吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新書太閤記 3

■信長は秀吉を自分に代って述べそうな者としてみていた

<本文から>
 地勢険悪、自然の力には人も流し得ませぬ。−また、敵もおめおめと見てはおりませぬ。必然、無数の犠牲の者を出して、結果は遂に、不成就に終ること火を見るよりも明らかかと思われます」
 勝家の意見につづいて、
「同様に考えられます」
「柴田穀の御意見、至極と思われます」
「自分儀も」
「てまえも」
 などと述べるのが大多数であった。信長は、むむ − と唇をむすんでしまう。気に入らないのだ。しかし、衆智は、自分の考えに合致しない。無謀という勝家の説に、ほとんどが、同意見らしい。
 老臣林佐渡も。
 一族の織田勘解由も、名古屋因幡守も。− 佐久間も、丹羽も。
 その衆智へ糺しながら、実は信長の心こそ、衆智へ合致しないのであった。衆智はいつも常識である。信長が欲しているのは、一見常識らしい常識ではなく、もっと飛躍した智慧の新鮮を求めているのである。
 新しい智慧も、またすぐ常識化してしまうが、信長はそうした経験ずみの智識をもって常識家ぶる者の多い衆智に、いつも飽き足らないのであった。
 その問題の洲股というのは、尾濃の国境で、実濃の攻略には、どうしてもこの辺の要害に、織田の足溜りが欲しいところなのである。
 雪が解けて、二月に入ると、ふたたび美濃入りの征軍は、続々、国境へさし向けられていた。
 十九条あたりに兵を置いて、時折、敵の虚を窺い、諸所に放火したり、奇襲的な小さい効果を狙っては、引き揚げて来たりしているが、そんな程度では、義寵亡く、寵興暗愚なりといっても、大国美濃は微動もしないのである。どうしても、確固とした要害を占めて、腰をすえてかかるためにも、洲股に味方の一城が欲しいのであった。
 だが、いかに砦造りでも、一城はそう簡単には築けない。しかも敵国の目前でする仕事だし、一朝雨でも降り続けば木曾川と洲股川の両大河は氾濫して、忽ちそこらは洪水となってしまう地形でもある。−そんな機を敵に計られて大挙襲いかかって来られたら、援兵は間にあわないし、よしや援軍が来たところで、どうしようもなく全滅となってしまおう。
 −というのが勝家らの唱える常識であった。常識はいつも動かし難い真理のように、知識人の雄弁によってよけい論陣の楯になった。
一応、意見として、聞いている顔はしていたが、信長は、勝家などのいう理論に、決して肯定したのではない。
 むしろ不満であった。方程式の常識論など聞く耳は持たぬ、といったような風さえ窺える。
 しかし、信長には、信念はあっても、彼らの常識論を云い破るだけの論拠が見つからないらしかった。単に不満なる意思を面に溺らせるしかない沈黙であった。
 「………」
 当然、評議の席は、沼のように声をひそめてしまう。
 勝家や林佐渡らの主張と、それに飽き足らない主君の顔つきとが、一同の口を封じてしまった如く、しばらく、しんとしていた。
 「お。−藤吉郎」
 突然、信長が、名をさした。
 遥か、末席のほうにいた彼の顔を、信長の眼は、見つけたように呼びかけた。
 「藤吉郎。そちの意見はどうなのか。遠慮なく、そこにて申してみい」
 「はッ……」
 返辞が聞えた。
 しかし、上座の重臣たちには、それを振り向いても、姿が見えないほど、遠い末席であった。
 「申してみい」
 重ねて信長がいう。
 自分の意思を、自分に代って述べそうな者は、信長の眼で、この大勢の家中にも、彼しかなかったのであった。
 「柴田様、林様、その他、重臣方の御意見は、さすがに事理分明、ごもっともな御意見と拝聴いたしました」
 藤吉郎は、そう云いながら、席から少し摺り出して、信長のほうへ、両手をつかえていた。
 「−なれど、人の思慮に及ぶ程のことならば、敵も測って、対策をいたしますゆえ、兵法とは申されませぬ。敵の予測し得ない上に出て戦い、敵の思慮の及ばぬ所に備えをするのでなければなりません。−その点から、洲股の築砦は、断じて、打つ手だと思います。水を恐れては、河に築城はできません。敵を恐れては、敵国へ討ち入ることはできません。誰の眼にも、至難、無謀と見えることをも、至難でなく、無謀でなく、人智と誠をもって、行い通してゆくところに、御勝利があるものと存じます」
 「うむ。……むむ!」
 信長は、何度もうなずいた。
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■何度も竹中半兵衛を請う


