吉川英治著書
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     新書太閤記 8

■信長の死が天下の慶祝

<本文から>
 「官兵衛どの。驚かれるなよ」
 こう厳粛な悲痛味を予告しながら、彦右衛門は手短に事実を告げた。長谷川宗仁からの飛脚もそのまま語った。豪気をもって鳴る官兵衛孝高の顔いろも、それを聞かされた一瞬は凡人以外のものではなかった。
「………」
 何もいわず官兵衛もまた、大きな息と共にその胸へ腕を挟んでしまった。
 そして時を措いて、じろと額ごしに同じ姿でいる秀吉を見た。
 と、堀秀政はすすと膝をすりよせて、秀吉へ云った。
 「はや過ぎたるを思うてみても致し方ごぎりますまい。世凰は今日から吹き変りました。しかも風は順風と覚えられます。お船出の帆をお揚げなさるべき時節こそ到来。ふたつか一つかの御分別、いまこそ肝腎かなめかとぞんじまする」
 それに応じて幽古も云った。
 「秀政どのの御意、まことに至言。世間の様態、ものに喩えて申すならば、吉野の桜、雪とけて、東風の訪れに会いたるごとく、人もみな、やがてお花見を待つ心地やらんと思わるる。早々、お花見のおしたく、遊ばされますように」
 「よういわれたぞ、衡両所−」
 と、官兵衛孝高も膝をたたいた。
 「天地と永劫、万象も春秋に、そのすがたをかえてこそ、生命も久し。−そのあめちの心をもて大きく申さば、このたびのこととて、めでたしといえぬこともない。青野のさくら、時来らでは見られぬものよ。雨情を孕み、風の陽気に、おのずから嘆き出るに、何の御分別や要り申さん。−秀政、幽古などの申すとおり、この上は花見始めの御一戦。しかと御決意あそばして然るべきかと存じまする」 
 左右の者のすすめは秀吉をして、いうまでもないことよ、と会心の笑みを抱かせたにちがいない。
 実に秀吉の本意もそこにあるのだ。−が、ただ、秀吉は人々がそれを云い出すのを待っていたに過ぎない。彼としては、信長の死をもって、
−天地の慶祝なり。
 とはいえなかった。
 その痛哀をして、天下の悲愁たらしめず、天下の慶祝とさせなければならない、とする小義や私情を乗り超えた信念が、よしいかほど自己のうちに固くあってもである−不用意にあらわしては誤解されやすい。総帥の死はやはり三軍の喪であり、しかも彼の一臣だった。
 臣なるがゆえに、信長の死を犬死にとさせてはならないのである。その生命を不朽に継ぎ生かすこそ遺された家臣の道と彼はかたく思う。けれど臣道なるものを、誰も口には説き、誰も行うに劣らずとしているが、その信行にはおのずから人まちまちな深さの差がある。
 彼は彼の信念と深度を以てつらぬくしかない。その肚の底には持つものを確と持っての秀吉であった。
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■光秀は信長を討った跡は虚化した

<本文から>
 (自分の求めているものはこんな物ではない。こんな物を求めてしたと考えられたとは心外だ)
 光秀は庫中の金銀を悉く取り出させた。そして部下の賞与や寄附や治民の費用に惜し気なく撒いた。小禄の者にすら数百両ずつ与え、上将たちの賞賜には、三千両、五千両と頒け与えた。
 安土に居あわせて、その状を見ていた宣教師のオルガンチノは、
「日向どのには、幸運を楽しむ日もそう長くないことを、もう自覚しておいでとみえる」
 と、独りつぶやいた。異国人の眼にすら光秀の無理な力で持った「天下人」の威権はそう観察されていた。
 −われ光秀はいったい何を求めている者か。
 光秀はそれを自分にしばしば問うてみる。「天下人たらん」と、当然な答えが沸く。しかし、どうしたものか、われながらその響きはうつろにしか血に響かない。
 信念からの発足でなかったことを自認せずにいられない。元来そういう大望を抱いていなかった自分であることも誰よりも自分が知っている。
 その器でもなく、その大望もなかったと知る彼が、かくなって来たわけはただひとつ、「天下人信長」を討ったからにほかならない。天下人は、天下人を仆し力者が代るという不文律が時代の中にある。それを否みようもなく光秀をして大難業に駆らしめ、光秀自身もまたひたぶるにその権化たらんと見せている。−にもかかわらず、光秀の心の奥底に棲む光秀の本質は、すこしもそこに自身の前途も理想も見出していない。
 信念の根のない熱情を強いて振おうとする姿は狂躁にしか見えなかった。彼のねがいと満足とは六月二日の一火をもってもう果されていたのである。あの朝、信長の死を聞くや、堀川の陣にあった彼はうそか本心か、
 (妙心寺の一室をかりて予も自刃せん)
といったという。そういう巷説が一時行われた。心ある者はそれを取って云った。
 (なぜ死なせてあげなかったのか!)と。
 伝えられるところによれば、その際、椎幕の重臣たちが極力それを引き止めたものだといわれている。或いはそうだろう。信長という者が一火の灰と化したせつなに、光秀の胸に凝り固っていた万丈の氷怨は雪解のごとく解け去ったであろうが、彼をめぐり彼とともに事をなした将士一万余は必ずしも彼と同じような心態ではない。彼らにとってはむしろ事はこれからだと期せざるを得ない。元々、信長一箇を討つのみが挙兵目的の全部ではなかったからだ。そして彼らはみな信じた。
(今日以後現実に、わが光秀様が天下人に成られたのだ!)と。
 ところが、彼らの仰ぐ当の光秀は、このときすでにその実を失って虚になっていたのである。六月二日以前の彼とそれから後の彼とで、別人のようにその容貌も気塊も、叡智までが変っていた。ひと口にいえば、虚化していた。
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■光秀の家臣が裏切ることなく奮闘した

