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<本文から> しかし、奉行人や築城当事者の考えるところは、要するに、当時の一般常識の最も高度な創意なのであって、秀吉の企画や構想の方が、独り余りかけ離れすぎていたからであることはいうまでもない。
そしてこの相違の原因が、何によるかを考えてみると、二者の観念に、根本的なひらきがあり、つまり″目のつけどころ″が全くちがっているのであった。
日本の一般人士には当然、この創意、構想にも、日本という限界があった。あらゆる物の比較も、限界の外を出ない。
ところが、秀吉の場合は、その対象を、日本に限っていず、海外をも考慮にいれていたのである。少なくも彼は全亜細亜を鳥瞰していた。堺の港湾は一潮遠く欧羅巴の十七世紀文化につづき、五畿の経営は、西欧の使臣や宣教師らの本国へ寄する報告によって、日本の国威にかかわるところ大なりと信じていた。
従って、彼以外の者が、悉くその大げさにあきれたという程な企画も、彼にとっては、なおまだ腹中の全を尽くしたものでなかったに違いない。
それと。
彼のこうした理想の具現は、きょうや昨日の思いつきでないこともいうまでもない。
もとよりそういう大気宇は、彼の本質にあったものに違いないが、時、ようやく、勃興的気運に向いつつあった日本の文化的使命と、海外からの西漸の風潮などについて、時代の活眼を与えてくれた恩人は、実に、彼にとっては主君であり師でもあった、故信長なのであった。
藍より出でて藍より青し。
信長の衣鉢は、まさしく、秀吉によって継がれたものといっていい。秀吉は故主の長を取って短を捨て、独味の行き方と、天質の大を加えて来た。
早くから海外に眼を放って、いつか世界的知性を帯びていたのも、畢竟、信長の恩恵であった。安土の高閣の一室にあった世界地図屏風は、そっくり秀吉の脳裡に写しとられていた。
また、堺や博多の大町人たちから得た知識も少なくない。それらの者たちとは、公用としては、鉄砲火薬の取引などで日常に接し、私人としては、茶友として会することもしばしばだった。
秀吉は、卑賎に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮す年時などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。
だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。
−我れ以外みな我が師也。
と、しているのだった。
故に、彼は一箇の秀吉だが、智は天下の智をあつめていた。衆智を吸引して本質の中に濾過していた。また時々、濾過しない衆愚らしい振舞も見せ、本質の個性をむき出しで見せる場合もあるにはある。彼は自分を、非凡なりとは自信していたが、我れは賢者なりとは思っていない。
−とまれ今日、彼にとって、何といっても、忘れがたい人は、やはり故信長であった。
猿よ。
大気者よ。
こっちを向け。
あっちを向いてみろ。
ああ、もう一度、そういわれてみたい−−という思いもするのだった。− で、この戦後の建設に多忙極まる中にも、六月二日の忌日を忘れず、大徳寺において、総見院殿一周忌の法事を営んだのも、決して、単なる政略のみではない。人はそうも見ようが、彼は由来、煩悩児である。愚かなる追憶や、その追慕とは相剋する、信孝の処理や、信雄にたいする考えも、こうして先君の位牌に冥々裡に、お告げもし、お詫びしておけば、彼の心は信長の生ける言を聞き得たように、大いに救われる気もするのであった。 |
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