吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新編忠臣蔵(一)

■浅野による吉良への刃傷

<本文から>
 黒い素袍の肩から背中へかけて、斜めに口を開いていた。そこから迸る血には、痛いとも斬られたとも、何の感じもないのである。かえって、振向いた利那、烏帽子の金輪にガキッとこたえたに過ぎない太刀の力と、瞳のそばまで来た光に、上野介は喪神してしまっていた。
 もう自分の頭蓋骨が、二つに割られてしまったものと、思い込んだように、
 「うッ…‥う、う、う」
 顛倒していたが、両手で顔を掩って、起き上がると、
 「きッ、斬られたっ。ら、らん心者でござるっ」
 暗闇を、蹟くように、
 「−お出会いくださいっ。内匠頭が−内匠頭がっ−」
 上ずった声を額からあげて、大廊下を、桜の間の方へと、転んでいた。
 鶏の足痕みたいに斑々と、血が零れて行く。−右往左往する人々が、それを踏みつけるので殿中は描く汚れた。
 「吉良どの、お鎮まりなされい」
 「相手方の内匠頭どのは、すでに、梶川与三兵衛が、組みとめましたぞ」
 「吉良どの!上野どの」
 追い従って、支えているのは、高家衆の品川豊前守や、大友近江守たちであった。
 だが上野介は、その人々の顔さえ見境いを失ったらしく、振りもぎっては、
 「お医師をっ。−お医師をっ」
 とばかり、喚いているのである。
 それを、人囲いに取り巻いて、宥めていると、側を通った播州龍野の城主脇坂淡路守が、
 「ほう、今の悲鳴は、吉良どのか。甲冑が血まみれは武士の誉れとこそ思ったが、素袍の血まみれは珍しい。−いや、古今の椿事」
 と、覗いて行った。
 鼎の沸くような混乱の渦から、思いがけない笑い声がどっと流れたりした。人々の中にある日頃からの、上野介への感情をそれは証明していた。
 御目付役の詰めている溜の間にいた多門伝八郎は、
 「お坊主、お坊主っ」
 と、その席を立って、
 「騒がしいが何事じゃ」
 通りかかった茶坊主の一人をつかまえて早口に訊ねていた。
 「ただ今、浅野内匠頭様が、高家筆頭の吉良どのを、刃傷なされました」
 「えっ」
 同役切久留十左衛門、近藤平八郎、大久保権右衛門らも、伝八郎の後から、顔いろを変えて駈けて行った。
 刃傷!刃傷!と熱い呼吸をしていう人々の呟きが、耳のそばで、走り乱れた。
 見ると−桜の間の板縁と、松の間の角と、大廊下の二所に、昂奮で硬ばった人々の顔が押し合っていて、その両方から異様な声が聞えてくる。
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■浅野内匠頭の切腹

<本文から>
  警固の者、検便役、介錯人など、人は邸上にも邸下にも満ちてはいるが、咳声する者はない。
(……明るい夜だの)
 何となく、内匠頭は、そう思う。
 邸内の灯と、空の星とが、何か自分を迎えている。なるべくは、にこッと、笑顔をもって死んでやりたい。
 そんな事も、ふと思うのである。
 源五右衛門の顔を一目見たことは、予期していなかった事だけに、最大な欣びであった。眠から眼へと、自分の伝えたい意志はそっくり彼へ預けてしまったように、心がかるくなっていた。
 たった、一つの残恨も。
(それさえ……それさえ、家来共に届けば)
 と、眼をとじたが、すぐ左右を見て、
「お手数ながら、料紙と硯を」
 そして風にうごく懐紙の耳を小指で抑えながら書きながした。
  風さそふ
  花よりもなは
  われはまた
  春のなごりを
  いかにとやせむ
 下に置いて、
「もう一儀、最後のご仁恕を仰ぎまする。私、差料の刀を介錯人へおさずけねがいたく、使用後はそのまま介錯絶頂へ遣わしたく存じます。
 大検便は相かわらず領かなかったが、両検便が、
「苦しゅうあるまい」
 といったので、内匠頭の望みはかなった。
 と同時に介錯の磯田武太夫はそれを提げて、
「御用意」
 と、内匠頭の後ろに立つ。
 彼は、人々へ、目礼を送って、徐々と、作法していた。水神の前を外して、三方をいただくと、すぐ、小刀を執って、
「御介錯、ご苦労に有ずる」
 と、云った。
 鞠を出る刃の音が、背なかで、そっと辷る。
 からと、水桶に柄杓子が鳴った。
 「御用意、よろしいか」
 武太夫が、二度目の声をかけた時には、もう内匠頭の嘗は自分の胸を噛むように俯つ伏して、水裃の肩先が、蝉の羽のように打ちふるえていた。
 一瞬の真っ暗な陰に、無数の玉虫のような光が、赤く、青く、白く、紫に、緑に、おそろしい迅さで渦を措いた。その斑の一つ一つが、妻の乗姫の顔であり、赤穂の城であり、父の義直であり、せだ幼い内蔵助の丸い笑顔であり、故郷の本丸に実っている柿の実であり、そしてまだ乳母の懐に抱かれていた頃の自分のすがたであると見たせつなに、白い刃は、水玉をちらして、三十五年の生と、永劫の死との間を、通りぬけた。
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■武士と町人の立場の差

