吉川英治著書
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     新書太閤記 11

■秀吉と家康の大器

<本文から>
 器−
 こればかりは、生れついた量を、急に、大きくさせようとしても、どうにもならぬ。
 家康も器。秀吉もひとつの器−この対照が、このいくさを、決定する。
 長久手の総くずれを聞いたとき、秀吉は、実は、しめたと、手にツバしたほどだった。家康が、かたい殻を出たので、勝入父子の討死こそ、家康を生け捕る好駒になったぞ−と思ったからであった。
 ところが、敵は、火のごとく出て、風のごとく去り、去るや林のごとく、また小牧へ退いては、泰然と、前にもまさる山岳の重きを見せてうごかない。
 秀吉は、脱兎を逃した感じだった。だが、かれはみずからなぐさめた。
 「ちょっとした指の怪我ではあったよ」と。
 たしかに、かれの兵力と物質上には、大した損害でなかったにちがいない。しかし、 精神的には、家康の陣営をして、
 「猿面公。いかがでおざる」
 と、いわぬばかりな凱歌のほこりを揚げさせた。
 いや、この黒星は、その以後の長い − 秀吉と家康とのあいだにかかる交渉と、両者の心理に、生涯なんとなく、胸のうちに継続していた。
 しかし、家康もまた、
 「筑前という人間は」
 と、いよいよかれを見るに、大器量の男となし、それを向うにまわした自己の宿命に、ふかく意を用いずにいられなかったろう。
 とにかく、長久手半日の激戦以後は、どっちもまた大事をとって、ひたすら一万のうごきを見、その機に乗じようとする呼吸ばかりで、かりそめにもヘタな攻撃はいずれもやらない。
 誘いは、くり返された。
▲UP

■信長以前の老練家は、秀吉か家康の下風に従わざるを得なくなった

<本文から>
  蟹江城は、孤立した。
 徳川、北畠の聯合軍は、完全にそこを包囲した。
 滝川一益は、自分の描いた奇計に、自分で陥ちてしまった形である。かれの年配と、かれほどな思慮や体験をもちながら、どうして、こんなまずい運命をみずから招いたものか。
 同じことは、先に長久手で戦役した池田勝入についてもいえる。
年は、一益のほうが、勝入よりもずっと上だが、奇功に逸って、自分から大蹴つまずきを求めた点では、よく似ている。
 二人とも、秀吉よりは、武門の先輩でありながら、大きな時代の変革は、いまや西に秀吉、東に家康と、この両巨人をもって、時の氏神とあがめ、信長以前の老練家は、いくら、家格、閲歴の赫々たる実績があっても、みなそのどっちかの下風に従わざるを得なくなった。
 ひとつの、革新期を跨ぐには、必然な区分だが、人間個々の心理には、″時″の自然力にたいする不平と反撥を、素直に享受しきれない。
 (なお、われなる者を、世に見む)
  と、したり、
 (老いたりといえ)
 などという老魂の血気が、まま若い血気もやらぬ下手をやり出すのである。
 血気や短気は、青くさい若者だけの通性でなく、初老にかかる老人こそあぶない短気の持ち主でもある。それは生理的にも、自制と反省が弱まる頃だし、ひとつには、
 (いまのうちに、花見もせねば)
 というアセリや、負けん気に駆られがちだからといえよう。
▲UP

