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<本文から> なんのお召しであろうか。
庁の中務省へゆくまでは範宴にも分らなかったが、出頭してみると、意外にも、奏聞によって、範宴を少僧都の位に任じ、東山の聖光院門跡に補せらる − というお沙汰であった。叡山では、またしても、
「あれが、少僧都に?」と、わざとらしく囁いたり、
「二十五歳で、聖光院の門跡とは、破格なことだ。…やはり引き人がよいか、門閥がなくては、出世がおそい」などと羨望しあった。
彼らの眼には、位階が憎の最大な目標であった。さもなければ勢力を持つかである。そして常に、武家や権門と対時することを忘れない。
たれが奏聞したのか、範宴は、それにもこれにも、無関心のように見える。どんな毀誉褒腔もかれの顔いろには無価値なものにみえた。ただ、さしもの衆口も近ごろは範宴の修行を認めないではいられなくなったことである。一つの事がおこると、それについて一時はなんのかY埠のように騒ぎたてても、結局は黙ってしまう。心の底では十分にもう範宴の存在が偉なるものに見えてきて、威怖をすら感ずるのであるが、小人の常として、それを真っ直にいうことができないで、彼らは彼ら自身の嫉視と焦躁でなやんでいるといったかたちなのである。
翌年秋、範宴は、山の西塔に一切経蔵を建立した。
(他を見ずに、諸子も、学ばずや)と無言に大衆へ示すように。
無言といえば、彼はまた、黙々として余暇に刀をとって彫った弥陀像と、普賢像の二体とを、彫りあげると、それを、無動寺に住んでいた自身のかたみとして残して、間もなく、東山の聖光院へと身を移した。
東山へ移ってからも、彼の不断の行願は決してやまない。山王神社に七日の参籠をしたのもその頃であるし、山へも時折のぼって、根本中堂の大床に坐して夜を徹したこともたびたびある。
彼が、その前後に最も心のよろこびとしたことは、四天王寺へ詣って、寺蔵の聖徳太子の勝髪経とを親しく拝読した一日であった。
太子の御聖業は、いつも、彼の若いこころを鞭打つ励みであった。初めて、その御真筆に接した時、範宴は、河内の御霊廟の白い冬の夜を思いだした。
「あなたは、聖徳太子のご遺業に対して、よほど関心をおもちとみえる。まあ、こちらでご休息なさいませ」そばについて、寺宝を説明してくれた老憎が気がるに誘うので、奥へ行って、あいさつをすると、それは四天王寺の住持で良秀僧都という大徳であった。
この人に会ったことだけでも、範宴にとっては、有益な日であったし、得難い法悦の日であった。
この年、鎌倉では、頼朝が死んだ。そして、梶原景時は、府を追われて、駿河路で兵に殺された。武門の流転は、激浪のようである。法門の大水は、吐かれずして澱んでいる。
正治二年、少僧都範宴は、東山の山すそに、二十八歳の初春をむかえた。 |
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