吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新書太閤記 5

■長篠の戦いは、いたずらに死楯を増やしたに過ぎない

<本文から>
  いかに勇なりといえ、甲軍のこういう強襲は、いささか暴勇に近い恨みもあるように思えるが、この中央軍のうちには、小幡、内藤、原などという兵学にも明るく実戦にも精通している指揮者が参加しているのである。いくら主将の勝頼がうしろで、
「驀進せよ」
 と、厳命しているからといって、絶対な不可能を知るとすれば、多大な犠牲も顧みずただ無理押しを繰りかえすわけはない。
「断じて破れる!」
 の信念はあったのである。
 なぜならば、当時の銃器は、一発を撃って、次の弾薬の詰替えが調うまでに、かなりな手数と時間がかかるので−一瞬の弾丸雨飛が去れば、そのあとはかならず弾音がはたと飲むのだった。その聞こそ、乗ずべき空間と、甲軍の部将たちは、死楯を惜しまなかったのである。
 信長はあらかじめ、その短所を考えていた。新武器の操作と共に、新しい用兵術を考究した。三千挺を保有する銃隊を、三段にわけて、第一段千人の銃手が撃つと、急速に、左右を聞かせ、第二段の銃隊が前へすすんですぐ発射する。−同時にサッと開く、またすぐ三段隊が出る−というふうに、敵の希望して来た空間の的を、この戦いでは、まったく敵に与えなかったのである。
また木柵の所々に、出口がある。潮あいを測っては、柵内から柵外へと、織田・徳川の槍組は、「それッ−」と、ばかり甲軍の両翼へ突撃して来た。
 進まんか、防柵や鉄砲に阻められ、退こうとすれば、敵の追撃、また挟撃に揉みつつまれ、さしも百錬を誇る甲州武者も、その勇をほどこす間隙もなかった。
 山県隊を始めとし、小山田隊、原隊、内藤隊、ことごとく多量な犠牲をのこして退いたが、ひとり馬場信房だけは、その手に乗らなかった。
 信房は、敵の佐久間信盛と衝突したが、もとより信盛は、誘いなので、偽って敗走した。
 馬場隊はそれを追って、丸山の陣地を占領した。けれど、それから先は、
 「深入り無用」
 と、命を下し、信房は、一兵も前へ出さなかった。
 これには、信長の方でも、案外な空気を漂わせていた。
 勝頼の本陣からも、友軍からも、
 「なぜ進まぬか」
 と、頻々たる催促があったが、信房は、
 「自分には、ちと思う仔細あれば、ここに止まって、しばし戦況を見ており申さん。方々には御遠慮なく前進して、手柄を立てられたがよい」
 と、動かなかった。
 かかる者、かかる者、みな木柵まで接近すをと、同じ惨敗を繰返した。繊田軍の柴田勝家、羽柴秀吉の二隊は、遠く北の方の村落を迂回して、甲軍の本営と前線の中間を切断しにかかった。
 甲軍の真田信綱、昌輝の兄弟は、このとき苦戦に陥って戦死した。土屋隊も全滅に近い打撃をうけ、部将土屋昌次は、奮戦して討死を遂げた。
 陽は、午に近く、今日あたりから梅雨明けの空とも見える中天に、急激な暑熱と、強度な夏の色をもって、かんかんと地上を照りつけていた。
 ちょうど夜明けの貫の下刻(五時)噴から戦端は開かれていたので、新手新手と代えても、甲軍は兵馬共にりんりたる汗と気息の疲れにつつまれていた。
 朝の血しおは、具足の革にも、髪の毛にも皮膚にも、もう膠のように乾いていた。しかもなお次々と、新しい鮮血をあたりに見るばかりであった。
「跡部大炊も出よ。甘利、小笠原、菅沼、高坂の諸隊も、今ぞ、こぞって前へ進め」
 中軍の勝頼は、夜叉王のように怒号していた。そして、万一に備えておいた予備隊まで、ことごとく前面へ押し出したのである。
 勝頼が早く悟れば、一部の損害ですんだかも知れない小過を、かくて刻々と自身、大過へ運んで行った。
 要するに、これはもう単なる士気や勇気の問題ではない。信長、家康の方では、ちょうど猟場に罠を設けて、鴨や猪のかかるのを待っているのと同じだった。それへ猛撃する甲軍は、いくら指揮の声を頃らしてみても、いたずらに、惜しむべき将士を、効果なく死楯としてしまうだけに過ぎない。