<本文から>
 帯刀はもう主人の意志を問わなかった。貝を吹かせて急に北方へ後退を命じた。村越三十郎、堀与次郎などは、自身の馬を捨てて徒歩となった。そして主人の馬の轡をつかんで北の方へ無性に駈け出した。丘上の将士もまた追い慕った。しかし、比田帯刀のことばに違わず、その数はわずか五百ぐらいに過ぎなかった。
 勝龍寺の城には、三宅藤兵衛が守将としていたが、ここも敗色の外ではあり得ない。一種暗澹な凄凰が満城に破っていた。
 微かな燈を囲んで、一同はこの敗戦の収拾を凝議した。それを理性の正しい判断に求めるとき、光秀も、もう策なきことを覚った。
 域外の哨兵は、頻りと敵軍の近づくのを告げている。この城もまた秀吉の破竹な軍勢を防ぐに足る堅塁ではない。元々、摂津の中川、池田、高山らにたいして、万一の変あらばと、擬勢を張っていたに過ぎないものだった。
 淀の城ですら、つい昨日、その修築を命じていた有様だ。怒涛の音を聞いてから築堤にかかったといえないこともない。事ごと逆にゆくと、光秀ほどの人物も、こう目先の晦くなるものかと思われるばかりである。
 ただ、彼としても、おそらく遺憾なかろうことは、年来の宿将や家士たちに限っては、彼の恩顧を裏切るなく、まったく捨身奮迅の戦いをなし、涙ぐましき主従の義を示していたことだった。主筋の人を討った明智家のうちに、なおこの主従の道義の破れずにあったことは、一見、矛盾なようでもあるが、やはり光秀の徳といえるし、また、道義に生きるほか生き所も死に所もない、武門の鉄則を明示しているものでもある。
 為に、わずか一刻半の合戦だったが、その日の両軍の死傷は、夥しい数にのぼっている。もちろんこれは後の調査によるものであったが −明智軍の死者三千余人、秀吉方の死者三千三吉余名、負傷を加えれば算を知らぬ数であったという。以て、彼の意気にも劣らなかった明智勢の気塊も知るべく、しかも、敵の半数に近い寡兵と、不利な地に立っての戦いであったことを思えば、光秀の敗北は、決して世の噴い草となるような敗北ではなかった。
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■子の母への想い

