吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     親鸞3

■悪人も泣き出した善信の話

<本文から>
 「悪人−といったような声がふと耳に入った。四郎はぎょっとして首をもたげた。
(俺のことを何かいっているんじゃねえか?)清疑の眼を光らして見まわすのであった。
 善信の法話の言葉のうちにである。幾度も、悪人という語が用いられた。悪人という語が出るたびに、四郎はぎくりとして、
(俺へ面当てをいってやがる)と思った。
 だが、周囲に充ちている聴衆は、相変らず熱心に、善信の法話に耳をすましているだけであって、四郎のほうを見る者などは一人もないのである。
 しかし四郎は、多くの人々が、自分に無関心であるとないに拘わらず、悪人という言葉が癪にさわった。こんど何か自分の面当てがましいことをいったら、躍り立って、壇にいる善信の襟がみを引っ掴んでやろうと心に企んでいるらしく、じつと、聞き耳をたてて、善信のことばを聞いていた。
−すると、その耳へ諄々と入ってきたのは、善信の説いている真実な人間のさけびであった。他力の教えであった。念仏の功力だった。−また、どんな人間でも、心をそこに発した日から、過去の暗黒を捨てて、往いて生きる − 往生の道につけるも一だという導きであった。
 それが、実証として、善信は今、こうもいっているのであった。
 善人でさえなお往生がとげられる。
 なんで! 悪人が往生できないということがあろうか。
 聴いている人々は、最初は何か間違いをいっているのではないかと思ったが、だんだんと善信が説いてゆくのを聞いて、
 (なるほど)と皆、深くうなずいた。
 単に、悪いことをしないという善人よりは、むしろ、悪いことはしても、人間の本質に強い者のほうが、はるかに、菩提の縁に近いものだということもわかってきたし、また、そういう悪人がひとたび悔悟して、善に立ち直った時は、その感激と本質が加わるので、いわゆる善人の善性よりも、悪人の善性のほうが、かえってはやく御仏の心へ近づくこともできる−
 ひとたび悪業の闇に踏みこむと、無間の地獄に堕ちるように、聖道門のほうではいうが、われわれ他力本願の念仏行者は、決して悪人といえども、それがために、憎むこともできない、避ける必要も持たない。ただ、どうかして、その悪性が善性となる転機に恵まれることを願いもし、信じもするものである。
 こう善信は話した。
 およそ人間の中に真の悪人などはいない。善人の心にも悪があり、悪人の心にも善はある。悪人と呼ばれるものは、社会からそういうけじめをつけられて、自身も、悪を嘆美したり、悪人がったり、悪を最善のものと思ったりしているが、その実、彼も人間の子であるからには、常々、風の音にも臆したり、末のはかなさを考えたりして、必ず、われわれのような生きがいは感じることができないでいるのだ。世の中に、不愍な人間という者をかぞえれば、路傍の物乞いより、明日の知れない瀕死の病人より、そういう日常坐臥に、人間のくせに、人間に対して負け目をもっている悪人である。
 善信の話は、それから先も尽きなかった。人々は、まったく、水の底のようにひっそりして、皆顔をうなだれて聞き入っていた。−すると、誰ともなく、聴衆の真ん中で、不意にオイオイと声をあげて泣き出した者がある。
「おや?……」初めて、人々は、眼をそこにあつめた。見ると、天下の大盗といわれる天城四郎ではないか。四郎は、子供のように泣きやまなかった。
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■法然らへの弾圧

