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<本文から>
「それだけか。不平は」
官兵衛のことばに、五名は、
「へい。まず一番に、それからかたをつけていただきたいもんで」
と、衆を恃んで、怖れ気もなく云いたてた。
「成らんッ!」
官兵衛は、初めて、ほんとの声をふりしぼった。竹の杖を投げるやいな、陣刀を抜いて一人を真二つに斬り、逃げるのを追って、また一人斬った。同時に、うしろにいた吉田六郎太夫も、千原九右衛門も太刀を払って、抜打ちに、他の三名を鮮血の中に打ち果していた。
黒田官兵衛、千原九右衛門、青田六郎太夫、こう三人が手分けして、電瞬に、五名を斬ったわけになる。
その迅さと、意外とに打たれて、数千の人夫は、墓場の草のようにひそとしてしまった。
それまでの横着そうな面がまえも、不平の声も、反抗的な眼つきも、一瞬に拭き消されて、ただ土色の無数な顔が、胆を失ったようにむらがっているに過ぎなかった。
五ツの死骸を地上におきながら、官兵衝、九右衛門、六郎太夫は、なお雫する血がたなを手にさげたまま、それらの無数な頭の上を無気味な眼でながめていた。
「−改めて、一同へいうが」
と、やがて官兵衛はありったけな声を張って告げた。
「おまえたちの名代、五名の者は、いまこれへ呼んで、その云い分なるものを聞いてつかわした。そしてかくのごとく明瞭な返辞を与えたわけである。−が、まだほかに申し分もあろう。これへ出て云いたいものを抱いておる輩もあるに相違ない。− 次には、誰だ。われこそ、一同を代表して、何かいおうと思うものは、いまのうちに出て来るがいい」
「……」
「出ろ。出て釆ないか」
「……」
「もはや、云い分はないのか。あらば、誰でも、これへ出て申せ」
「……」
官兵衛は、またしばらく口をつぐんで、彼らの反省するいとまを与えていた。無数の顔のうちには明らかに恐怖のいろを悔いにかえている者もみえた。そこで官兵衛は、はじめて、血がたなの糊をぬぐつて、陣刀の鞘におさめ、その威容を正しながら、かつ顔いろをやわらげてこう人夫一同へ諭した。
「五名の者につづいて、誰もあとから出て来ないのを見れば、おそらくおまえ方の本心は、この五人とは違うものと思われる。そう解釈して、これからは、こちらの云い分をいってつかわすが……どうだ、異存はないか」
数千の顔は、救われたように、声をそろえて、それに答えた。−毛頭異存などはございません。元々わしらは何も知りません。また、不平や不満をいった覚えもありません。ただ、そこへ上がって御成敗をうけた頭株の連中に嘆かされで怠けただけに違いございません。−どうかわしらはどんなにでも御命令に服して働きますからごかんべん下さいまし。
数千の者が口々にいうので、がやがやと大きい声、小さい声が波打つばかりで、どの顔がどんなことをいってるか分らないが、ともかく全体の者の気もちだけは聞きとれた。
「よしよし。…しずまれ」
官兵衛は、手を振って、制しながら、
「そうだろう。さもあるはずとわしも思う。難しいことは説かぬが、要するにお前がたは、はやくよい御政道の下に、安民楽土という境遇を得、妻子とともに、楽しく働いてゆければゆきたいのだろう。−それを、目前の小さい骨惜しみや利慾にとらわれていたら、お前たち自体で、おまえたちの望む日の来るのを邪魔しているようなものになるぞ。また、これだけは固く信じるがいい。わが織田右府棟より御派遣の羽柴軍は、絶対に、毛利にやぶるるものではないということをだ。毛利こそはいかに大国でも、はや凋落の運命にある国。これは毛利が弱いわけではなく、時の大勢というもの。またわが織田軍は、朝廷に仕えて、よく禁門の御心を体し、もっともよく、いまの諸国を統一し、治めるものとの、御信頼もあつい武門であるがためでもある。どうだ、わかったか」
「わかりました」
「では、働くかッ」
「働きます。どんなにでも、働きまする」
「よしッ……」
と、つよくうなずくと官兵衛は、秀吉の床几の方をふりむいて、
「人夫一同、あのように申しておりますれば、何とぞこのたびだけは、御寛大をもちまして」
と、大勢になり代って詫びを述べた。
秀吉は床几を立って来た。ひざまずいた官兵衛や奉行たちへ何か命じている。と、忽ちそこへ勘定方の武士に率いられた足軽たちが重そうに銭久をかついで来た。一荷や二荷ではない。何十という久の山、いや銭の山がまたたくうちに積まれた。
なお茫然と、恐怖や悔いにつつまれている人たちへ向って、官兵衛がふたたび云った。
「ふかくとがめるな、汝らは元来不慾なものである。仲間のうちの二、三の悪者に嗾され、心にもなく不平を鳴らしたにすぎぬ者。−そう筑前守様にはおおせられて、他意なく働くからには、酒代も充分とらせて励ませとの御沙汰だ。ありがたくお礼をのべて、酒代をいただき、すぐ仕事にかかれ」
足軽に命じて、そこにある限りのかますを、悉く破らせると、銭の山は雪崩をなして堤上をうずめた。
「いくらでも掴めるだけ掴んで行け。ただし一人一滴みずつだぞ」
云い渡したが、なお狐疑して、たれひとり出て来ようとはしない。眼と眼を見あわせ、仲間と仲間とささやき合い、依然、銭の山は置かれてあった。
「はやい者勝ちであるぞ。なくなった後に不服を申すな。一人一つかみずつ下されるものゆえ、掌の大きい者は大きく生れたが待というもの。小さい掌の者は落着いて取りこぼさぬように戴くがよい。あわてて損するな。そして、少しも早く仕事に就け」
もう人夫たちは疑わなかった。彼の笑顔と冗談のなかに真実を知ったからである。前のほうにいた人夫たちの一群が銭の山へ駈け寄った。余りにある銭に疎んだようにちょっとためらったが、ひとりが先んじて一滴み取って過ると、同時に、わあっと凱歌のような歓声があがった。
たちまち、銭か人か土のかたまりか分らないような混雑が起った。しかしただひとりも誤魔化そうとする者はなかった。日頃の狭い心も不平も、このときはどこかへ投げやった人間のみになっていた。そして一つかみの酒代を持つと、さながら生れ変った人間のようになって、各々脱兎のごとく自分自分の仕事の持場へ駈け出していた。
力づよい鍬や鋤を入れるひびきが満地に起りだした。 |
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