■秀吉が愚者たる信雄を手玉にとる

<本文から>
 本来は、いうまでもなく、信雄は家康の同意を得るなり、事前に、相談もしてみるのが、順序である。
 −が、かれは、渡りに舟と、応じてしまい、しかも単独の和議を成立させた。
 このことについて、後の史家は、信雄の軽率と、その心事を、嘲笑的に書いている。
 新井白石の「藩鞄譜」は、
″盛疑″とは何であったかはここで再言するまでもない。要するに、信雄は秀吉の手にのったのだ。家康がかれを手玉にとって用いたように、その手玉を、こんどは秀吉がひょいと横から取ったというだけのものである。
 −が、その日、会見の第一印象に、秀吉がいかに信雄の歓心をつなぐのに、甘いことばをもってしたかは、想像に余りがある。
 実に、気むずかしい、神経の峻しい人といわれた信雄の父信長にさえ、多年、仕えて来て、めったに癇癪を起させずに来た秀吉である−他愛もないことだったろう。
 しかし、先に、二便を通じて示しておいた講和条件の内容は、決して、甘くもないし、そう他愛ないものではない。
 −条件の内容は、
一 秀吉は信雄のむすめを養女にもらう。
二 秀吉方が占領した北伊勢の四郡は、信雄に、返還する。
三 信雄は、一族の織田長益や滝川雄利、佐久間正勝、故中川雄忠の子か母などを、質として、差し出すこと。
四、伊賀の名張など三郡。南伊勢の鈴鹿、河曲、一志、飯高、飯野、多気、度会などの七郡。−それに尾張犬山城と、河田ノ砦とは、秀吉へゆずること。
五 伊勢尾張、二州にわたる臨時の築城は、双方とも、これを破毀する。
 「よろしい」
 と、信雄はこれに調印した。
 秀吉からは、その日、手みやげとして、黄金二十枚、不動国行の刀一口を、かれに贈り、なお伊勢地方での戦利品米、三万五千俵をも、贈与した。
 心を表わすには、身を屈めて恭敬。−利を示すには、物質の実をもって、こうまでされては、信雄は満足を顔に出さずにいられなかった。
 この計算が、どういう回答になって出るか、信雄は、たいして考慮にいれていなかったにちがいない。
 かれはたしかに、名門の子たる貴人の資格は持っていた。けれど、時代の激潮からこれをいえば、単なるお人よしとよぶだけではすまない愚者といわれても仕方がない。名門の子として時流の外にいたならば何も答むべきすじはないのに、かれは時潮の尖端に出、戦の傀儡にされ、かれの旗の下でも多くを死なせている。
 事あらわれて、驚いたのは、家康であろう。さしもの達人家康も、この愚かなる坊ンちには、まったく、出し抜かれたかたちになった。
▲UP

■秀吉の忘れ得ぬ人として住んでいた女性は母と姉

<本文から>
  かれの一生を通じ、その私生活面の心の中に、常に、忘れ得ぬ人として住んでいた女性は、母と、この姉だった。
 もちろん、夫人の寧子は、これは、どこの女房とも、同じように、絶対的な位置と、発言権とをもって、良人の心を把握していたし、同時に、良人から把握されてもいた夫婦仲であるから、まず別格というべきである。
 秀吉を繰る女性群としては、松の丸どの、三条の局、加賀の局、また、まだ少しあどけなさ過ぎるが、あの於茶々だの、於通だの、いまやその閨門の園も、色とりどりに、妍を競わんとしているが−その好色なる彼をしていわせても、ほんとの、心の底を、男性の本音としていわせたら、きっと、こう自白するにちがいない。
(それは、美しいのが、一番好きにきまっておるさ。その実しさにも、種々だが、実貌では、松の丸。心ばえと、雪国の女の肌というきれいさでは、加賀の局。−−上席凰な知性実と気品の高さでは、三条の局であろうか。…といえば、笑うであろうが、そもそも自分は下時の生れで、青少年のむかしより、深窓の花には、ひとつの憧憬をもっていたものじゃ。徳川どのは、下淫を好む質と聞くが、前に申したようなせいか、わしは上淫を好むほうだ。……茶々を愛するのも、その意味といえよう)
−けれど、これだけでは、秀吉の本音としては、皮相である。ここまでのことをいってしまえば、かれは必ず、次のことばを、そのあとに云い足したいとするであろう。
(だが。わしの心のうちでは、肉愛の対象と、情愛の対象と、同じ女性でも、ふたつにけじめをつけておる。前に申した女たちは、その折なる美なる楚々なること、各々趣はちがっても、すべてみな一様に肉愛の花々だ。この秀吉は、浮気な蝶々。蝶と花との関係にすぎぬ。−しかし情愛の真心では、まずは一番に女房。これは面と向っていうとツケ上がるから、いつも逆表現を用いておるが、何といっても、身にとっての、観世音菩薩とあがめていることは確かなのだ。しかし、ウソも隠しもないところ、その女房にも増して、世の女性全部のうちでも、自分にとって、第一の恋人といえば、わが母だ、おふくろ様だ。−姉は、そのおふくろ様のお準え物で、幼少から共に貪苦をして来たことだし、べつに邪魔にもならぬ者ゆえ、ふびんと、目をかけているまでのことだよ)
 不愍なやつ。不懸な者。
 −不愍やな、などと彼はよく口にもするが、かれが周囲の者を見る眼には、事実、不愍と思いやる眼ぎしが、何を見るにも籠っていた。
 いや、ひとり肉親にたいする場合だけでなく、彼にいわせれば、人間とは、そもそも不愍な同士の寄りあいであり、人として、不愍ならざる者はない。
▲UP

