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<本文から> それからも一同の意見や討議は、夜半にまで続いていた。
ここを出て、主従、奥州へ落ちて行く −
そのことの方針には、もう、とかくの諌言をこころみる者もない。他の策は、すべて断念のほかなかった。根本となる義経の心底が明白にされ、どう胸の奥の奥をついてみても、不動なものと分かったからだ。
しかし、堅田党はともあれ。
弁慶たち股肱の郎党までが、主の本心を今知ったとは、迂潤である。かれら自身も、それには、深く頭を垂れて、今さらのごとく、自己の欲目な希望に、眼を覚ました態だった。
考えてみれば、主君の決意も、いま初めて打ち明けられたわけではない。−一身はどうなろうと、戦いは極力避ける。源氏と源氏の血みどろを再び修羅に見るなどは、鬼畜の相だ。義経は鬼畜の弓矢を持ち合わせぬ−とは、従来、幾度も耳にはしていたことだ。
しかし、かれらは、かれらなりに、解釈して、時と、兵馬の迎えに会い、また、院宣降下などの諸条件がそろえば、この君が再び、宇治川、一ノ谷の面目を再現し、鎌倉へ向かって迫ることは、疑いなしとしていたのである。
そのひとりぎめ″は、じつに、院後白河にもあり、前摂政の一味から、堅田党にもあった。つまりは、義経を観る者の、一般的な眼−見方の常識−であって、義経自身にすれば、いつも本心は本心たるに変りはないのに、かれ以外には、通用せず、たれも、本心とは受け取ってくれなかったものである。 |
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