<本文から>
 罪は勿論、法然ひとりに下ったのではない。
 吉水門下のうちでは、浄聞房、禅光房などの高足八名に対して、備後、伊豆、佐渡、阿波の緒国にわけて、それぞれへ、
(流罪−)という厳達であった。
 その他には、性願房、善綽房という二人は、かねてから鹿ケ谷の安楽房や住蓮と親密であり、かたがた、平常のこともあって、これは、
(死罪−)という酷命であった。
 吉水の禅房を中心として、洛内の信徒の家屋敷は、おのおの、暴風雨の中のような様であった。
 突然、荒々しい武者どもが来て、
 「調べる」と、たった一言の下に、家財を掻き回して、家宅捜索をする、そして、わずかばかりな一片の手紙でも、不審と見れば、
 「こやつ、念仏門の亡者と、深い企みがあったな」
 有無をいわせないのだ。食事中の主を引っ張って行ったり、乳のみ児の泣く母親の手を曳いて行ったり、それはもう地獄の図にひとしいありさまだった。
 わけても、今度の事変で、法然上人以上に、一身を危機に曝された者は、岡崎の善信であった。
 叡山からは特に、と、かねてから注目の的になっていた善信である、念仏門の大提唱は、法然によって興ったとはいえ、その法然の大精神と信念とを体して、自己の永いあいだの研鑚をあわせて、強固不抜ないわゆる一宗のかたちを完からしめてきたのは、より以上、善信その人の力であると、今では人も沙汰するところである。
「彼こそ、この際、断じて死刑に処されなければいかん」とは、彼の大を知る反対側の他祭において、勃然と揚っている気勢であった。
 で−−法然門下中の逸足としてこんどの処刑のうちには、真っ先にその名が書き上げられてあった。
 他宗の希望どおりに「死罪」として。その罪として、
−彼は肉食妻帯をしている。
−彼は公然、しかも白昼、その妻五日の前と同乗して、洛中を憚りもなく牛車を打たせて歩いた。
−彼はまた、何々。
 善信の今日までの苦難力学はみな罪条にかぞえ立てられ、叡山の大衆はひそかに、(異端者の成れの果てはこうなるのが当然だ、こうして初めて社会も法燈も正大公明ということができる)といった。
 ひとり六角中納言親経は、その罪を決める仁寿穀の議定でそれが公明の政事でないことを駁論した。         
 中納言のこの日の議論はすさまじかった。太上天皇のおん前ではあったが、面を冒して善信の死罪はいわれのない暴刑であると論じ立てたのである。−しかし彼は吉水の味方でもなく叡山の味方でもなかった。
 天皇の臣として、また、この国の文化と精神をつかさどる一員として、極力、反対したのである。その結果、善信は死一等を減じられて、
(越後国、国府へ遠罪)と決まったのであった。
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■彼の坐るところには人が集まってくる

<本文から>
 心境に大きな変化が起っていたのである、たえまなく自己を考え、また真理を究握しようしてやまない善信の内省のうちに、このごろ、ふと、今も生信房にいったような気持がたしかにわいてきている。
「……おもうてみると、自力聖道の門から他力易行の道へかかるまで、そのあいだの幾多のまよい、もだえ、苦行、またよろこびなど、三十九歳の今日となって、撮りかえってみれば、実にただ愚の一字でつきる。おろかしや−われながら今、その愚かさにおどろかれる」つぶやくように、善信はいうのである。
師のことばに、生信房はおのずと頭が下がった。そして、賢しくも、自分などが近ごろ、やや念仏門の真実がわかったような顔をしていることが、恥ずかしくなった。善信は、なおいう。
「このごろ、しみじみとわしは自分がわかってきたような気がする。−飽くまで凡夫を出でない人間じゃと。−さきの夜、あの生信房がいうのを聞くにつけて思いあわせられたのじゃ。極悪無道の大盗四郎であった彼が、たちまち、なんの苦行や迷いや悶えもなく、赤児が這って立つように、素直に念仏を体得している様を見ると、そこに、凡夫直入のわが念仏門の真理が手近にある。−三十年の懊悩をみぐるしゅう経てきたわしと、ついきのう念仏に帰依した生信房と−較べてみよ。どれほどの差があろうぞ。…わしはむしろ彼に教えられている。
 わしも本体の愚のすがたに帰ろうと思うのじゃ。そして、いっそう真の念仏を−凡夫直入の手びきしようと存ずる。−名も今日よりは、愚禿とかえる。昨夜ふと真如の月を仰ぎながら、親鸞という名もよいと思うたゆえ、その二つをあわせ、愚禿親鸞とあらためた。 − 愚禿親鸞、なんとふさわしかろうが」
 「はい……」生信房もふかい内省にひき込まれていた。それ以上答えができなかった。善信はその日から、自分を愚禿とよび、名を親鸞と改めた。一同へも、告げた。
 冬になる。やがて−春がくる。伸びた黒髪に、網代の笠をかぶって、親鸞はよく町へ出て行く.着のみ着のままの破れ法衣−見るからに配所の人らしくいぶせかった。だが、彼の頼には、いつも誰に対しても、人なつこい親しみぶかい、愚禿の微笑みがかがやいていた。
 国府を中心にして、新川や頚城あたりから、ある時は、赤石、小田の浜の地方まで、親鸞は、ひょうひょうと布教にあるいた。
 彼のすがたが、道の彼方から来るのを見かけると、
 「おお、愚禿さまがお出でだ」
 「お上人がおいでだぞい」浜の童も、畑の女たちも、彼を見知っでいて、彼をとり巻いた。
「きょうは、なんのお話をしようかの」と、親鸞は、畑にも、砂の丘にも、坐りこんだ。
彼の坐るところには、手をあげて呼ばなくても、人が集まってくる。いつのまにか、一家族のような丸い輪になるのだ。
 「この間の法話も、もういちどお聞かせしてくらっせ」仏の法話を、漁民も農夫も、聞くのを楽しんだ。なぜならば、親鸞の話は、誰にもよくわかったし、このお上人様は、自分たちへ高僧として臨むのでなく、まるで友達のようになって、親しく、なんでも教えてくれるからであった。
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■妻帯など百姓と変わらぬ生活を始めた

