吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新書太閤記 4

■信長は民へ信念と徳を示し清新な希望をかかげた

<本文から>
信長を信じろ。
と、令してみたところで、民心が自分の思うままに向くわけもない。
 領民の本義にもとるやつは縛るぞ。
 と、圧力を加えてみたらどうなるか。
 これも覚つかない。
 心の形体はどうにでも取れる。法令を布くはやすいが、法令に心服させるのは難しい。
 いや民心には、法令と聞くと、内容を汲まないうちに、先に厭うような性格さえある。かつての遠い時代の暴圧が民層の.なかに深くしみこんで、生理的にさえなっている。
 では、法令と被治者、これはいつも溶けあわない片恋か。
 「−で、あってはならない。ふたつが離反すれば、必定、国は亡ぶ。…国主の任とは」
 信長は思う。
 むすぶことだ。
 歓んで民心がうけとるような法令でなくてはならない。
 そんなことをしていたら国政は成り立つまい。−こう自問自答してみながら、
 「そうでない」
 と、信念した。
 民衆はもとより生活の豊かと安心を渇仰しているが、といって、放悉な快楽とか安易な自由とか、そんなものにのみ甘やかされて歓んでいるほど愚なものでもあるまい。
 一個の人生にしたところで、余り気まま暮しな人間や、物に困らないものが、却って、幸福でない例を見ても、総括した民心というものにも、難難する時代と、共栄謳歌する時代と、こもごもの起伏があっていい。なければ却って、民心は倦む。
「まちがっていた」
 信長は、そこに思い至って、ひそかに悔いた。
 祖先以来の受領地、尾張にあっては、ずいぶん艱苦を領民に強いたが、岐阜の占領地へ来ては、前の斎藤家が、放漫な施政をしていたので、華美自堕落に馴れている新領土の民には、きょうまで、信長としては極めて生ぬるい政策をとって、徐々に馴らして行こうという方針でいたのである。
 「まずい。民心を知らないものだ。かえって領民は、前の領主のやり方と、似て非なる信長のやり口を疑っていたろう。信じないはずだ」
 自堕落な領主の下に、自堕落に生きて、滅亡を告げ果てた歴史を眼で見ている領民である。彼らが今求めているのは、斎藤家のそれとはちがったものであるにちがいない。
 自分だに、信念と徳を示せば、彼らはよろこんで、艱苦を享受するにちがいない。むしろ清新な希望をかかげ、民心に、艱苦せよということであった。
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■叡山の焼き討ちの賛否