<本文から>
「小父さん。今日ばかしは、ほんとうによしておくれよ。きのう小父さんと会って話しこんだものだから、先生はゆうべ熱が出たって仰っしゃっていた。今朝だって、ご機嫌が悪くって、おらまでがお叱言だ」
と訴えた。
「失礼なことを」
 おゆうは、彼をたしなめ、藤吉郎へも詫びていった。−決して兄は、あなたにお会いしたために臥せったわけではないが、すこし風雅心地らしく、きょうは臥床にいるので、お越しの趣は伝えておくが、どうか悪しからず今日のところは・・・と、それとなく彼の訪ねを断った。
「それはご迷惑でしょう。思い止まって立ち帰りますが・・・」
と、懐中から矢立を出して、懐紙へこう書いた。
 閑中ニ閑ナシ
 鳥獣ニ委シテ可
 人中二幽アリ
 市井更二寂
 山雲無心
 シカモ自ラ去来ス
 一骨埋ム所
 豈青山二限ラン
 詩になっていないことは自分でも万々知っているが、自分の「志」ではあった。その後へ、もう一筆加えて、
 柚を出づ要のゆく方はいずこにや。西に候か。東に候か。
「厚顔無恥な者と、さぞお嗤いでござろうが、これが最後でござる。ただ一筆の御返辞をこれにて待ちます。その上にも、君命果し難き時は、この沢辺にて、切腹して相果てまする。何とぞ、もう一度のお取次を」
きのうよりも今日の彼は、まったく真剣であった。切腹ということばも、詭弁でなく、その熱意からわれ知らず出てしまったのである。
 蔑むよりも彼女はむしろ同情を深めて、その文を兄の病床へ持って帰った。
 半兵衝は一眼見たままで、うんもすんもいわなかった。小半日も瞑目していた。夕方になった。きょうも月の夜に入りかけた。
 「小熊。牛を曳け」
 急に云い出したのである。外出する様子におゆうは驚いて、布子や胴服を厚く兄の身へ着せた。
 半兵衝は、牛に乗って出て行った。小熊を道案内に沢へ上りてゆくのだった。見ると、彼方の芝地に、飲まず喰わず、なお、禅坊主のようにあぐらをくんで坐っている者の影が月下に見える。
 遠方から猟師が見つけたら狙いそうな恰好である。半兵衝綜を降りて、つかつかとそこへ近づいて行った。そして藤吾郎の前へ自分も坐った。慇懃に頭を下げていった。
「客どの。きょうは失礼した。病骨の山中人に過ぎないこの方へ、さりとは、何を見どころに御執心か、勿体ない御礼儀ではある。士はおのれを知る者のために死すとかいう。あだにはいたさん。心に刻みおく。−したがかりそめにも、ひと度は斎藤家に随身いたした半兵衛でござる。信長には仕え申さん−あなたに仕えよう。
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■信長は京都に厳重な法律を布いた

<本文から>
 織田軍の一名の兵が、居酒屋で酒をのんだ。戦捷の兵は驕りやすいものである。鱈腹食ペ酔って、
 「これでいいだろう」
 と、半分にも足らない小銭を触って出て行った。
 亭主が、追いかけて、
「困ります」
 と、縋るのを、その兵が、ぼかッと撲りつけて、肩で風を切って行った。巡視中の藤吉郎が、ふと見つけたので、
 「召し捕れ」
 と、部下へ命じた。
 本陣の東福寺へ突き出すと、信長は、よくしたといって、兵の具足を奪りあげ、東福寺門前の大木に縛りつけた。
 そして、その罪状を明記し、七日間曝した上で首を刎ねると命じた。
 東福寺の門前は、日々、移しい往来だった。多くは京都の豪商や公卿たちであった。
また、社寺の使い、用度の品を搬びこむ商人、何しても雑沓だった。
 「何じゃろ?」
皆、一度はそこに足を止めた。そして高札と、大木の根に縛められている人間とを見くらべた。
 「お味方の兵でも、犯せば仮借をなさらない。稀有なことじゃ」
 洛中の庶民は、信長の公平と、法令の峻厳に感じ合った。かねて諸処の公札に、
 −一銭を掠奪しても馘る
 と書いてある法文が、信長の軍自体から先に励行されているのを見た。一般の布告に掲げられた厳重な法律にも、誰ひとり不平はつぶやかなかった。
 「一銭切。一銭切じゃ」
  そんな言葉が、当時、庶民のなかに流行った。
 岐阜を発したのが九月七日−それからわずか二十一日目には、もうこうして、信長の姿は、中原にあった。
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■秀吉の決死の殿軍

