吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新書太閤記 10

■秀吉は信長の長を取って短を捨て、独味の行き方と天質の大を加えた

<本文から>
 しかし、奉行人や築城当事者の考えるところは、要するに、当時の一般常識の最も高度な創意なのであって、秀吉の企画や構想の方が、独り余りかけ離れすぎていたからであることはいうまでもない。
 そしてこの相違の原因が、何によるかを考えてみると、二者の観念に、根本的なひらきがあり、つまり″目のつけどころ″が全くちがっているのであった。
 日本の一般人士には当然、この創意、構想にも、日本という限界があった。あらゆる物の比較も、限界の外を出ない。
 ところが、秀吉の場合は、その対象を、日本に限っていず、海外をも考慮にいれていたのである。少なくも彼は全亜細亜を鳥瞰していた。堺の港湾は一潮遠く欧羅巴の十七世紀文化につづき、五畿の経営は、西欧の使臣や宣教師らの本国へ寄する報告によって、日本の国威にかかわるところ大なりと信じていた。
 従って、彼以外の者が、悉くその大げさにあきれたという程な企画も、彼にとっては、なおまだ腹中の全を尽くしたものでなかったに違いない。
 それと。
 彼のこうした理想の具現は、きょうや昨日の思いつきでないこともいうまでもない。
もとよりそういう大気宇は、彼の本質にあったものに違いないが、時、ようやく、勃興的気運に向いつつあった日本の文化的使命と、海外からの西漸の風潮などについて、時代の活眼を与えてくれた恩人は、実に、彼にとっては主君であり師でもあった、故信長なのであった。
 藍より出でて藍より青し。
 信長の衣鉢は、まさしく、秀吉によって継がれたものといっていい。秀吉は故主の長を取って短を捨て、独味の行き方と、天質の大を加えて来た。
 早くから海外に眼を放って、いつか世界的知性を帯びていたのも、畢竟、信長の恩恵であった。安土の高閣の一室にあった世界地図屏風は、そっくり秀吉の脳裡に写しとられていた。
 また、堺や博多の大町人たちから得た知識も少なくない。それらの者たちとは、公用としては、鉄砲火薬の取引などで日常に接し、私人としては、茶友として会することもしばしばだった。
 秀吉は、卑賎に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮す年時などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。
 だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。
−我れ以外みな我が師也。
 と、しているのだった。
 故に、彼は一箇の秀吉だが、智は天下の智をあつめていた。衆智を吸引して本質の中に濾過していた。また時々、濾過しない衆愚らしい振舞も見せ、本質の個性をむき出しで見せる場合もあるにはある。彼は自分を、非凡なりとは自信していたが、我れは賢者なりとは思っていない。
−とまれ今日、彼にとって、何といっても、忘れがたい人は、やはり故信長であった。
 猿よ。
 大気者よ。
 こっちを向け。
 あっちを向いてみろ。
 ああ、もう一度、そういわれてみたい−−という思いもするのだった。− で、この戦後の建設に多忙極まる中にも、六月二日の忌日を忘れず、大徳寺において、総見院殿一周忌の法事を営んだのも、決して、単なる政略のみではない。人はそうも見ようが、彼は由来、煩悩児である。愚かなる追憶や、その追慕とは相剋する、信孝の処理や、信雄にたいする考えも、こうして先君の位牌に冥々裡に、お告げもし、お詫びしておけば、彼の心は信長の生ける言を聞き得たように、大いに救われる気もするのであった。
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■信雄のあわれさ

