吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     親鸞2

■範宴の修行

<本文から>
 なんのお召しであろうか。
 庁の中務省へゆくまでは範宴にも分らなかったが、出頭してみると、意外にも、奏聞によって、範宴を少僧都の位に任じ、東山の聖光院門跡に補せらる − というお沙汰であった。叡山では、またしても、
 「あれが、少僧都に?」と、わざとらしく囁いたり、
 「二十五歳で、聖光院の門跡とは、破格なことだ。…やはり引き人がよいか、門閥がなくては、出世がおそい」などと羨望しあった。
 彼らの眼には、位階が憎の最大な目標であった。さもなければ勢力を持つかである。そして常に、武家や権門と対時することを忘れない。
 たれが奏聞したのか、範宴は、それにもこれにも、無関心のように見える。どんな毀誉褒腔もかれの顔いろには無価値なものにみえた。ただ、さしもの衆口も近ごろは範宴の修行を認めないではいられなくなったことである。一つの事がおこると、それについて一時はなんのかY埠のように騒ぎたてても、結局は黙ってしまう。心の底では十分にもう範宴の存在が偉なるものに見えてきて、威怖をすら感ずるのであるが、小人の常として、それを真っ直にいうことができないで、彼らは彼ら自身の嫉視と焦躁でなやんでいるといったかたちなのである。
 翌年秋、範宴は、山の西塔に一切経蔵を建立した。
 (他を見ずに、諸子も、学ばずや)と無言に大衆へ示すように。
 無言といえば、彼はまた、黙々として余暇に刀をとって彫った弥陀像と、普賢像の二体とを、彫りあげると、それを、無動寺に住んでいた自身のかたみとして残して、間もなく、東山の聖光院へと身を移した。
 東山へ移ってからも、彼の不断の行願は決してやまない。山王神社に七日の参籠をしたのもその頃であるし、山へも時折のぼって、根本中堂の大床に坐して夜を徹したこともたびたびある。
 彼が、その前後に最も心のよろこびとしたことは、四天王寺へ詣って、寺蔵の聖徳太子の勝髪経とを親しく拝読した一日であった。
 太子の御聖業は、いつも、彼の若いこころを鞭打つ励みであった。初めて、その御真筆に接した時、範宴は、河内の御霊廟の白い冬の夜を思いだした。
「あなたは、聖徳太子のご遺業に対して、よほど関心をおもちとみえる。まあ、こちらでご休息なさいませ」そばについて、寺宝を説明してくれた老憎が気がるに誘うので、奥へ行って、あいさつをすると、それは四天王寺の住持で良秀僧都という大徳であった。
 この人に会ったことだけでも、範宴にとっては、有益な日であったし、得難い法悦の日であった。
 この年、鎌倉では、頼朝が死んだ。そして、梶原景時は、府を追われて、駿河路で兵に殺された。武門の流転は、激浪のようである。法門の大水は、吐かれずして澱んでいる。
正治二年、少僧都範宴は、東山の山すそに、二十八歳の初春をむかえた。
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■民衆の望みとは遠い覇道政治の時代

<本文から>
 この辺りは新しい仏都をなしかけていた。
 仁和寺の十四宇の大屋と、四十九院の堂塔伽藍が御室から衣笠山の峰や谷へかけて瓔珞や青丹の建築美をつらね、時の文化の力は市塵を離れてまたひとつの衆楽をふやしてゆくのだった。
 鏡ケ池には夏は蛍がりに、宇多野には秋を虫聴きに、洛中の人は自然を慕い、四季の花に月に枯野見にかこつけてよく杖をひく所であるが、わけても今年の秋から冬へ、また冬から年を越えての正月まで、仁和寺をはじめ、化蔵院や、円融寺や、等持院、この辺りの仏都市へ心から素直になって詣でる者が非常に多いといわれだしていた。
 「おのずから世の推移が、人の心をこういう方へ向けてきたのじゃ」とここの人々は、それを仏教の繁栄といい、興隆といい、また復興といった。
 そういえばそういわれないこともない。戦が生活であり、戦が社会の常態だった一時代はもう大きな汲を通った船から撮りかえるように後ろのものだった。鎌倉幕府というものの基礎や質のいかんにかかわらず人心はもう戦に倦み、ここらで本然の生活に回って静かな生活をしてみたいことのほうに一致していた。すでに国政の司権が武門の手に左右されてからは、それが平家でなければ源氏であるし、両者を不可としたところで姑息な院中政治がかえってそれを複雑にするぐらいなもので、どっちにしろ民衆の望みとは遠いものが形になるだけのことだった。民の心の底でほんとに渇くように望んでいる真の王道というような明るい陽ざしはここしばらく現れそうもないと賢者は見ている。覇道を倒して興るものはまた覇道政治だ。それならば何を好んでか全国土を人間の修羅土にして生きる心地もなく生きている要があろうか。そういう疑問が当然に疲れた人々の考えの中に芽ざしている。武士階級ほどことにそれがつよい。公卿はいつでもなるべくは現在のままで安易にありたいのだ。天皇の大民族といわれる大本の農民はほとんどそういう興亡からは無視されているので、これは幕府が鎌倉に興ろうがどうしようが今日の天気と明日の天気のように見ている−
 建仁元年一月はめずらしい平和な正月だった。四民がみな王道楽土を謳歌しての泰平ではなくて、疲れと昏迷から釆たところの無風状態 − 無力状態なのである。
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■綽空の更生

<本文から>
 生れかわった一日ごとの新しい呼吸であった。範宴は死んで、範宴は生れたのである。
 法然は、ある時、 へや
「これへ参られよ」彼を、室へ招いていった。
「世上のうわさなどを、気に病むことはないが、とかくうるさい人々が、いつまでもおん身のなした過の業をとらえて非難しているそ、つな。そしてまた、叡山の衆は、おん身が浄土門に入ったと聞いて恩ある宗壇へ弓をひく者、師の僧正を裏切る者だなどと、さまぎまに、誹誘し、呪狙する声がたかいという」
「もとよりの覚悟でございます。ただ惧れますことは、私の願いをおきき下さったために、この念仏門の平和をみだしては済まないと思うことです」
「心配をせぬがよい」上人は明るく笑って、
「おん身の非難の余波ぐらいで乱されるこの門であったら、億衆の中に立って、救世の樹陰となる資格はない」といった。そして、
「しかしまた、世の風に、われから逆うこともあるまい。おん身もこの際に、名を改めてはどうか。いくらかでも、人の思いも薄らごうし、また自身の生れかわったという気持にも、意味がある」
 「願うてもないことです。甘えて、お騒い申しまする、なんぞ、私にふさわしいような名をお与え下さいまし」上人は、唇をむすんだ。しばらくして、
 「綽空」と力づよい声でいった。
  縛空−彼は自分の今のすがたにぴったりした名だと思った。
 「ありがとうごぎいまする」うれしげである。
 縛空は、まったく変った、ここへ入室してからの彼は、他の法門の友と共に、朝夕禅房の掃除もするし、聴聞の信徒の世話もやくし、師の法然にも侍いて、一沙弥としての勤労に、毎日を明るく屈託なく送っていた。どこか、今までの彼の相に、無碍の円通が加わってきた、自由さ、明るさ、宏さである、一日ごとが、生きがいであった。生きているよろこびであった。
 法然は、綽空を愛した。何かにつけ、道場の奥から、
 「縛空」と呼ぶ声がもれる。
  禅房の友だちたちには、熊谷蓮生房がいた。空源がいた。念阿がいた。湛空がいた。安居院の法印も時折にみえる。そして綽空の更生を心からよろこんだ。
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