 可惜といえば・・・朝から左翼で善戦していた信玄以来の股肱の将、山県昌景もはや戦死したと聞え渡った。
 そのほか、名ある侍、譜代の勇将が、続々と舞れてゆき、全諸部隊の死傷は、半分以上にのぼった。
 「はや、敵の敗色は、瞭然として来たました。もう潮時ではございませんか」
 信長の側にあって、始終、戦況を見ていた信長へこう促したのは、佐々成政であった。
 「ううむ! よかろうツ」
 信長は、すぐ成政をして、柵内の全軍の上へいわせた。
 いわく、
 「柵を出て、直撃、甲軍をみなごろしにせよ」
 総攻撃の令だった。
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■秀吉と半兵衛、官兵衛の情誼

<本文から>
病の篤い日は、秀吉に顔を見せないのが、半兵衝の常であった。心配をかけまいとするのであろう。秀吉にはわかっている。
 しかし、この数日は、昼間、笑顔さえ見せていたので、秀吉は久しぶり月下に膝をくんで語ろうとしたのであるが、月の光のせいばかりでなく、やはりまだどこかに勝れない色が彼のすがたに見えてならない。
 主君の秀吉も、友の黒田官兵衛も、こうして一つ筵に月を質しながらも、共に自分の病を気づかっていてくれるらしい容子を察して、
 「おお、忘れていた……」
 と、半兵衝重治は、わぎと、急に思い出したように、話をよそへ紛らして、
 「官兵衝どの。昨日、国許の家臣から参った消息によれば、御嫡子の松寿丸どのには、いよいよ健やからしく、また、馴れぬ周囲の者にも、ようやく懐いて、息災でおられる由、御安心なさるがよい」
 と、いった。
 官兵衛は、にことして、
 「いや、重治どののお国許にある限りは、松寿丸の身には何の心配もありません。ほとんど考えたこともないくらいです」
 「でも。…折には、大きゅうなられた和子の姿を、見たいと思われることもあろうに」
 「親ごころ、それだけは、いくら戦陣にある身でも、時々、思い出しますな」
 それから二人して、しばしは、子どもの話が交わされた。まだ実子のない秀吉には、 人の子の親と親とのはなしは、ただ、羨ましげに聞いているしかなかった。
 松寿丸−後の黒田長政−は官兵衛孝高の嫡子であるが、夙に、官兵衛が将来を察して、款を信長に通じたときから、その子を、質子として、信長にさし出してあった。
 信長は、質子を、竹中半兵衛に預けた。半兵衛はその郷土でもあり領地でもある不破郡の岩手城に送って、わが子のように、育てていた。
 秀吉を中心に、官兵衝と半兵衛とは、こういう情誼からも結ばれていた。だからその智謀の将たる点では、非常に相似ているものを持ちあいながら、この二人が、功名や地位を争って啀みあうようなことは少しもない。両雄ならび立たずということばも、秀吉の帷幕では、実証されないことだった。
 月を見、酒を酌み、古今の英雄や興亡を語り合っているうち、半兵衛もいつか病苦を忘れているかのようであった。
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■信長は高山謀反の対策に宣教師を送った

<本文から>
「いただきます」
 オルガンチノは、腰をうずめた。
 手の持駒はいつかつかえる局面に会う。
 信長は、いま、この伴天連を、もっとも適切な局面に用いようとしている。そのため手許へ呼んだのである。
 「師父。……かねて御身は、日本に来ておる宣教師を代表して、この信長に、嘆願書を出しておったな。−京都、近畿において、宗門屋敷を構え持つこと、また耶蘇教をひろめる自由を許可してくれということを」
 「お取り上げになる日を、わたくしたち、どれほど渇望しているか知れませぬ」
 「どうやら、許してやる日が近づいて釆たようである」
 「えッ、おゆるし給わりまするか」
 「無条件ではならん。およそ何の功もなき者へ、ただ恩典を与えるということは、われわれ武門にはないことだ。ひとつの功を立てて欲しい」
 「……それは、どういう御意でございましょうか」