<本文から>
 かつて中原にむかっては、信長の変にすら、今日まで容易に動くことのなかった家康が、自分のために、いよいよ岡崎を出て、しかも多年、蓄積された徳川家の全力を賭して、自身、清洲まで馬をすすめて来たのである。信雄として、この人を、敬慕と感激の眼で仰がずにいられない。亡父はいい知己をのこしておいてくれた。そう思わずにいられない。この人こそほんとうの義を重んじ情誼にあつく、弱きをあわれみ強きに屈せぬ正義仁侠の武門というべきだろう。あらゆる歓待の労も、饗膳の実も、信雄は、精いっぱいを傾けた。
 しかし家康の眠からみると、まことにみなこれ乳臭の児戯。ただ気の毒なことおもわれるのみだった。かつて家康がこの息子の父信長の−甲州凱歌の帰路を富士見物にことよせて、道中七日の馳走歓待をつづけたときの規模などをおもいあわせると、こよいの貧しさをあわれまずにはいられなかった。
 それは、物質の贅そのものではない。物質の活用にあるのである。物すらよく生かして用いられない信雄を考えると、あたりに世辞追従のみいって、酒杯のあいだに、うようよしている彼の家臣どもが、人としてよく用いこなされていないのは明瞭だった。
 その信雄が、たとえ先の誘いにせよ、相手もあろうに、秀吉にむかって、端をかまえ、秀吉に一口実を与えて、戦をはじめ出したのであるから、それだけでも、信孝亡きあと、この名血族の断絶も、はや遠くない気がされるのだった。
 −あわれと見るしか、見ようはない。家康は、同情をおぼえる。しかし彼は、当然亡ぶべき素質のものが亡び去るのは、人間皆が死ぬべきときには必ず死んでしまう作用と同一視することができる男だった。自分だからとて、例外な考え方はもってはいない。自分もその通り、不徳短才にして、この乱国に多くを探して立ち得ない質ならば、直ちに、亡び去るべしと、つねに自身へいっている程なのである。
 だから彼は、こんな歓宴の中でも、あわれを覚え、同情はいだいても、この一箇名門の脆弱児を、自己の薬籠中にして、完全に利用しきろうとする底意には、何らの矛盾も良心のまどいも覚えはしない。
 なぜならば、名門の余望と遺産を持つ遺族の暗愚なる者ほど、禍乱の火だねとなりやすい存在はないからである。利用価値が高ければ高いほど、それは危険な存在だといえるのだ。それはたえず周囲に何らかの犠牲者を生み、四隣の揉め事をかもし、庶民の惨害をひき起してやまない。
 おそらく秀吉も、それを思うにちがいない。が秀吉はそれを自己の目的にさまたげとして信雄の処置を考え、家康はより遠大な野望への一歩を基礎づけるために信雄の活用を考えていた。こう相反する二つの信雄観は、秀吉も家康も、目的の根抵は一つだが、策において、対立のかたちをここに現わして来たものだった。
 故に、もしこれが反対に、家康が僧雄を除こうとする策に出ていたら、秀吉は、敢然、信雄を助けて立つ方へ廻ったであろう。
 いずれにしても信雄は一箇の傀儡にすぎない。どっちにころんでも、われは信長の肉親なりとする過去のものを、みずから捨てて凡人正味のただの人間であまんじない限り、彼の悲運は宿命的というものになるほかなかった。それを覚らぬのも、家康の感じている気の毒さのひとつであるが、もっと一般的な見方でいえば、家康のごとき、また、秀吉のごとき人物の時をひとしゅうして東西にならび立った時代に彼が置かれたことそれ自体が、すでに約された不幸児の運命といえる。−−しかも彼はその家康なるものを、無二の同情者、理解者、絶対な味方と信じて疑わないのであった。
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■庶民の望んでいる平和はいつも遠く、時の代表者は平和を望んでいない

