吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新・水滸伝1

■徽宗の混乱の時代

<本文から>
  徽宗は、東宮時代から、すでに風流公子たるの素行が見えていたように、帝位に即いてからも政治には関心が薄かった。
 しかし、絵画、音楽、建築、服飾など一面の文化は、このとき一倍の絢爛を咲かせた。徽宗自身も、絵筆をもてば、一流の画家であり、宮中の宣和画院には、当代の名匠が集められた。
 また、印刷の術が進み、書籍の版行も普及され、街には、まだ雑劇の揺藍期だが、演劇も現われ、すべて宋朝の特長とする文治政治はこの前後に或る頂点を示したといってよい。
 けれど、文治のなかには、王安石一派の急進的な改革論をもつ者と、保守旧法にたてこもる朝臣とが、たえず廟に争っていたので、徽宗の代には、もうその内面に分裂と自解の、ただならぬ危機を孕んでいたのである。 にもかかわらず、徽宗は依然、風流 皇帝であった。
 道教をもって、国教とし、自分も教主となって、保護につとめた。全国から木石禽獣の珍奇をあつめ、宮穀の工には、民の塗炭もかえりみもしない。当然、苛税、悪役人の横行、そして貧富の差は、いよいよひどく、苦民の怨嗟は、四方にみちてくる。−時運は徐々におだやかでなく、遼を亡ぼした金(満州族)は、やがて太原、燕京を席捲して、ついに開封汀城の都にせまり、徽宗皇帝から妃や太子や皇族までを捕虜として北満の荒野に拉し去った。そして、徽宗はそこで、囚人同様な農耕を強いられ、ついに帝王生活の悲惨な生涯を終えるにいたるのである。
(中略)
 いや、おもわず、これは余りに、先の先をちと語りすぎた。
 徽宗の終り、北宋の崩壊などは、ここでは、まだまだ二十五年も後のことである。水滸伝は一名を北水滸伝ともいわれるように、徽宗皇帝治下のそうした庶民世間の胎動をえがいた物語なので、前提として、時勢の大河がどんな時点を流れていたか、それだけを知ればよい。
 さて。話を元へ返すとしよう。
−新皇帝の即位とともに、高使もまた、朝に入って帝の侍座となったのはいうまでもない。毯はついに九天にまで昇ったわけだ。
 そして、帝の重用はいよいよ厚く、彼の上には栄達が待つばかりで、やがて幾年ともたたないうちに、殿帥府ノ大尉(近衛の大将)とまでなりすましてしまった。
▲UP

■梁山泊は無法者地帯

<本文から>
  梁山泊は正確に周り何古里とも見きれず、号して当時八古里(支那里)といわれている。風浪の日はおそろしいが、晴れた日は、山をめぐる白雲、太古の密林、そして、目路のかぎりな芦の州から葭の汀とつづいて、まるで唐画の″芦萩山水″でも見るような風光だった。
 ところが、ここには、宋朝の世に容れられぬ反骨の徒、不平の輩などいつか何百人群れよって山葵をきずき、公然、時の政府に抗して義盗ととなえ、舟行や陸の旅人などをなやましていた。従来しばしば取潰しにかかった官軍といえど、生きて還った例がない−と、までいわれている巨大な″無法者地帯の浮巣″だったのだ。
 「−なるほど、これでは」
 その日、朱貴(茶亭の亭主、実は山秦の一員)が呼んだ早舟に乗せられて、対岸の金沙灘で舟を下りた林沖は、行く行く、その要害には舌を巻いた。
 芦荻と芦荻の間は舟の迷路をなし、陸の道は迷宮を行くにひとしい。賽の河原にも似て、蕭条たる水辺、幾つもの洞門、谷道、また密林の中など、忽ち帰る方角もわからなくなる。
 かくて、山腹の断金字までたどりつくと、そこで彼は、首領の王倫に会った。
 王倫はもと、都でまじめに学問を志し、進士の試験勉強に励んでいたが、官府の腐敗を見たり、世間の裏表を知ると、勉学が馬鹿らしくなった結果、試験にも落第してしまったので、ついに自暴ッぱちの放浪をつづけたあげく、この梁山泊へ来て宋万、杜選、朱貴などの仲間を得、いつか七、八百人の頭目にまつりあげられていた者だった。
▲UP

メニューへ


トップページへ