|
<本文から>
いかに勇なりといえ、甲軍のこういう強襲は、いささか暴勇に近い恨みもあるように思えるが、この中央軍のうちには、小幡、内藤、原などという兵学にも明るく実戦にも精通している指揮者が参加しているのである。いくら主将の勝頼がうしろで、
「驀進せよ」
と、厳命しているからといって、絶対な不可能を知るとすれば、多大な犠牲も顧みずただ無理押しを繰りかえすわけはない。
「断じて破れる!」
の信念はあったのである。
なぜならば、当時の銃器は、一発を撃って、次の弾薬の詰替えが調うまでに、かなりな手数と時間がかかるので−一瞬の弾丸雨飛が去れば、そのあとはかならず弾音がはたと飲むのだった。その聞こそ、乗ずべき空間と、甲軍の部将たちは、死楯を惜しまなかったのである。
信長はあらかじめ、その短所を考えていた。新武器の操作と共に、新しい用兵術を考究した。三千挺を保有する銃隊を、三段にわけて、第一段千人の銃手が撃つと、急速に、左右を聞かせ、第二段の銃隊が前へすすんですぐ発射する。−同時にサッと開く、またすぐ三段隊が出る−というふうに、敵の希望して来た空間の的を、この戦いでは、まったく敵に与えなかったのである。
また木柵の所々に、出口がある。潮あいを測っては、柵内から柵外へと、織田・徳川の槍組は、「それッ−」と、ばかり甲軍の両翼へ突撃して来た。
進まんか、防柵や鉄砲に阻められ、退こうとすれば、敵の追撃、また挟撃に揉みつつまれ、さしも百錬を誇る甲州武者も、その勇をほどこす間隙もなかった。
山県隊を始めとし、小山田隊、原隊、内藤隊、ことごとく多量な犠牲をのこして退いたが、ひとり馬場信房だけは、その手に乗らなかった。
信房は、敵の佐久間信盛と衝突したが、もとより信盛は、誘いなので、偽って敗走した。
馬場隊はそれを追って、丸山の陣地を占領した。けれど、それから先は、
「深入り無用」
と、命を下し、信房は、一兵も前へ出さなかった。
これには、信長の方でも、案外な空気を漂わせていた。
勝頼の本陣からも、友軍からも、
「なぜ進まぬか」
と、頻々たる催促があったが、信房は、
「自分には、ちと思う仔細あれば、ここに止まって、しばし戦況を見ており申さん。方々には御遠慮なく前進して、手柄を立てられたがよい」
と、動かなかった。
かかる者、かかる者、みな木柵まで接近すをと、同じ惨敗を繰返した。繊田軍の柴田勝家、羽柴秀吉の二隊は、遠く北の方の村落を迂回して、甲軍の本営と前線の中間を切断しにかかった。
甲軍の真田信綱、昌輝の兄弟は、このとき苦戦に陥って戦死した。土屋隊も全滅に近い打撃をうけ、部将土屋昌次は、奮戦して討死を遂げた。
陽は、午に近く、今日あたりから梅雨明けの空とも見える中天に、急激な暑熱と、強度な夏の色をもって、かんかんと地上を照りつけていた。
ちょうど夜明けの貫の下刻(五時)噴から戦端は開かれていたので、新手新手と代えても、甲軍は兵馬共にりんりたる汗と気息の疲れにつつまれていた。
朝の血しおは、具足の革にも、髪の毛にも皮膚にも、もう膠のように乾いていた。しかもなお次々と、新しい鮮血をあたりに見るばかりであった。
「跡部大炊も出よ。甘利、小笠原、菅沼、高坂の諸隊も、今ぞ、こぞって前へ進め」
中軍の勝頼は、夜叉王のように怒号していた。そして、万一に備えておいた予備隊まで、ことごとく前面へ押し出したのである。
勝頼が早く悟れば、一部の損害ですんだかも知れない小過を、かくて刻々と自身、大過へ運んで行った。
要するに、これはもう単なる士気や勇気の問題ではない。信長、家康の方では、ちょうど猟場に罠を設けて、鴨や猪のかかるのを待っているのと同じだった。それへ猛撃する甲軍は、いくら指揮の声を頃らしてみても、いたずらに、惜しむべき将士を、効果なく死楯としてしまうだけに過ぎない。
可惜といえば・・・朝から左翼で善戦していた信玄以来の股肱の将、山県昌景もはや戦死したと聞え渡った。
そのほか、名ある侍、譜代の勇将が、続々と舞れてゆき、全諸部隊の死傷は、半分以上にのぼった。
「はや、敵の敗色は、瞭然として来たました。もう潮時ではございませんか」
信長の側にあって、始終、戦況を見ていた信長へこう促したのは、佐々成政であった。
「ううむ! よかろうツ」
信長は、すぐ成政をして、柵内の全軍の上へいわせた。
いわく、
「柵を出て、直撃、甲軍をみなごろしにせよ」
総攻撃の令だった。 |
|