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<本文から>
黒い素袍の肩から背中へかけて、斜めに口を開いていた。そこから迸る血には、痛いとも斬られたとも、何の感じもないのである。かえって、振向いた利那、烏帽子の金輪にガキッとこたえたに過ぎない太刀の力と、瞳のそばまで来た光に、上野介は喪神してしまっていた。
もう自分の頭蓋骨が、二つに割られてしまったものと、思い込んだように、
「うッ…‥う、う、う」
顛倒していたが、両手で顔を掩って、起き上がると、
「きッ、斬られたっ。ら、らん心者でござるっ」
暗闇を、蹟くように、
「−お出会いくださいっ。内匠頭が−内匠頭がっ−」
上ずった声を額からあげて、大廊下を、桜の間の方へと、転んでいた。
鶏の足痕みたいに斑々と、血が零れて行く。−右往左往する人々が、それを踏みつけるので殿中は描く汚れた。
「吉良どの、お鎮まりなされい」
「相手方の内匠頭どのは、すでに、梶川与三兵衛が、組みとめましたぞ」
「吉良どの!上野どの」
追い従って、支えているのは、高家衆の品川豊前守や、大友近江守たちであった。
だが上野介は、その人々の顔さえ見境いを失ったらしく、振りもぎっては、
「お医師をっ。−お医師をっ」
とばかり、喚いているのである。
それを、人囲いに取り巻いて、宥めていると、側を通った播州龍野の城主脇坂淡路守が、
「ほう、今の悲鳴は、吉良どのか。甲冑が血まみれは武士の誉れとこそ思ったが、素袍の血まみれは珍しい。−いや、古今の椿事」
と、覗いて行った。
鼎の沸くような混乱の渦から、思いがけない笑い声がどっと流れたりした。人々の中にある日頃からの、上野介への感情をそれは証明していた。
御目付役の詰めている溜の間にいた多門伝八郎は、
「お坊主、お坊主っ」
と、その席を立って、
「騒がしいが何事じゃ」
通りかかった茶坊主の一人をつかまえて早口に訊ねていた。
「ただ今、浅野内匠頭様が、高家筆頭の吉良どのを、刃傷なされました」
「えっ」
同役切久留十左衛門、近藤平八郎、大久保権右衛門らも、伝八郎の後から、顔いろを変えて駈けて行った。
刃傷!刃傷!と熱い呼吸をしていう人々の呟きが、耳のそばで、走り乱れた。
見ると−桜の間の板縁と、松の間の角と、大廊下の二所に、昂奮で硬ばった人々の顔が押し合っていて、その両方から異様な声が聞えてくる。 |
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