 「高槻の高山飛騨守が倅……あれは十四歳の頃から切支丹に帰依した熱心家だそうだが……師父とは特別に親しかろうな」
 「高山右近さまのことをおたずねでございますか」
 「そうだ、あの右近の儀であるが−知っての通り、彼は荒木村重の謀叛に与して、二人の子を伊丹城へ質子となし、共にこの信長へ故なき弓を弾かんとしておる」
「…嘆かわしいことにございます。わたくしたち宗門の友達どもは、どれほどそのために胸をいためて、蔭ながら、天主の加護をお積りしているか知れません」
「そうか。…だが、オルガンチノ、こんな時、ただ南蛮寺の礼拝堂で、宿ってばかりいたところで何の効き目も顕れまい。−それほど右近の身を案じるなら、いは信長がいいつける命を奉じて、高槻城へ行くがよい。そしてよく高山右近に不心得を諭してはどうだ」
「それが出来ますものならば−いつでも参りたく思いますが、もう彼処のお城も、信忠卿や不破、前田、佐々様などの御軍勢に囲まれておるそうですから、おそらくわたくし連の通行はおゆるしになりますまい」
「いや、信長が、兵をつけてやる。また通行の証も与えよう。− そして首尾よく高山父子を説いて、信長の軍門に降らせたら、それは師父の大きな功だ。布教の自由と教会を持つことは、信長の名をもって、ゆるしてつかわす」
「……おお、では」
「−が待て」
 と、信長はオルガンチノの歓びかがやく眼を、眼をもって押えつけるように云い重ねた。
「−その反対に、万一、高山父子がそれを拒み、飽くまで信長に楯つくときは、伴天連一門の徒、すべて彼らと同意と見なし、南蛮寺の破却はもちろん、宗門掃滅、信徒宣教師の輩、ことごとく馘るから左様心得ておく好いい。その上で、出向いてもらいたいのだ。どうだ師父、参るかの」
 「……」
 オルガンチノは血の気も失せたような顔をして、しばらくさし僻向いていた。一帆船に乗って遠い欧羅巴からこの東洋に来ているほどな彼らの仲間には、小胆者や心から柔弱なものはいなかった筈であるが −さすがに信長の前に置かれてこういわれると、身もちぢみ、心も無くような恐怖に打たれた。
 なにも、この主君の姿が、特別に天魔鬼神と見えるわけでもないし、その容貌やことばはむしろ優雅なくらいであったが、彼らも胆に銘じて知っていることは、
 (この人が口でいったことは、かならず実行せずにはいない)
 という先例を、叡山の焼討ちに見、長嶋の討伐に見、あらゆる政策の上でも、常に見ていたからである。
 「…参ります。きっと、お使いの旨をおびて、右近どのにお会いして参りましょう」
 オルガンチノは遂に約束した。間もなく十数騎の兵に護られて、彼は高槻城への道に向った。
 オルガンチノを立たせた後で、信長は思いどおりに行ったと思っていた。けれど信長に賦便されて高槻城へ向ったオルガンチノも心のなかで
「うまく運んだことよ」
 と、自分を祝福していた。
 信長が考えているほど、異国人の彼は甘くないのだ。いや伴天連ほど喰えないものはないとは、京都の庶民などがよく知っていていうことである。
 信長から呼び出される前に、すでに高山右近とオルガンチノは、度々てがみを取り交わしていた。右近の父の飛騨守も、
(どうするのが、天の思し召しにかなうであろうか)
を、宗門の師父たる彼にしばしば訊ねて来ているのである。
 オルガンチノは当然に、
(主君に叛くは道でない。信長公は荒木の主君でもあり、またあなたの主人ではないか)
 と重ねがさね答えて適ってある。
 その返事として、右近からの、
 (荒木の方へ、二人の子を、質子にとられてあるため、妻と老母だけが、信長公に屈するのを強く反対している。それさえなければ、自分も叛逆の名はうけたくないのだが)
 という本心を打ち割った書面まで受けているのであった。
 だから、オルガンチノとしてはこの使命の成功の場合、その交換条件として約束しただけのものはただ貰いも同じことであった。
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