んだばかりの愛しい−あれほど夫婦が珠と慈しんでいたものを、眼をとじて、母の手で刺し、自分もその刃で、自害していた。
 良兼は、何か、彼女の行為が、非常に面憎い気がした。−彼はなお今でも思いこんでいる。かつて、自分の愛妾玉虫が姿をかくしたのは、将門が盗んだものとしているあのときの感情だ。その報復をなすべきものを失った為の業腹であったにちがいない。桔梗の死骸を、水底に蹴落し、なお罪のない女童や侍きの女房たちまで、部下の惨虐な処置に委して、羽鳥へ引き揚げて行ったのだった。
 −それが、きのうの、夕暮であった。
 酸昇をきわめた辺りの状は、なおその礎で、余りの生々しさに、鵜も近づいてはいなかった。
 将門は、一たんは、たしかに、狂いにちかい発作をやった。突くとも喚くともつかない怒号をつづけて暴れ狂った。醜態といえば醜態なほど嘆いた。けれど、この時代の境野の人間は−いや、たしなみある都人の間でも、喜怒哀楽の感情を正直にあらわすことは、すこしもその人間の価値をさまたげなかった。将門の部下は、むしろ、将門がだらしのないほど、突いたり狂ったりするのを見て、心を打たれた。そして彼らも又、おいおいと手放しで泣き、湧水をすすりあい、そして温かに筑波の山影を望んで、
 「みろ、みろ、おのれ鬼畜め。わすれるな良兼」
 と、拳を振るもあり、眦を裂いて罵る者もあった。
 彼らのような半原始人のあいだにも、なお女性や幼い者への愛しみはあった。いや弱くて美しいとなす者を虐げる行為を憎む感情は、道徳概念ではなく、本能のままの強さを帯びていた。
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■将門が皇位を称しために都も追討を本格化した

<本文から>
 武蔵の百済貞連を始め、諸国の介や掾も、前後して、太政官へ駈けこみ、
 「いまさら、将門謀叛などと、上訴に及ぶも、事古しです。事態は、そんなどころか、もう天下の方乱で、駿河以東には、朝廷も中央の命もあったものではありません」
 と、極力、言を大にした。そして吏事根性の常でもあるが、自己の無能を、天災時のような不可抗力のものに、見せようとした。
 それだけでも、洛中は、不安に明け、不安に暮れた。上下、個々と暮も正月もない有様だった。すると時も時、こんどは、南海の剰賊藤原純友を討伐に向っていた官軍が、大敗戦をまねき、備後介藤原子高が、海賊軍の捕虜になった−という不吉な報がはいって、堂上輩を、仰天させた。
 「南海の賊と、坂東の大乱とは、別なものではない」
 「純友と将門とは、かねてから気眠を通じ、軍を同時に挙げたものだ」
 公卿首官の驚きようと、そして恐怖の声は、もう頂点という有様だった。
 勅使は、奈良へゆき、叡山にむかい、また洛中洛外の山々寺々に命じて「逆賊調伏」の祈帝を修せしめた。
 祈祷。−じつに、祈祷以外の処置も政策もない政府だった。
 時に、太政大臣の藤原忠平も、もう齢六十をこえ、政務は多く子息の大納言実頼と、権中納言師輔にまかせきっている。しかし、将門問題については、この父子の意見が、一致していなかった。
 「わしは、将門という人間を知っておる。愚直だが、侫奸ではない。よく、人に訴えられてばかりいるが、何かのまちがいであろう。いわんや、大それた謀叛なピを企む男とは思えぬ」
 これが、忠平の観ている将門であり、従来からの、彼の情勢判断の基調となっていたのである。
 ところが、子息の実頼や師輔の考えは、まったく違う。
 こう二人は、貞盛の報告や、貞盛の訴えに、まったく同調していた。
 「父君は、あまい。どこやら、もうろくしていらっしゃる」
 「いや、むかし、わが家の青侍に置いたことのある将門なので…」
 「うむ。人情、やはり肩を持ってやりたいのであろ」
 「それもあるし、とかく、時勢にも、どこか、おうとくなられても居るし」
 そんなふうに、忠平の判断は、将門の肩持ちにすぎないもの、そして、老父が一片の私情であると、頭から決めてかかって、従来、幾たびかの対将門方針を選ぶばあいにも、「まあ、まあ」と、片づけておくだけで、これを朝議のうえでは、採らなかった。
 で−これまでの間、糺間使を派すにも、処断を下すにも、つねに、煮えきらないような中央 の東国対策の裏面には、執政父子のあいだの、こういうもつれや、意見のくいちがいも、多々、原因をなしていたものにちがいない。
 ところが、こんどは、捨ておけない。坂東の将門は、皇位を僣称し、みずから、居る所を、王城に擬し、左右の大臣を任命したり、一夜拵えの文官武官に、勝手な叙目を与えて、その勢威は、ほんとうの天子のようだという噂が、都じゅうに拡がった。
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■あっけない最期、慕われた一族

<本文から>
 戦い疲れた顔が、兜の重き、矢のとまった圧力に、がくと、首の骨が折れたように、うしろへ仰向いたと−見えただけである・
 馬から、どうと、地ひびきを打ってころげ落ちた体躯へ向って、忽ち、投げられた餌へ痩せ犬の群れが懸るように、わっと、真っ黒な雑兵やら将やらが、寄りたかっていた。あっ気なく、天下の争乱と云い囃すには、余りにも、あっ気なく、相馬の小次郎将門は、ここに終った。
 その陣没は、天慶三年、二月十四日。時に、年歯はまだ三十八歳であった。
何があっ気ないと云って、史上では、将門の死ほど、あっ気ないものはない。
 が、彼としては、精いっぱい、生きるだけ生き足掻いた事ではあった。
 だが、彼が生存していては、自分の生存に都合のわるい人々が、彼を死へ急がせた。なぶり殺しにしたと云ってもよい程に。
 この日、彼に殉じて、斬り死にした者、百九十七人というのが、後に、下野の国庁から都へ報告された数である。
 彼の首が、都へついたのは、四月二十四日といわれ、遺骸は、江戸の庄芝崎村の一寺や、あちこちの有縁な地で、分骨的に葬られ、それが後世の塚や遺跡などになっている。死後には、案外、彼を慕い、彼を憐れむ者が、坂東地方には多かった証拠と云えよう。
 弟の御厨三郎将頼は、相模へ落ちのびる途中、追捕の手に打たれ、藤原玄明も、常陸で殺された。興世は、上総の伊南で、射られた。
 将平は、陸奥へ逃げ入ったともいわれ、将武は、甲斐の山中まで落ちながら、やはりまもなく命を終っている。然し、それらの将門の弟たちの没命地にも、土地の人々の手厚い埋葬があったとみえ、みな地方地方で網とか村社みたいな森にはなっている。
 江戸の神田明神もまた、将門を祀ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。
 初めて、将門の冤罪を解いて、その神田祭りを、いっそう盛大にさせた人は、鳥丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、
 「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」
 と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りとも云ったという。
 旧、大蔵省玄関前には、明治頃まで、将門の首洗い池があった。また、日本橋の兜神社、鎧橋などの名も、みな将門の遺骸とか、遺物とかに、恨みのあるものと、云い伝えられている。
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