<本文から>
飛報は、織田の遠征軍を、愕かせた。
 朝倉家とは、祖先以来、互いに結び合っている江州の浅井長政が、湖北の兵をすぐって、退路を断った−という早打だった。
 また、それに呼応して、甲賀の山地から、先に信長のために敗亡を喫した佐々木六角も起って、
  −織田の側面を突け。
 とばかり、続々、兵をすすめて来るともいう。
 遠征軍には、腹背の敵である。前面の朝倉勢は、そのせいか、士気旺んで、ともすれば、一乗谷を出て、猛烈に反撃して来そうな勢いに見えた。
 「 − 死地に入った」
 信長は、直感した。兵法の上から見れば、まさに、自分のひきいている遠征の大兵は、完全に、必殺の方位を破っている。敵国の中に茎を求めているに等しいことを覚った。
 そう彼がにわかに恐れたのは、佐々木六角や浅井長政が、背後を柁したというだけのものではない。信長が骨髄から恐怖したのは、この地方に移しい巣窟を持っている本願寺門徒の僧兵がみな、
 「侵略者を討て」
 と、反信長の旗職を、諸方で翻したと聞えたからであった。
 突。天候が変ったのである。
 遠征軍は、沖へ出た舟だ。
 「総退却!」
 方針はすぐきまった。
 けれど十万の大退ロを、どうとるか、由来、前進はやすく、後退は難しい、と兵家も訓めている。−まちがえば、全軍破滅の憂き目に遭う。
 「殿軍の役、それがしにお命じください。そして殿には、多勢を連れず、朽木谷の間道から、夜にまぎれて、死地を脱せられ、暁へかけて、その余の味方も、一路京へおひき揚げあるがよいかと思います」
 一刻たてば、一刻ほど危険は濃くなってくる。
 その日の夕方。
 信長は、森、佐々、前田などの旗本に、わずか三百の手勢をつれたのみで、道もない山間や渓谷を伝い、熊川から朽木谷方面へ、夜どおし逃げた。
 幾たびか、門徒の僧兵や、土賊に襲撃され、二日ふた晩ほどは、まったく飲みも喰いも眠りもしなかった。−そして四日日の夕方ようやく、京都へ帰りついたが、何しろほとんどの者が、半病人のように疲れはてていたという。
 が、まだそれらの人々は、いい方であった.もっとも悲壮だったのは、自分から殿軍をひきうけて、味方の大軍が、退ロを取った後も、わずかな手勢と共に、金ヶ崎の孤塁に残った藤吉郎であった。
 さすが、その時ばかりは、日頃から彼の立身をそねんで、詭弁家であるとか、成上がり者とか、陰口ばかりいっていた同僚の将も、
「たのむぞ」
「おぬしこそは、織田家の柱石だ。真の武士だ」
 などと、それぞれ心から訣別の辞をのべに来て、銃器、弾薬、食糧などを、みな彼の陣へ、与えて行った。墓場へ花や供物を捧げるように、置いて行ったのであった。
 「二度とこの世では−」
 去る者も、残る者も、真実そう思ったことであろう。そして、信長が朽木越えした夜の翌朝から、白星にかけて、柴田勝家、坂井右近、蜂屋兵庫、池田勝三郎などの面々、九万の味方は、徐々に退ロを落ちて行った。
 それと見て。
 朝倉勢が、追撃にかかると、藤吉郎は、その側面をつき、背後を脅かし、とうとう首尾よく味方の全軍を、死地から脱出させ終ると、金ヶ崎の城に籠って、
 「我れここに終らん」
 と、決死の意気を示して、固く城門をとじて、あるだけの食糧を喰べ、眠るだけの眠りをとって、この世の名残を告げているかに見えた。
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