<本文から>
  こんどの大きな衝撃で、何よりもはっきりしたことは、武士と町人と、二階級の立場の差であった。二つの日常生活の差異が露き出しに事件の表面に現れたことである。一方は、城地と名を思う以外は、絶対に生命はないとしなければならない人々であったし、一方は、途端に自己の打算に立ち、個々の生活を町の騒ぎへ持ち出して、露骨に機敏に、利害を主張すればそれでよかった。
 しかし、握っていた藩札が、みな紙屑になってしまうかと恐れた町人たちも、後では彼等自身、すこし気恥かしくなったように落着き込んだ顔に回った。辻々に藩札六歩換えの立札を立て、現金を積んで待ちかまえていた札座奉行が張合い抜けを感じる程であった。
 きのう今日の二日ほどを、屋敷にいて案じている内蔵助の命をうけて、様子を見に来た勘定方の岡島八十右衛門は、そこの閑散ぶりを眺めて、
 「町人共は、六分換えという額に、不満なのであろうか」
と不審がった。札座横目の勝田新左衛門が机から、
 「いや、それどころじ.やない、引換えに来る者はみな、詫びたり、涙をながして帰る。大石殿の処置を、称えないものはない。引換えに来ないのは、むしろ安心しきっているのだ」
 「それでは却って、残務の処理が遅れて困るという大石殿の仰せだ。町名主に日限を示し、こちらから督促しても、藩札の方は、両三日中に一切極りをつけるようにというお言葉だった」
 「そうでもしなければ埒が明くまいが、まだ、御本家の方へお縋りに行った使者が帰って来ぬうちは」
 「いや、芸州侯へご合力を願いにやった使者は、途中からお呼び戻しになった。塩税の抹謝金やらその他のお取立てが、案外に順調に集まるので、この分ならばと、大石殿も、愁眉をひらいていらっしゃる」
 「そうか、では早速、町名主に督促させよう」
 と、ここでは話している。
 藩庫の経済力に安心を見きわめた城下町の町人心理は、もうその日あたり、べつな方ヘ、敏活にはたらいていた。武器の密売が活瀞になり出したのだ。どこへ需要されてゆくのか、古道具屋の塵に埋まったまま永年一朱か一歩でも買手のなかった鈍刀や錆槍までが、またたく間に影を潜めてしまった。また今朝の便船では、首に現金をつけた上方筋の道具買いが、何十人も浜から上陸って、赤穂の城下で捨て売りにされるだろうという、思惑から、入り込んだということだった。書画、古着、手道具、骨董、武具、紙屑に至るまで、それぞれを専門とする上方託の商人の声が、屋敷町の裏をうるさく訪れで廻っている。何処で払った物か、天草陣の時に使われたという大砲を買った一組が、それを、車にのせて通るのを往来の者はもう不思議とも見ていない。
 「馬を買おう、いい馬なら何両でも出すが」
 ふだんは田馬も買えない博労までが、俄に大口をきいて歩くのも何か自信がなければやれない事だ。貧しい藩士の屋敷へ行って、金には当然渇いている妻女をつかまえ、首財布から不相応な金をだして見せびらかしたりする。鞍附でも買えば町の中を得意げに轡を鳴らして曳いて通るのだ。それを、人間性のおもしろさ、社会相の自由さと眺めれば、尽きない興味であるにちがいない。浜辺の方はと見れば、ここでも、膵や伝馬船が払底を告げて、廻船問屋は血眼で船頭をひっぱり合っているし、人夫や軽子の労銀は三割方も暴騰ったというが、それでも手をあけている労働者は見あたらなかった。この需要力がどこにあって、何処へ物と人とが吸引されてゆくか見当もつかなかった。
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■誓約に血判