■秀吉は逆境の中から生れて、逆境と遊んで成人した

<本文から>
 そこで、人間である以上、いや人なみはずれて、凡夫の煩悩にも富むかれは、当然、
(四十九も、あと幾月もない秋に来たぞ)
と、暮夜ひそかに、かれの生命が、過去、現在、また将来へ、その凡情をさまざまに想いめぐらしたにちがいない。人生の長い行路を、山登りにたとえれば、かれの思いは今や、目標の山頂への、七、八合目まで、よじ登ったように、麓を見たであろう。
登山の目標は、山頂ときまっている。しかし、人生のおもしろさ、生命の息吹の楽しさは、その山頂にはなく、却って、逆境の、山の中腹にあるといっていい。谷あり、絶壁あり、渓流あり、断崖あり、雪崩ありといったような、峻路にぶつかって、
 (もう駄目か)
と思い、
 (いっそ死んだ方がましだ)
とまでおもいながら、
(いや、そうではない)
と、当面の難難と戦って、それに打ち剋ち、乗りこえた難難を、見事、うしろへ振り向き得たときに、
(われ生きたり、よくぞ生きたり)
 という生命の歓びを、真に、人生の途上において、持ったのであった。
 もし人の一生に、その多岐なる迷いと、多難なる戦いとがなく、坦々たる平地を歩くようなものであったら、何と退屈な、またすぐ生き飽いてしまうようなものだろう。畢境するに、人生とは、苦難苦闘の連続であり、人生の快味といえば、ただその一波一波に打ち剋ったわずかな間の休息のみにあるといってよい。
 だから、苦難を怖れない人にのみ、人生の凱歌と祝宴が供せられ、苦難に弱い、迷いに負けやすい人にのみ、悲劇がつづく。
 (逆境おもしろし)
 と、敢然として立ちむかう人生の闘士の前には、およそその人間を自殺せしめるほどな逆境はこの世にはあり得ない。しかし、薄弱なるさまよいの子には、逆境の魔が小石一つ彼に投げても、彼は生涯の傷痕に持って、容易にいつでも自分から落伍してゆく。
 秀吉は、そういう点で、まさに、逆境の中から生れて、逆境と遊んで成人したようなものだった。
 かれの今日から見れば、その栄達は、旭日昇天の早さにも見えるが、信長に随身してからでも、逆境なしという年は一年もない。
 真の順調は、信長の死後、天正十年からことし十三年秋までの − ほんの二年半といってよかろう。
 その二年半において、かれの生涯の大部分を築いたといえる。しかも、その一気呵成の大業もまた波瀾万丈な毎日毎日であった。
稔りの秋は、秀吉に来たのである。秀吉はこの夏、大きな収穫をやった。それは、関白となり、初めて、豊臣姓を創てたことである。
 秀吉が関白となったのは、北国出征の直前であった。北陸へ立つ、つい一カ月前に、すでに、関白職の栄についたのであるが、戦陣中は、格式に頓着なく、従来どおり一介の武将羽柴筑前で通していたのである。。
▲UP

