吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新書太閤記 9

■民の力の大示に勝る力を見ず

<本文から>
往時、浅間山が大噴火すると、麓の村々は、一夜にすがたを消し、地物はみな灰の下になったという。灰が土と化し、木が生え、畑ができ、村ができると、また大噴火があったという。
 しかもいつかまた、村が創ち、町につづき、雛の節句には、草餅をつき、秋の月見には、新酒で蕎麦を喰べたという。
 史上の、いかに烈しい戦乱といえ、それによる転変といえ、この民の力の大示に勝る力を見ず、この不境不屈な業に比類するものもない。
 それと戦いとは違うが、民の性根というものは、これ程なものだというには、証し得て余りがあろう。
 また、その克己と、戦いの難苦とをくらべれば、戦火のごときも、物の数でばない。いかに烈しかろうと、人と人との戦いだというに尽きる。
戦国時代の民が、のべつ戦乱の中に置かれながら、あの大どかを持ち、ついに醍醐桃山の文化を築いたのも、元来、こういう性根の民だったことを思えば、驚くには足らないことであるかもしれない。
 しかし、古来からあの当時までも、ひとたび戦争となれば、その領辺一帯には、早くも敵国兵の姿を見、春ならば麦を、秋ならば稲を、農田のあらゆるものまで、焼かれ、刈られ、掠奪され、家は勿論、ぱりばり焼き立てられたものだった。
 村落を焼き、町を焼き、橋を焼き、敵を断つ。−これは攻城野戦ともにやる常套的な正攻法で、兵家としてはい頂ことに陳腐な一攻手に過ぎない。
−が、百姓町民はその都度に会うことである。火に追われ、流れ弾や、白刃素槍にも見舞われる。血にすべり屍につまずき、落ちてゆく山地の夜には、また、瓢盗無頼の徒が待っていた。
 この民に、食を供与してくれる者はなく、却って、彼らが持って逃げたわずかな食糧をも、これを奪う者のみが、野や山にはまだ多かった。
−が、こういう後にも、なお彼らが、再び群をなして、何処からか焼け跡へ帰って来る姿を見ると、幾日も幾日も、喰う物とてなかった菩なのに、−しかも非常に明るくて和やかで、もう明日の希望にかがやいていた。
 何が、彼らをして、こう不死身にしたかといえば、それは、物乏しければ乏しくなるほど、彼らは相見互に扶けあい、心と心とのやりとりをもって、より強く美わしく、生きる道を知っていたからだった。
 そして、田に帰ればまた、黙々と田を耕し、町へ帰ればまた、孜々として、小屋を建てた。
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■秀吉はただ迅速だけでなく頭脳を精密に働かせていた

<本文から>
機変に当って、ただ迅速を能としたのみでなく、いかに彼がその頭脳を精密に働かせていたかは、川角道億の一文が最もつぶさにその状況を活写している。
 −道々の在々所々の庄屋、大百姓ども召寄せられ、馬の食をば合せ糠にせよ。
  先手先手に、持たるたしなみの米を出し炊せよ。米の算用は、百姓ばら自分の米な  らば、十層倍にして、後に取らす可き者也。急げ急げと、御自身、お触れ候。
  飯出来候はば、あき俵をさき、俵の端をば其偉おけ。俵を二つに切りあけ、塩水
  のからきを以てよくしめし、食を入れよ。出来候はば、牛馬に付けさせ、賎ケ嶽を心がけ、急ぎ参るべきなり。
 合せ糠には、木の枝か、紙など印につけよや後より人数つづかば、草臥れだるもの多くある可きなり。「これは食にて候、参る可し参る可し」と言ひ聞かせよ。さだめて皆、喰ふべき者多くある可き也。ばい(奪い)とる者あるならば、其優とらせよ。「きるものに御包み候へ」「手拭などにも御包み候て然る可し」と、おしはなし取らす可き也。
  たとへばい(奪い)とる食も、先へ持ち乗りなば、みな用に立つべき也。食かと思ひとる者あらばこれは「御馬の合せ糠にて候が、御用に候はば、之を進ず可し」と、是も相渡すべきもの也。
この周到な用意は、またよく人心の機微をもつかんでいる。その時代の性格として、軍民の真の同苦協力はまずむずかしかった。捨身の将士と私情の領民との一結し難いものを、苦もなく一縄に率いてこれを鼓舞している。
 戦いである以上、秀吉とて、実は、勝敗の帰結は期し難いものを、われ勝てりと、士気すでに沖天、希望の大道を″目にも見よ″と、民衆に見せ示していた。据わぬ領民のあるはずはない。
 持出し米は、一戸一升と触れても、彼らは五升一斗と担いで来る。老人子供は家に在れといっても、薪をかつぎ水を汲んだ。通る武者へ湯を捧げ、食物を供した。
 純な一途と情をもって、女たちもよく働く。殊に娘たちの打ち撮る手や送る目も、また若き武者ばらに愛護の念を抱かせた。
 縢、松明は道のかぎり、延々と光焔を連ねた。その火は町から村を縫い、湖畔の水に映じ、山蔭山裾にそい、陽も落ちて、夕闇せまる頃は、一大美観を現じていた。
 馬上に握り飯を取って喰い、湯柄杓で寸時の渇を医したぐらいで、秀吉は、疾くに長浜を出、曾根、速水と駈けつづけていた。−そして目ざす木之本に着いたのは、まさに戌の刻(午後八時) − 夜なお宵であった。
 大垣から通算およそ五時間。一気に走破して来たわけである。当時としては超々速度といっていい。が問題は速度ではない。彼の大気明快な統率と、無碍自在な方略の断にある。
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■秀吉の戦法は衆をもって寡を討つもの

