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<本文から> 往時、浅間山が大噴火すると、麓の村々は、一夜にすがたを消し、地物はみな灰の下になったという。灰が土と化し、木が生え、畑ができ、村ができると、また大噴火があったという。
しかもいつかまた、村が創ち、町につづき、雛の節句には、草餅をつき、秋の月見には、新酒で蕎麦を喰べたという。
史上の、いかに烈しい戦乱といえ、それによる転変といえ、この民の力の大示に勝る力を見ず、この不境不屈な業に比類するものもない。
それと戦いとは違うが、民の性根というものは、これ程なものだというには、証し得て余りがあろう。
また、その克己と、戦いの難苦とをくらべれば、戦火のごときも、物の数でばない。いかに烈しかろうと、人と人との戦いだというに尽きる。
戦国時代の民が、のべつ戦乱の中に置かれながら、あの大どかを持ち、ついに醍醐桃山の文化を築いたのも、元来、こういう性根の民だったことを思えば、驚くには足らないことであるかもしれない。
しかし、古来からあの当時までも、ひとたび戦争となれば、その領辺一帯には、早くも敵国兵の姿を見、春ならば麦を、秋ならば稲を、農田のあらゆるものまで、焼かれ、刈られ、掠奪され、家は勿論、ぱりばり焼き立てられたものだった。
村落を焼き、町を焼き、橋を焼き、敵を断つ。−これは攻城野戦ともにやる常套的な正攻法で、兵家としてはい頂ことに陳腐な一攻手に過ぎない。
−が、百姓町民はその都度に会うことである。火に追われ、流れ弾や、白刃素槍にも見舞われる。血にすべり屍につまずき、落ちてゆく山地の夜には、また、瓢盗無頼の徒が待っていた。
この民に、食を供与してくれる者はなく、却って、彼らが持って逃げたわずかな食糧をも、これを奪う者のみが、野や山にはまだ多かった。
−が、こういう後にも、なお彼らが、再び群をなして、何処からか焼け跡へ帰って来る姿を見ると、幾日も幾日も、喰う物とてなかった菩なのに、−しかも非常に明るくて和やかで、もう明日の希望にかがやいていた。
何が、彼らをして、こう不死身にしたかといえば、それは、物乏しければ乏しくなるほど、彼らは相見互に扶けあい、心と心とのやりとりをもって、より強く美わしく、生きる道を知っていたからだった。
そして、田に帰ればまた、黙々と田を耕し、町へ帰ればまた、孜々として、小屋を建てた。 |
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