■家康は逆境を深く生かす

<本文から>
 こういう秀吉ロ。こういう大坂城を中心とする内外のうごき。 そして、こういう天正十三年というただならぬ世代の日一日を、その後の徳川家康は、果たして、どんな構想と心境をもって過ごしていたろうか。
 転じて、家康を観ることは、また秀吉の眼孔の底を覗くことでもある。
 家康は、春から夏も、浜松城に暮していた。
 岡崎は、石川伯看守数正にあずけ、ここ当分は静養という態度だった。
 ″静養″という名目は、よく逆境にある政客や事業家などが好んで口にする語だが、閑に居て、閑を愛し、静養の真価を、よく身につけ得る者といっては、千人中の一人も稀れであるといっていい。
 家康の場合−もとより問題はちがうが、族長的な位置にあるそれは、責任、体面、日々の対処など、身一つの逆境などとは比較になちないほど苦悩も大きいはずである。
 まさに、小牧以来、信雄を秀吉に攫われてからの徳川家は、逆境へ向っていた。盛運とみに大坂の光輝に奪われ、いわゆる″落ち目の陣営″の観あるを否み得ない。
 落ち目となると、てもなく弱い本質を出して、貧すれば鈍するという諺どおりに成り落ちる人間もあるし、また反対に、逆境に立つや、なお持ち前の生命力の充盗を示して、逆境いよいよその人の深い所の素質をゆかしく湛えて見せ、この人や逆境にいて逆項を知らず、逆項を愛してすらいるのではないかと、疑われるほど、常に、温顔ゆたかに、微笑をわすれぬ人間もある。
 家康は、後者の型だった。
 ただし常に微笑をもって、人に春風を感ぜしめるような慈光は持たないが、決して、はた目から見て、
 (いかばかり御憂鬱であろうぞ。お気のどくな)
 と、人に、自己の胸中の寸尺を量らすようなみじめさも貧しさも見せはしない。
 第一線に近い岡崎を退き、わざと浜松に、閑をめでて、大坂のことなど耳から遠い顔をしていた家康は、ことしになって、よく狩猟に出ていた。
▲UP

■真田の負けは家康の後の大勝利につながる

<本文から>
 しかし、もし家康に、大局の明もなく、将来の見通しもつかず、もう一歩、強がって、
(景勝が出馬して、真田を助けるなら、自身も、馬を信濃に進めん)
 とまで、動いてしまったら、もうそれは実に、秀吉の術中に陥ちないではいられなかったであろう。なぜならば、秀吉は、すでにそうなった後の、第二次小牧戦の秘策をえがいて、
 (家康、うごく)
 という情報が、今くるかくるかと、首を長くして、大坂城中の深くに待っていたからであった。
 かりに家康が、軽々たる世上の思わくや面子にとらわれて、頑として、一真田の小城にかかわり、自身、それに動いた場合はどうなるかと想像すれば、まず第一に、隣接の大国北条が、かならず野望をこの時に乗ずるであろうし、大坂小田原間の密使は、何を約し合うか分るまい。
 加うるに、さきに蟹江あたりを窺った上方の海軍も、遠州、駿河沖あたりに遊弋しはじめ、美濃、伊勢、甲州にわたる信雄の与国は、秀吉に促されて、いや応なく、ふたたび第一次の小牧戦よりはるか岡崎に近く東下して来るであろう。そして今は、徳川を支持する北越の友軍もなく、大坂の背後をおびやかす、四国、紀伊などの同志もなく、家康は完全なる孤立を四囲に追われて、
 (ついに、小牧のおもしろからぬ結着に、自暴自棄の戦を求めて、あえなく、世の大勢をみな敵にして、むなしき最期を告げられた)
 という彼の半生の終りと、歴史の一小曲をとどめて、彼家康の名は、ついにそれだけのもので終ってしまったろう。
 −が、家康は、秀吉の肛を見抜いていた。
 (誇れよ、真田に一時の名を成さしてやろう程に)
 家康は、笑って、負けた。 − この負けは、その価値の大なること、どんな大勝利にもまさるものであったことは、爾後の月日が、証明した。
 この地方事変も、天正十三年の春から九月末までの、約半年にわたる出来事で、秀吉としては、その年の主力的な行動企画の線ではなかったが、家康とすれば、あやうくも自己の″命とり″を招くやも知れなかった危険なる転落の崖ふちだった。
 得意は、時みじかく、不遇は長い。
 またよく俗にもいう泣きッ面に蜂は − ひとり個々の小さな世帯異変だけではない。
 この頃、家康の運命率は、どっちを向いても、まずい事だらけだった。
▲UP

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