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<本文から> 「さらば、そちは、母の子になれ」
「お父様も好きです。お父様とお母様と、いつまでも、一緒に暮していとうございます」
「ならん」
軽く、肩を押すと、吉千代はうしろへ転んだ。お陸は、われを忘れて、
「オオ、泣くな吉千代、お父様は、ちと御機嫌のわるい日じゃ。晩には、いつものお父さまに戻って、笑顔を見せて下さろうぞ」
膝へ寄せて、涙の顔へ、涙の顔を摺りつけていると、
「いや、晩はおろか、永劫に、左様な日はあるまい。長男の主税だけは、父の手許へとめおくが、その他の子たちは皆連れて、即刻、豊岡へ引き払うて行け!よいかお陸、屹度、申しつけたぞよ」
「ともあれ、叔父御の小山様、従弟の進藤様などにもお相談い申したうえで。……のう、吉千代」
「その進藤や、小山の叔父には、疾くに話してあること故、改めて其方から申し伝えるに及ばぬ」
「えっ……では、それ程、御用意の上で」
「うむ」
深く−大きく頷いて−内蔵助は、じっと彼女を見ながら云った。
「多年、連れ添うては来たが、身を町人の境涯に落して見れば、家風に合わぬ其方、いつかは去ろうと考えていたのじゃ……」
お陸は、もう涙をこぼさなかった。良人のそういう眼には、言葉とは反対な慈悲に満ちた、遠い思慮が、底の見えない湖のように澄んでいるのだった。女には測り難いものを深く湛えて。
「是非もござりませぬ……」
畳へ両手を落して、お陸がそう云うと、良人は、領いたようであった。−しかし、悲しい事ではあった。女として、母として、死ぬより辛い思いが胸を突き抜ける。
ただ、良人を信じるほかはない!いや今日までもこの良人に対して、お陸は、微塵も疑ぐったことはなかった。この信念を、なぜ一刻でも胸から放したか。
自分を叱り、自分を励ましながら、彼女は、涙を拭いて立った。奥のほうで大三郎が眼をさましたとみえ、乳房を求めて泣きぬいている。 |
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