吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新書太閤記 2

■桶狭間への途上、一軍には信長について行く固いものが貫いていた

<本文から>
 信長は、心のうちで、
(この男、使える)
と、思ったらしく、鞍つぼを叩いて、
「いみじくも申した。信長の見るところと合致する。即座に、旗本へ加わり候え」
「はッ、忝う存じます」
 甚内は、人数のうちへ、飛び込んだ。道はやや低く、だんだん畑を駒の頭下がりに駈けなだれた。
一条の河があった。
 水は浅く、踏み渡るのも惜しいほど澄んでいた。信長は、顧みて、
「この河の名は?」
 訊ねると、汗と埃を寄せ合って蔆めきつづく旗本の中から、毛利小平太が、
「扇川にて候」
 と、答えた。
 信長は知っていたが、わざと答えさせたのである。さッと軍扇をひらいて、後方へ振って見せた。
「末広川か。さい先よし。かなめも間近ぞ。渉れ渉れ」
死地へ向かって、急いでいるとは知りながら、何か、華々しくさえあって、後髪を引かれるような暗い心地は少しもしないのである。
 ふしぎなのは、信長という大将のそうした魅力であった。彼に従いて行く千余の人間は、ひとりも生きて帰ろうとはしていないのに、なぜか、絶望的ではなかった。
 絶対の死と。
 絶対の生と。
 それは二つで一つだった。信長は、誰もが最も迷いやすいその二つの手綱を一つ手につかんで先へ駈けていた。兵の眠から信長の姿を見ると、それは勇敢な死の先駆者にも見え、また大きな生と希望の先達とも仰がれた。いずれにしても、この人の後に従いて行くからには、どういう結果になっても、不平はないという固いものが一軍を貫いていた。
 死のう。死のう。死のう!
 藤吉郎すらも、それしか、頭の中になかった。
▲UP

■桶狭間の奇襲

<本文から>
「あッ、織田のッ」
 驚愕を革めて、
 「織田の奇襲ぞ!」
 と、ようやく事態を正しく知ったほどだった。
 夜討を襲けられた場合よりも、狼狽はむしろ甚だしかった。信長を見くびっていた点と、白昼であったことと、烈風のため敵を営中に見出すまで、敵の近づく整音すらも知らずにいたためだった。
 いや、それよりも、本営の幕将たちを安心させきっていたものは、味方の前衛にあるともいえる。本陣付の部将松井宗信と井伊直盛の両将は、ここの丘を距ることわずか十町ほど先の地点に屯して、主陣護衛の約束どおり千五古ばかりの兵で、きびしく固めていたはずなのである。
 その外陣の衛星から、
(敵、来る)
とも、
(敵、近づく)
 とも、何の合図もないまに、義元以下、宮中の幕僚たちは、いきなり獅子奮迅の敵影を、眼のまえに見たのである。内乱か、謀叛か、と、疑ったのも無理な狼狽ではなかった。
 信長はもとより、前衛部隊のいるような地点には出なかった。太子ケ嶽を縦横して、いきなり田楽狭間の直前へ駈けあらわれ、閑の声をあげた時は、もう信長自身でさえ、槍をふるって、義元の幕下の士と、戦っていた。
 信長に槍をつけられた敵の士は、それが信長とは恐らく知らなかったろう。
 敵の二、三名を突き伏せて、信長はなおも、本陣の幕へ近く駈け寄っていた。
 「楠のあたりぞッ」
 信長は、味方の強者が、自分のそばを追い越して、驀しぐらに行く姿を見ると云った。
 「駿河公万を逃すなッ。義元の床几は、彼処の楠の巨木を繰る幕のうちと覚ゆるぞッ」
 地形から視て、彼は、何とはなくそう直感に云ったのである。将の床几をすえる場所というものは、その山相を観れば自然にわかるし、その場所は、一つ山に必ず一カ所しかないものだった。
▲UP

■桶狭間で秀吉は信長の一弟子という心をもった

<本文から>
すぐ林佐渡と、佐久間修理の二人へ、旨を達しておいた。
 梁田弥二右衝門政綱に、沓掛城三千貫の宋地を与う−という賞賜を筆頭に、服部小平太、毛利新助など、約百二十余名への賞賜を、信長は、口頭でいって、それを佐渡と修理に記録させた。
 小者の瑞の−誰も知らないようなことまで、信長の眼は、いつのまにか見ていた。
 「於犬には、帰参をゆるしてとらす」
 最後にいった。
 それはすぐ、前田犬千代に、その夜のうちに伝えられた。なぜならば、全軍が城内へはいっても、彼一名は、域外に止まって、信長の沙汰を待っていたからである。
 藤吉郎には、何の恩賞もなかった。勿論、藤吉も、恩賞の沙汰をうける覚えがなかった。けれど彼は、千貫の知行以上のものを、たったこの言のうちに身に享けた。それは、生れて初めて、ほんとの生死の線を通って釆た尊い体験と、眼のあたり信長から身をもって教えられた戦というものの機微、人心の把握など、総じて、将たる器の大度を見たことであった。
「よい主を持った。信長様に次いで果報者は、この俺だぞ」
 彼はそれ以来、信長を主君と仰ぐばかりでなく、信長の一弟子という心をもって、信長の長所に学び、由来無学鈍才な自身を研くことに、一層心をひそめていた。
▲UP

メニューへ


トップページへ