<本文から>
  内蔵助は、後ろの者に、
「暮れてきた、燭台をもらおうか」
 と云った。
 その燭台が来るまでの間に、内蔵助は初めて、本心の一端を一同へうちあけた。−ここでは死ぬまいという事だった。
 すでに、誓紙の上で誓った者には、改めていうまでもないが、篩にかけて残った者へは、今初めて囁く大事なのである。
 (ここでは、死ぬまい) −ということ。
 その無言の意味が、誰の胸へもすぐに来た。遽に紅い血のさした顔が、唾をのんで、内蔵助の面を見た。
「−が、飽くまで、われらの力の及ぶかぎりは、たとえ、千石であろうと、大学様に御家督下し賜わるよう、公儀へお縋りすることは当然。それが成る成らぬは天意でござる。またいかように相成ろうとも、われら、侍奉公の者が、この後とも歩む道は、一筋でしかない。右顧左眄、要らぬことじゃ。侍に生れたれば侍に死ぬ。それでしかない。死場所は、暫くこの内蔵助におまかせ願いとう思うが、異存なござろうか」
 およそ五十人ほどいた。粛として、影に影を寄せ合わせている。そこへ、燭台が運ばれた。
 祝をとり寄せて、人々は皆、同文の誓約を認め、血判して内蔵助の前にさしだした。
 その中に、台所方の小者、三村次郎左衛門の名があった。また、まだ前髪のとれない十五歳の矢頭右衛門七も書いて出していた。
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■内蔵助への隠密

<本文から>
  「承知いたしました。場合に依っては、このまま、お暇も告げずに、彼地へ発足いたすかもしれませぬ」
 「折々の事は、文書がよろしい。かえって、そのほうが目立つまい。隠密は、此方のみの働きと思うと間違うぞ。内蔵助ほどの男だ、抜け目のあろう筈はない。彼の細作も、立ち廻っておろう。或いは、兵部の邸のうちにさえ、臭い者がいるかも知れぬ、気をつけてゆけ」
 路銀を与えて、兵部はまた、云い足した。
 「 − しかし丈八」
 「は」
 「必ずとも、赤穂の旧藩士共に、挑戦いたすような振舞は、吃度つつしまねばならぬぞ」
 「心得ております」
 「要は、内蔵助の本心に、世上で取沙汰いたすような事実が、あるかないか、それだけを突き止めることだ。浪士共の動きも、そこに重点を置いて観れば自と解ろう」
 「丈八も、その儀と、考えております」
 「露骨に、上杉、吉良の両家が、彼等を監視しておると知れてほ、世上の風聞もわるい、
 また、却って彼等の憤激を助けて、吉良殿のお為にもよろしくない。− この兵部がままになる身ならば、この際、内匠頭の舎弟浅野大学を立てて、家名再興のため、共々内蔵働に助力してやりたい程に思うのじゃが、上杉家の老臣としてそうもならぬのが歯がゆいのじゃ。浅野家の再興の事さえ成るならば、いかに、猛り立つとも、浪士共の気勢は甚だ違ってくると思う……。これは、わしだけの思い過ごしで、実際には手出しのできぬ事だが、なるべくは、そうあって、難なくこの危機が乗り越えられたら、お家のため、万歳だ」
 「お気持、よく体して参ります」
 丈八は、やがて兵部の邸を出て行った。
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