吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     親鸞1

■親鸞の生まれ

<本文から>
 承安四年は、仏法日本にとって、わけて念仏道にとって、忘れがたい春秋であった。
 誕生して、まだ、まる二つにならない日野の十八公麿が、十五夜の名月に心のひとみをひらいて、無心のうちに、南無−の六音を唱えたということが、いつか隠れもない噂ばなしと伝えられる前に、洛東の吉永禅房では、期せずして同じ年に、法然上人が、専修念仏の新教義を唱道えだしていたのである。
 後に思うと−法然上人の第一声と、幼い親鸞の第一声とは、ゆくりなくも、生るべき時代に−約束のない約束のもとに−秋を同じゅうして世に出たともいえる。浅からぬ因縁といえる。
 法然の堂には、毎日、求法の民衆が、草のなびくように、寄って行った。
 宮廷からも、お招きがあった。関白兼実も、聴聞した。はなはだしい平家の抜庖と、暴政と、いつそれがくずれて火をふくかもわからない危険な地熱とが感じられる一方に、そよと、冷やかな泉声でも流るるように、それは、民衆の不安と渇いた心に、争って、汲まれるのであった。
 六条上皇が崩ぜられた。
 改元して安元二年。吉光の前は、一年おいて、また一人の男の子をもうけた。−十八公麿の弟、朝麿である。
 その朝麿が二歳、十八公麿が四歳となった。乳人にだかれている弟を、
 「あさ殿、お目あけ……」と、もう幼い兄ぶりを示す彼であった。その兄弟のために召抱え入れた乳母が、ある時、
 「介どの、介どの」侍従介を、よびたてて、二人して、仏間のふすまの聞から、中をのぞき合っていた。
 そして、笑いさざめいているので、吉光の前は、自分の居間を出て、
 「和子たちいう何を見ておりますか?」と、後ろから訊ねた。乳母は、
 「まあ、ご覧じませ、あのように、十八公麿さまが、小さいお手へ、数珠をかけて、御像を拝んでおいでなされます。誰も、教えもせぬに、何というしおらしい−」と眼をほそめて告げるのであった。
 「ほんに……」と、青光の前の陣にも、思わず微笑がただよう。
 子は、母の鏡であった。黒業も自業も、自分たちのなすことはすぐ映してみせるのである。彼女は、おそろしい気がした。
「お母さま」人々の気配に気づくと、十八公麿はふりかえって、数珠をすてて彼女の膝へすがった。壇のまえに坐って、拝んでいた相には、無邪無心の光があって、仏の再生でもあるように、何か尊いものに心を打たれたが、そうして、母の膝にからみついて、母の乳に戯れた十八公麿の容子は、やはり世間の誰の子とも変りのない子どもであった。
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■源家の武士の血をひく

<本文から>
 「−後ろも見ずに、範宴は、先へゆく師の房と弟子たちの後を追って走ってゆくので あった。幾たぴか、雪にまろんで。
 そして、叡山ロヘかかって行く。
 山にかかると、山はなおひどかった。師の慈円をはじめ弟子憎たちは、誰からともなく、経文を口に誦して、それが、音吐高々と、雪と聞いながら踏みのぼってゆくのであった。
 範宴も、口の裡で真似て、経を詞した。はじめのうちは、声も出なかったが、いつのまにか、われを忘れていた。
辷っても、ころんでも、傍の者は、彼をたすけなかった。性善坊ですら、手をとっ て、起してはやらないのである。それが、師の慈悲であった、弟子憎たちの友情なのであった。
 「−誰か知る、千丈の雪」慈円は、つぶやいた。
 「おつかれになりませんか」弟子憎たちがいたわると、
 「なんの」と、首を振られるばかりであった。
 範宴は、おくれがちであった。雪が、雪の中をころがって行くように、峰を這った、谷道を越えた。性善坊は、後ろについて、
 「もうすこしです」と励ました。
 「大丈夫」と、範宴はいう。
 幾たびか、ころぶので、竹の杖をにぎっている指の聞から血が出ていた。
  それでも、
 「大丈夫」と、いうのである。
 なんという意志の強さだろう、強情さであろう、負けん気であろう、そして、熱情だろう−と性善坊は、小さい範宴のうしろで、ひそかに思った。
 やはり、この和子の五体には、養家からの母御の血 − 義経、頼朝と同じな、源家の武士の脈搏がつよく縛っているらしい。
 境遇と、生い立ちの置き所によれば、この少年もまた、平家に弓をひく陣頭の一将となっていたかもわからない。
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■覚明が仏弟子となる

<本文から>
 炉辺の夜がたりは尽きない。
 覚明は昼間、範宴の講義を聴いた時から、
(これは凡憎でない)とふかく心を囚われていたが、さらに一夜を語り明かしてから、
(この人こそ、虚無と紛乱と暗黒の巷にまよう現世界の明しとなる大先覚ではなかろうか)という気がした。で、あくる日あらためて覚明は範宴のまえに出た。
「お願いがござるが」範宴はやわらかい眼ぎしを向ける。この処女のような陣のどこにきのう講堂で吐いたような大胆な、そして強い信念がかくされているのかと覚明はあやしくさえ思う。
「拙者を、今日から、御弟子の端に加えていただきたいのですが−」
「弟子に」
「されば」覚明は力をこめていった。
「今日までの自分というものは、昨夜も申しあげたとおり、武辺の敗亡看であり、生きる信念を欠いた自己のもてあましたものでありましたが、もういちど、人間として真に生き直ってみたいのでござる。おききとどけ下さらば、覚明は、今日をもって、誕生の一歳とおもい、お師の挨尾に附いて、大願の道へあゆみたいと存ずるのでござる」
「あなたは、すでに、勧学院の文章博士とし、学識も世事の体験も、この範宴よりは遥かに積まれている先輩です。−私がおそるるのはその学問です。あなた、今までのすべてを」学問も智慧も武力も −一切かなぐりすてて、まこと今日誕生した一歳の嬰児となることができますかの」
 「できる。−できるつもりです」
 「それをお誓いあるならば、不肖ですが、範宴は、一歳のあなたよりは、何歳かの長上ですからお導きいたしてもよいが」
 「どうぞ、おねがいいたします」覚明は誓った。
 かつて、木曾義仲にくみして、矢をむけた時の平家追討の返翰に、−酒盛は平家の塵芥、武家の糟糠なり。
 と罵倒して気を吐いた快男児覚明も、そうして、次の日からは、半憎半俗のすがたをすてて、誕生一歳の仏徒となり、性善坊に対しても、
(兄弟子)と、よんで、侍く身になった。
 覚明ひとりではない。時勢は、源頼朝の赫々たる偉業を迎えながら、一方には、その成功者以上の敗亡者を社会から追いだしていた。
 壇の浦を墓場とした平家の一族門葉もそうである。
 それを討つに先駆した木曾の郎党も没落し、また、あの華やかな勲功を持った義経すらが、またたくまに椎幕の人々と共に剰滅されて、社会の表からその影を失ってしまった。
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