<本文から>
 そんなことは誰もいう常識というものだ。八百年来、その常識がさまたげて来たればこそ、夙に、山門の腐敗堕落は嘆かれながら−何人もそれを革めることができずに今日へ来てしまったのだ。−畏れ多くも、白河法皇の御ことばにさえ−朕の心のままにならぬものは、双六の賽と賀茂川の水−とある。山法師どもが、日吉の御輿を奉じて来る時は、朝廷の御威厳すら、光もなかったと史書にも見える。源平の騒乱に、またその後の乱世、この山が、どこに国家の鎮護たるつとめをして来たか。衆民の心に安心と力を与えて来たか」
 信長は、突然、右の手を、いっぱいに横へ撮った。
 「−今の世の通りだ。数百年来どんな国家の大患という時でも、彼らは、自分たちの特権を汲々と守ることしか知らぬ。愚民から献じさせた財をもって、城廓のような石垣や山門を築き、内に銃槍を蓄えて−しかも、日ごろの行状に至っては、荒淫混食、心ある人間には、できないような生活も平然とやっておる。法燈修学の想廃など、いうもおろか、破戒乱行の末世と申すも過言でない。−左様なものを焼き払う物になんの惜しみがあろうぞ。色をなして諌めだてするそちたちの心がむしろ信長には解せぬ。止めるな、信長は断じてやる」
 「仰せは、いちいち御尤もですが、われわれ三名も、断じて、お止めいたします。死すとも、この座は起ちませぬ」
 信盛、夕篭、光秀の三人は、同時にまた両手をついて、あたかも諌言の砦のように主君の前をうごかなかった。
 叡山は天台、石山は門徒、宗派はちがうが、仏徒であることに変りはない。
 その仏徒の団結は、教義のうえでは、他宗とよび合っているが、信長に対抗することだけには、完全に一致し、完全に同じ性格をあらわしている。
 浅井、朝倉と通じたり、将軍家を利用したり、各地の残党に利便を与えたり、越後や甲州へまで密使を送ったり−また信長の領土を中心として、気ままな野火のように、一揆を蜂起させて、信長を奔命につからせてしまおうと謀ったり − すべては霊山の大堂に住む憎形の策や指命であった。
 この特殊な世界−不可抗力とされている、法城の清掃を措いて−織田軍の行動はなし得ないし、信長の理想の行えないことは、三人の臣も、充分に知っていた。
 だが、信長がここへ着陣してからの命令というのは、
(−全山を取り詰め、山王二十一社を初め奉り、山上の中堂も、坊舎堂塔、すべての伽藍も経巻も笠仏も、ことごとく焼き払え)
 と、いう余りにも過激なもので、しかもその焼討ちにかかったら、
(有智無智の憎たるを問わず、貴憎と堂衆のけじめなく、憎形たれば一人ものがすな。児童、美女とて仮借するな。
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■秀吉は叡山焼き討ちを家臣がやりすぎたと触れることを献策する

<本文から>
「もとよりのこと。仰せのごとき暴をなせば、上下の怨嗟をうけ、諸方の敵方に乗ぜられ、末代、穀の悪名は拭うべくもおざるまい」
「いや、そこが、ちと違いましょう。……叡山へお手入れのうえは、断じて、徹するまでやるべしとは、この藤吉郎が献策で、実は殿の御発意ではござらぬ。さすれば、いかなる悪名も呪阻も、藤吉郎が負うべきで−また自身、そう決意いたしておりますので」
「僭越でおざろう。何で一木下ごときを、世人がとがめよう。織田軍として行うたことは、すべて殿の御名に帰してくる」
「もちろんです。−が、各々もなぜ藤吉郎に御加勢くださらぬか。あなた方三将と藤吉郎とが、殿の御命令以上、騎虎の勢いで徹底的に−つい、やり過ぎたのだと−世間に触れたらよいわけではござらぬか。忠の大なるものは、諌言して死処に迫らざるにあり−とかいいますが、藤吉郎にいわせれば、忠諌して死んでもなお、真の忠臣には忠義がし足りないであろうと思われる。−むしろ生きて、悪名、罵誉、迫害、失脚、何でも殿に代って、身にひきうけんと藤吉郎は所存いたすが…各々にはまた、お考えがちがいましょうか」
 うなずきもせず、否定もせず、信長はだまって聞いていた。
 するとやがて、武井夕挙がまず云った。
 「木下。お身のことばに同意いたす。・・・わしは同意いたすが?」
 彼が顧みると、明智、佐久間のふたりも、異存のない旨を、共にちかった。
 −信長の命令を命令以上、勝手に超えて行動したものとして、徹底的に叡山焼討ちの挙に出ようというものである。
 それなら信長の決心もつらぬけるし、死をもって忠諌に出た三名の臣道もとどこうという藤吉郎の提案である。
 「名策である」
 夕奄は、嘆声に似た声で、こう彼の機智を貯めたたえた杭、信長はすこしも歓ばない顔していた。むしろ、よけいな斟酌など要らぬことである−と、いわぬばかりだった。
それに似た色が、ちらと光秀の面にも見えた。
 光秀も、心のうちでは、正直に、藤吉郎の説に感じていたが、何か自分たちの真実をもってした忠諌まで、彼の一言に、その功を奪われてしまったような嫉みが、胸のどこかで滲み出していたのだった。
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■信長は文化人であり野生人であった名将

