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<本文から>
徽宗は、東宮時代から、すでに風流公子たるの素行が見えていたように、帝位に即いてからも政治には関心が薄かった。
しかし、絵画、音楽、建築、服飾など一面の文化は、このとき一倍の絢爛を咲かせた。徽宗自身も、絵筆をもてば、一流の画家であり、宮中の宣和画院には、当代の名匠が集められた。
また、印刷の術が進み、書籍の版行も普及され、街には、まだ雑劇の揺藍期だが、演劇も現われ、すべて宋朝の特長とする文治政治はこの前後に或る頂点を示したといってよい。
けれど、文治のなかには、王安石一派の急進的な改革論をもつ者と、保守旧法にたてこもる朝臣とが、たえず廟に争っていたので、徽宗の代には、もうその内面に分裂と自解の、ただならぬ危機を孕んでいたのである。 にもかかわらず、徽宗は依然、風流 皇帝であった。
道教をもって、国教とし、自分も教主となって、保護につとめた。全国から木石禽獣の珍奇をあつめ、宮穀の工には、民の塗炭もかえりみもしない。当然、苛税、悪役人の横行、そして貧富の差は、いよいよひどく、苦民の怨嗟は、四方にみちてくる。−時運は徐々におだやかでなく、遼を亡ぼした金(満州族)は、やがて太原、燕京を席捲して、ついに開封汀城の都にせまり、徽宗皇帝から妃や太子や皇族までを捕虜として北満の荒野に拉し去った。そして、徽宗はそこで、囚人同様な農耕を強いられ、ついに帝王生活の悲惨な生涯を終えるにいたるのである。
(中略)
いや、おもわず、これは余りに、先の先をちと語りすぎた。
徽宗の終り、北宋の崩壊などは、ここでは、まだまだ二十五年も後のことである。水滸伝は一名を北水滸伝ともいわれるように、徽宗皇帝治下のそうした庶民世間の胎動をえがいた物語なので、前提として、時勢の大河がどんな時点を流れていたか、それだけを知ればよい。
さて。話を元へ返すとしよう。
−新皇帝の即位とともに、高使もまた、朝に入って帝の侍座となったのはいうまでもない。毯はついに九天にまで昇ったわけだ。
そして、帝の重用はいよいよ厚く、彼の上には栄達が待つばかりで、やがて幾年ともたたないうちに、殿帥府ノ大尉(近衛の大将)とまでなりすましてしまった。 |
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