<本文から>
 世人はよく評していう。
 秀吉の戦法は、常に、衆をもって寡を討つものであり、この点、信長とは大いに趣を異にする − と。
 中っていない、と秀吉はいうだろうと思う。
 なぜならば、小より大がよく寡より多の方がよいことは平凡な道理であって、戦略や信条といえるものではない。できれば誰でもそれを択るであろうことは言を侯つまでもない。
 秀吉の場合は、この平凡な道理に従サて、常時、戦のない日でも、それを戦務と政略に、孜々、心がけて来ている結果のものなのである。
 そして、いざ戦闘にも、
 −五指ノ弾クハ、一挙二如カズ
 の古語を践んで、一玄蕃を粉砕するにも、美濃から引ッさげて来た全軍を注いだのである。−が、彼はその量をもって妄信している愚者ではない。−五指は彼の部下であり、五指をもって一挙の力となすには、自身、陣頭に立つことであるを知っている統率の体現者であった。統率こそ、彼の本領であり、彼の真面目のあらわるるところといえよう。
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■勝家の賤ケ岳敗因は異体脆弱なものをかかえていた根本的な誤謬

<本文から>
 もし彼が、積極的に玄蕃允盛政と力を協すとしたら、茂山、足海の緑でも、長途の兵たる秀吉方をして、ああまで思いのまま蹂躙させるようなことはなかったろう。
 彼の近臣、小塚藤兵衝、木村三蔵、その他数輩は、力戦して、ここに死す−とは「前田創業記」などにも見えるが、その力戦も、実は、消極的な退軍の怪我だったに過ぎない。
 為に、戦後には、
 (前田父子は、あの日すでに、前夜から秀吉の密書をうけて、当日の裏切を約していたものだ)
 と、世上から推察され、
 (そういえば、あの前夜、前田どのの陣中へ、百姓ていの男ふたり、書状をたずさえて御陣中へ紛れ入り、その夜半から、茂山の葦が、わざと明々と、朝方まで焚かれていた。あれも、秀吉方へ応ずる、何かの火合図であったとみゆる)
 などと巷の批判まちまちであったが、これは、巷説の常として、少し穿ちすぎている。事実はいつも複雑に似て単純だ。それを複雑怪奇にするのは、世上の臆測観察の業である。一の実相にたいして、分解に分解を試み、さらに分解を附加して、相迷うところから生じるものに他ならない。
 −彼は柴田と同敵でありしか共、昔よりの誼み深かりけり、内々、秀吉に心を通じければなり
 「豊鑑」の著者が、その点、一言でこの問題を尽くしているのは、世の虚相に迷わされない評といえる。
 利家の一女は、秀吉の養女になっているとか、利家夫妻の仲人は、秀吉であるとか、内輪事はまず措いても、いわゆる男子と男子の刎頸のちぎりにおいて−彼と彼とは、一朝一夕の交友ではない。
 おたがい、若い頃の、破れ垣、夕顔棚の貪乏暮しのときから、褌一ツで、肝胆のかたらいもし、出ては、莫迦もしあい、ときには喧嘩もし、
 (貴様の、いいところには、ずいぶん惚れるが、阿呆なところには、つきあわんぞ)
 一方がいえば、一方も、
 (おぬしの短所は、あいそがつきる。が、俺にとっては、手本になる。そのため、つきおうてくれるのだ。俺に、阿呆なところがあれば、おぬしの、よい手鑑、良友と思うて粗末にすまいぞ)
 いわば、こんな風に、底の底まで知りあって来た仲である。−当時すでに上将として臨んでいた柴田勝家と、こうして今日に会した二人の仲とは、だいぶわけが違う。
 − 仲の味がちがう。
それを、勝家ほどな老将が、利家の領国が、自己の完全勢力圏にあるというだけを利して、この大決戦に当るに、前田父子の兵力を加算してかかったばかりか、賤ケ嶽方面にこれを配置したなどは、すでに、敗れぎる前の敗れというほかはない。悼むべからぎるものを悼んで出た−失策たるは争えない。
 賎ケ嶽、柳ケ瀬の戦いを通じ、柴田の敗因は、一に玄蕃允の"中入りの居着"にありとされてあるが、こう観じてくると、むしろ玄蕃允の失策は、局地的であったに反し、勝家の誤謬は、それ以前に、異体脆弱なものを、敢えて、内容にゆるしていたという根本的な誤謬を冒していたことがわかる。
 敗因は、おおむね、内にある。−内に敗るる者の敗れ−は、古今を通じての戦の定則である。
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