<本文から>
 正しい人間性というものは、必ず、一箇のものでなければ、人間性として見ることはできない。
 人間と人間とが群をなし、万、億と結合したものは、もう人間ではなく、奇態なる地上の群生動物にすぎない。これを人間と観、人間的解釈に拠ろうとするから、わけが分らなくなるのである。
 だから庶民はいっている。
 (天下を二つに持ち分ければ、どんな理想も栄華もできそうなものじゃないか。何だって、分け目の勝負を賭けてまで、それを独り占めにしたがるのだろう?)
 凡下の俗言だが、これは個人の通念的正しさをいっているものだ。時の秀吉にせよ、家康にせよ、それくらいなことは分っているにちがいない。一箇の人間としてはである。しかし、過去、現在を通観してくると、世の中が人間意志だけでうごいて来たとおもうのは人間の錯覚で、実は、人間以外の宇宙の意志といったようなものも多分にある。宇宙意志というのが当たらなければ、人間もまた、太陽、月、星のごとき宇宙循環に約された運命に、どうしても動かされているといってもいい。
 いずれにせよ、時の代表者となった者は、もう純粋なる一人間とはよべない。秀吉にしても家康にしてもである。一箇の中に、無数の人間意志や宇宙意志を融合しており、彼自身は、それを″われ″だとしている者である。また周囲も、庶民も、それを″彼″だとしている者である。そしてその″我なり彼なる者″に、物々しい位階官職や姓名や特種な風貌があるために、これを人間同士で「何のなにがし殿」とつよく印象しあうが、実は、姓名官職はすべてみなこれ単なる仮の符牒でしかない。その正体は、たくさんな人間の中の、やはり一つの生命体にすぎないのである。
 こう観てくると、あわれ庶民の望んでいる平和はいつも遠いようだ。しかし、時の代表者とて、平和を望んでいないのではない。いや誰よりもその到達を熱望しまた実現をいそいでいる者だ。が、彼には、条件がある。彼はその目的の権化でもあった。だから相反する者に会えば、両者は忽ち戦争に入る。いかなる外交の秘策も敢然として行いきる。−そして、この代表者の意志とうごきの間を縫って、無数の人間があるがままな人間のすがたが、謁詐、闘争、貪欲の本能に躍り、また犠牲、責任、仁愛の善美な精神をも飛躍させる。これが人間みずから人間の住む時の地上を作りもし、彩りもし、また副産物として、ときには、文化の飛躍をも示すという−解き難いふしぎを天正の世にも見せているのであった。
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■池田勝入は、敵を知らずおのれを覚らず、だたの勇猛な人

<本文から>
 怒ったのは、池田、森の二隊から、協力を求めに来た数騎の使番たちである。
「この期にいたって、味方の苦境をかえりみず、基地へ逃げ帰るとは、何たる腰ぬけか」
「臆病凰にふかれたにちがいない」
「堀久太郎も、きょうはみずから、化けの皮をあらわしおった。−生きて帰らば、きっと、笑ってやるぞ」
 かれらは、使いの首尾が果せなかった鬱憤も加えて罵りやまなかった。 −が、ぜひなく、今や長久手にとりのこされて、家康が金扇の馬じるしを迎えんとしつつある−孤軍池田父子の自隊へむかって、腹だちまぎれの鞭をビシビシ馬腹へ鳴らして駈けもどった。
 さても、池田勝入入道信輝と、智、森武蔵守長可の二隊こそ、いまは、家康の好餌であった。
 人のちがい、器のちがい。
 これは、どうにもならない。
 秀吉と家康との、こんどの会戦は、まさに天下の横綱角力であり、両者は、たがいに相手の何者なるかを、知りつくしている。
 事ここに到るまでにも、家康と秀吉とは、いつかは、今日あることを知っていたし、今日になっては、なおさらに容易に、けれん小手技で、伏しうる敵でないことを、相互に知っていの自重だった。
あわれむべし、武弁のほこりだけあて、敵を知らず、おのれを覚らず、ただ意気のみ燃ゆる勇猛な人。
 −池田勝入は、一路、三川岡崎をさして、敵地行を決して来ながら、その目的地からは横道の−岩崎城へ攻めかかり、朝めし前に、小城一つを踏みつぶした快にひたりきって、
 「かちどき!」
と、武者声を命じ、
 「三州入りの、幸先よいぞ」
 と、六坊山に床几をおかせ、かち獲った敵の首級二百余を、実検していた。
 それが、その朝の辰の上別 (七時)ごろ。
 かれはまだ、後方の変を、夢にも知らなかった。目前に、余燻の煙をあげている敵の城骸だけを見て、武勇の人の陥りやすい、小さな快味に酔っていた。
 首実検や、軍功帳への記入を終ってから、ここでは朝めしの兵糧だった。
 兵たちが、口をうごかしながら、時折、西北の空を見ているのが、ふと、勝入も気に なった。
 「丹後、何じゃろ、あの空いろは…」
 池田丹後、池田久左、伊木渚兵衝など、かれをめぐる将星たちが、同じ角度に、みな西北へ顔を向けた。
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