<本文から>
 なぜ、子は母に、そういう希いを抱くといえば、いうまもなく、戦場でも、いとまあれば、うしろ髪をひかれるのが情だからである。何は措いても、ひと目、母の無事を拝してと、万難を冒して、これへ来たのも、彼としては、決して帰って来た心ではない。− 明日はまたすぐ、この母をも何ものをも捨てて、死生の中ヘ − と胸には期している身である。
 いや、秀吉ばかりでなく、およそ大義に生き、高い生命に燃えようというものは、家ではさりげなく見せていても、みなそうした希いを、母にももち、妻にももち、また弟妹にも持つであろう。あとへ残してゆく弱い者を思えば思うほど、その心理は痛切である。だから、もしその弱い者たちの口から、健気なひと言でも聞けば、男子たるものは、それこそそれを無限の愛と受けて、同時に、顧みなき自己の雄魂を、弥が上にも強め得るのであった。
 秀吉はまだかつて、ひとに向って、将来、大をなさんなどという壮語を弄んだことはない。亡き信長はよく彼を評して、大気者大気者といったが、おのずからな大気は辺りへ示しても、みだりな大言は放たない彼であった。けれど、彼を生んだ母は、誰よりも彼を知っている。きょうの言葉は、まさに、子を知る親の言葉にほかならない。
 (−母は知っていてくれる。成るも成らぬも、母は覚悟していて下さる)
 これは子にとって最大な強味であり恩愛でもある。秀吉は、中国以来連戦のつかれも、これから先の後顧も、いちどに取り除かれた気がした。今はただ、渾身の努力を天命に託して、天意の応えを待つのみとする清々しさがあるだけであった。
 で、主君信長の死に会してから取って来たここまでの経過と、これからも貫かんとする大志望を、彼はこの老いたる母にもよくわかるように、噛みくだいてつぶさに語った。
 老母は初めて涙をたれた。そしてまた、初めて、健気なことよと、子を称めた。
「よう短い日のうちに明智を討ち卑しなされたの。右大臣様の霊も、さすが致したと、御生前のおいつくしみも、お悔い遊ばすこともなく在そう。……実をいえば、この母とて、万一お許が、まだ光秀の首も見ぬのに、さきへこれへ来たのであったら、一夜とて、ここへ寝かすことではないと、心できつく思うていました」
 「いや、秀吉も、それをすまさぬうちは、母上に合わせる顔はないぞと、つい二、三日
前までは、一念ただ戦いのほかはありませんでした」
 「それがこうして、無事を見合うことができたというのも、そなたの取った道が、神仏の御旨にかのうたからであろ。……さ。寧子もこれへ寄ったがよい。揃うて、お礼を念じましょうぞ」
 老母はそういって、正面の聖観音へむかって坐り直した。
 そのときまで寧子は、良人と母の間よりも、もっと離れて、ただつつましく坐っていたが、老母にそういわれると、はい、と静かに立って御堂の内陣へあるいて行った。
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■離が秀吉の座右銘

<本文から>
 彼は、眠ることが上手な人であった。
 眠ろうと思うときに、どこでもすぐ眠れるということはやさしいことのようで実はむずかしい。
 場所を問わず、また眼前の何事にもとらわれず、まつ毛をとじさえすれば、ごろりとなっても、物に侍りかかったままでも、すぐ寝られるのでなければならぬ。
 しかも、ごくわずかな時を限って、思いのままに、眼をひらくと、直ちに、百年の眠りから醒めたるごとく、頭脳も肉体も一洗されて、
 いざ。
と立ちどころに、大事小事を、行く水のごとく処理してしまうというような習性−習性というよりは、ひとつの禅である。
 秀吉の絶倫な精力と健康とは、彼の「眠り上手」にもあるといってもさしつかえなかろう。
 努めるともなく、これに慣れたのは、年少放浪の頃、家なき子として、草の上でも、荒寺の床にでも、いわゆる大地を褥としていた当時の賜ものと思われる。
 −が、長じて、かつ世の指導的な一方に立って、いかなる逆境や困苦の重囲にも煩わさるるなく、その少時の鍛練を、よく生かして、
 即睡即覚
ともいえる悟道に近い妙生を身にもつようになったのは、彼自身がその戦陣軍務の多忙と健康の必要から考え出したところの、ひとつの座右銘から得たものであった。
 室町中期頃から、世上の騒乱暗澹たる半面に、心ある武門のあいだには、各々がひそかに、
−われらは、これでいいのか。
 という反省がよび起されて、その結果、武家の一門に、或いは、武士個々に、当時の座右銘ともいえる − 家憲、武士道訓、或いは、壁書 − などというものが大いに行わ                                                             れ始めて、その道義的風興は、戦国期に入って、いよいよ磨かれ競われているのであった。
 で、秀吉にも、何がな日常の心養に、そういう座右の師語は幾つか心にあったであろうが一畑打ひとりひそかに珍重している座右銘は、むしろ路傍で会ったつまらない旅の禅坊主からふと聞いて忘れ得ないものとなっている。
  離
という一字であった。
 これが、彼の座右銘ともいえる護符だったのである。
 離.はなれる−
 何でも、ないようだが、彼の眠り上手のこつも離れ心であった。
 焦躁、妄想、執着、疑惑、早急−あらゆる事々のきずなをも、一瞬、両の瞼で断ち切って、一切白紙の心になって寝てしまう。−また、瞬時にして、ぱっと醒める。
 これが思うままにできるようになると、醒めるも快、眠るも快、古事、この世は快ならざるものはなくなってくる。
 のみならず彼は − 彼とても巧い戦や思いどおりな計画ばかりではなく−ずいぶん周囲に間の悪いような失策も度々だったのであるが、そんなときも、その失敗失戦にくよくよとらわれている風は少しもなかった。こんな場合、彼が胸のなかで思い出していることも、
 離
の一字だった。
 よく人のいう臥薪嘗胆とか、一念没頭とかそんな程度の懸命は、彼にとっては、特別な心がけでなく、日々当然にしている生活だった。−故に、彼にはむしろ、一瞬でも、それから離れて、大生命を息づかせる「離」の心がけの方がはるかに必要だったのである。惹いては、生死ももちろん「離」一字にまかせていた。
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