<本文から>
女性の心というものをこの殿はどうしてこうよくご存じなのだろうか。恐ろしい気もするし、また良人にとっても自分にとっても、頼もしい御主君ではあると、真実思われた。彼女は、うれしさや間の悪さや、どうしていいか知れないような心地だった。
 −ともあれ、こんなふうに、寧子の印象はよかったし、御前の首尾も上乗であった。
 そして岐阜城を退がる折には、とても身に持ってなど帰れないほど、莫大な賜わり物をもらった。
 目録だけを先にいただいて、彼女は城下の旅舎へ帰った。そして待ちかねていた老母へいちばん多く語ったことは、
 「信長様といえば、たれもみな震い恐れるので、どんなお方やらと思っておりましたら、世にも紗ないほどお優しい御主人でいらっしゃいます。あんな優雅な殿が、馬上となれば、鬼神も恐れるようなお人になるのかと、思わず疑われました。お母様のことも、何かとごぞんじで、よい枠をもち、日本一の幸せ者ぞと仰せ遊ばし、またわたくしへも、筑前ほどな男は、海内幾人もおるまい、よい良人を選び当て、そもじも眠が高いことよ−などとお戯れも仰っしゃいました」
 と、いうようなことだった。
 老母も眼をほそめて、
 「そうか。そうかいの…」
 と、さも欣しげに聞き入った。
 およそ名将といわれるほどな人物は、魔下の将士の心服をうけているばかりでなく、個々の将士の家族たちからも、頼もしい親柱として慕われもし尊敬をうけていたようである。もっともそれくらいな景仰をあつめていなければ、それらの最愛な良人や、ふたりとない子を、自分の馬前で死を競わせることはできなかったに違いない。それもただ華やかに散るだけでなく、死ぬ者も、あとに残る者も、ともにそれを歓びとし、誇りとしたことを見ても、将たる人の平素には、戦略や政治以外にも、なみならぬ心がけを要したであろうと思いやられる。
 民衆の杷憂を知らない、また世間や人間を知らない、いわゆるお大名とか殿様なるものは、まったく泰平の永きに慣れた末期の子孫のことで、信長の時代、実力がすべてを決した戦国の世では、そんな特殊人の存在はゆるされなかった。義昭でも義景でも、また今川義元のごときでさえも、位置や名門に鼻如としていれば、たちまち時代の怒涛が覆して行った。
 だからこの時代に立つ一万の大将たる資格には、高い教養と位置と権力のほかに、庶民の実体がよく分っている者でなければならなかった。一面、文化人であるとともに、一面、野性人でもあることが必要だった。
 旧態の頽廃を一掃するにも、生々と新たな建設へかかってゆくにも、そう二つの機能が、絶対な力だった。純粋すぎる文化人でもいけないし、純然たる野性だけでも成就しないことだった。
 信長はどうやらその資格に適合した大将であったらしい。
 とにかく、寧子も秀吉の母も、それ以来は、一しお君恩をふかく感じて、夜も岐阜城のほうへ足を向けて寝ない−といったような心を真実にいだいて、それがまた母子のあいだでも、夫婦のあいだでも、自分が主人として家の子郎党をしつけるにも礼儀や情操の基本になった。
 甚だしい乱世にも、平和面の社会や家庭の内部までは、さまで乱脈にならずにいたのも、個々の家庭や主従のうちに、そうした強固な情操と家風の美があったからであろう。
 −さて、母子の旅はつつがなく、不破をこえて、春の湖を、やがて駕籠のまえに迎えた。
 その日今浜の賑わいは、今浜が始まって以来のものであったという。いや、今浜という地名まで、秀吉が築いた新城とともに、長浜と改められた。町をあげての祝賀には、その意味もふくまれていた。
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