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<本文から> 信長を信じろ。
と、令してみたところで、民心が自分の思うままに向くわけもない。
領民の本義にもとるやつは縛るぞ。
と、圧力を加えてみたらどうなるか。
これも覚つかない。
心の形体はどうにでも取れる。法令を布くはやすいが、法令に心服させるのは難しい。
いや民心には、法令と聞くと、内容を汲まないうちに、先に厭うような性格さえある。かつての遠い時代の暴圧が民層の.なかに深くしみこんで、生理的にさえなっている。
では、法令と被治者、これはいつも溶けあわない片恋か。
「−で、あってはならない。ふたつが離反すれば、必定、国は亡ぶ。…国主の任とは」
信長は思う。
むすぶことだ。
歓んで民心がうけとるような法令でなくてはならない。
そんなことをしていたら国政は成り立つまい。−こう自問自答してみながら、
「そうでない」
と、信念した。
民衆はもとより生活の豊かと安心を渇仰しているが、といって、放悉な快楽とか安易な自由とか、そんなものにのみ甘やかされて歓んでいるほど愚なものでもあるまい。
一個の人生にしたところで、余り気まま暮しな人間や、物に困らないものが、却って、幸福でない例を見ても、総括した民心というものにも、難難する時代と、共栄謳歌する時代と、こもごもの起伏があっていい。なければ却って、民心は倦む。
「まちがっていた」
信長は、そこに思い至って、ひそかに悔いた。
祖先以来の受領地、尾張にあっては、ずいぶん艱苦を領民に強いたが、岐阜の占領地へ来ては、前の斎藤家が、放漫な施政をしていたので、華美自堕落に馴れている新領土の民には、きょうまで、信長としては極めて生ぬるい政策をとって、徐々に馴らして行こうという方針でいたのである。
「まずい。民心を知らないものだ。かえって領民は、前の領主のやり方と、似て非なる信長のやり口を疑っていたろう。信じないはずだ」
自堕落な領主の下に、自堕落に生きて、滅亡を告げ果てた歴史を眼で見ている領民である。彼らが今求めているのは、斎藤家のそれとはちがったものであるにちがいない。
自分だに、信念と徳を示せば、彼らはよろこんで、艱苦を享受するにちがいない。むしろ清新な希望をかかげ、民心に、艱苦せよということであった。 |
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