<本文から>
 在りのままな姿の信心−在家往生の如実をどうしたらそういう人々に解らせることができるだろうか。
理論ではだめだ。学問や知識のうえからそれを野に働く土民たちに教えることは、かえって、厭われることになるだろう。−親鸞は考えた。
 説くよりも、実際の生活をして見せることだ−と。
 だが、玉日はすでに世を去っていた。一子の範意は京で育てられている。法衣を着て、孤独の身を寺のうちに寂然と置いていては、口、在家仏果を説き、在りのままの易行極楽の道を説いても、自身の生活は、やはり旧来の仏家の聖道門の憎と何らの変りなく見えるにちがいない。一般の人たちは、ここに矛盾を見出して、(あの坊主が、何をいうか)と、多分な狐疑を感じているのも無理ではないと思った。
 まず、自分の生活から、この百姓たちと、何らの変りのないことを示さなければならないと気づいて彼は、
 「妻をもちたい」と、周囲の者にもらした。
 西仏と、生信房は、師の房の気持にはやくから共感していたので、さっそく檀徒の小島武弘に話した。武弘は聞くと、
「まことに、そう仰っしゃったのか」と。
その前から、武弘のところに、縁談があったのである。真岡の判官三善為教の息女で朝姫という佳人がその候補者であった。
 そういう話が−親鸞の身辺に起りかけていると−すべての人間の運命というものの動いてゆく機微な時節が、いろいろな方から熟してきているように、同時にまた念仏門の帰依者の稲田九郎頼重とか、宇都宮一族などの地方の権門たちが、
 「いつまでも、上人のおん身を、あのような廃寺においては、ご健康のためによろしくない。お心を曲げても、ぜひとも、もすこし人の住むらしい所へお移し申し上げねばわれらの心が相済まぬ」そう結束して、下妻の庄からほど近い稲田山の麓−吹雪ケ谷に新らしく一院を建てて、そこへ、移住するようにすすめてきたのである。
健保二年の春。菜の花の咲きそめる板東平野の一角に、力ある大工たちの手斧初めの音から、親鸞が四十二歳の人生のさかりにかかる稲田生活の一歩は初まった。
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■ありのままに−愚のままに−衆と共に

<本文から>
 −こういう生きた道場があるのに、前人有徳の聖者たちが、誰ひとりあって、土という生きた教化に従事した例があるだろうか。
 師法然の訃を途上で聞いて、都に上浴るのを断念して、野へ去った親鸞の本願は、今こそ届いた。
ありのままに−愚のままに−衆と共に−と願った彼の生活にも、今は焦躁もない。
 百姓たちは、自分たちの群れの中に、上人を交えているのさえ大きな歓びだったのに、昨日までは、働くことは厭なことであり、辛いことだとばかり考えていたのに、汗というものに対して、
「これで安心して食えるばかりでなく、この汗のために、家族が肥え、世間が富む。働きもせずぐちをいってるなんて馬鹿なことだ。百姓こそは、国の宝じゃ、百姓は国の大みたからだ。なるほど嘘じゃない。働いて働いて−念々称名していれば、この大安心があるものを…」
 農の仕事は、いやしい仕事と、自分で自分の天職を卑下していたものが、彼らのそれは誇りとなってきた。幸福感と張合いにみちてきた。汗は希望となり光となり、一日のあいだ、仕事の嫌悪を、思い出す間がなかった。
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