吉川英治著書
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     新平家物語(20)

■義経らは戦いは極力避け奥州へ

<本文から>
 それからも一同の意見や討議は、夜半にまで続いていた。
 ここを出て、主従、奥州へ落ちて行く −
 そのことの方針には、もう、とかくの諌言をこころみる者もない。他の策は、すべて断念のほかなかった。根本となる義経の心底が明白にされ、どう胸の奥の奥をついてみても、不動なものと分かったからだ。
 しかし、堅田党はともあれ。
 弁慶たち股肱の郎党までが、主の本心を今知ったとは、迂潤である。かれら自身も、それには、深く頭を垂れて、今さらのごとく、自己の欲目な希望に、眼を覚ました態だった。
 考えてみれば、主君の決意も、いま初めて打ち明けられたわけではない。−一身はどうなろうと、戦いは極力避ける。源氏と源氏の血みどろを再び修羅に見るなどは、鬼畜の相だ。義経は鬼畜の弓矢を持ち合わせぬ−とは、従来、幾度も耳にはしていたことだ。
 しかし、かれらは、かれらなりに、解釈して、時と、兵馬の迎えに会い、また、院宣降下などの諸条件がそろえば、この君が再び、宇治川、一ノ谷の面目を再現し、鎌倉へ向かって迫ることは、疑いなしとしていたのである。
 そのひとりぎめ″は、じつに、院後白河にもあり、前摂政の一味から、堅田党にもあった。つまりは、義経を観る者の、一般的な眼−見方の常識−であって、義経自身にすれば、いつも本心は本心たるに変りはないのに、かれ以外には、通用せず、たれも、本心とは受け取ってくれなかったものである。
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■院政の雪解

<本文から>
 いや、あの僧のことだ。あるいは、それ以上の極言も吐いたかもしれない。もちろん、仁和寺の宮のおん名などは噴にも出さず、自己一存の言として、義経の捜政子をも、あの眼で呪めすえたのであるまいか。談議の内容がそれらしいのは、かれが座を立った後の、政子の瞼や頼朝の容子にも、うかがわれたことだった。
 夫妻には、こたえたに違いない。
 その後の頼朝には、いささかだが、心境の変化らしいものもある。
 大原の建礼門院へ平家供養料の地を寄進したなども、きのうには見られぬ寛度だし、義経の追捕も、「ここまで来れば」という見越しを持ったかにみえる。都を出てさえしまえば、もう院や山門勢力と結びつく慣れは消えた。そして、元の一流浪児に返った義経の運命は、生かすも殺すも、今は、自己の手中にありとしている余裕ぶりに見える。
 それに。
 大いにかれの意を安んじさせた、もうひとつの、事情もあった。
 またの六波羅状によれば、後白河法皇には、雪解の三月を待って、熊野へおん詣での御内沙汰があったという。
 これは、歓迎すべき兆しに、思われた。
 −朝廷の土地支配権が、あの守護地頭制で、まるごと幕府へ移ってからの、法皇の御憂悶が、いかに深いものかは、たれよりも頼朝に最もよく分かっていた。
 そうでなくとも、自尊絶大な大天狗の法皇である。事ごと、御不平のみなるは、明瞭だった。
 これまでの経過にみても、義経へは、暗に潜伏の便宜を与え、後日、その武力をケシかけて、鎌倉へ当らせん、とするお企らみであったのは、疑いの余地もない。
 が、ついに、その政略的抗争にも、敗るるに至った大天狗の御無念さは、察するに余りがある−義経の利用も御断念のほかなく、いわば最後のおん足掻きも今は捨て給うて、さてこそ、熊野御幸を思い立たれたものとすれば、これは法皇が、一切の謀を扱った院政の雪解″と観ていいものであろう。
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■泰衡へ義経の差し出しを催促

<本文から>
  鎌倉の進攻は、もう時の問題だ。
 義経の戦法なら、さしずめ、機先を制して、白河ノ閑を出、下野の要地を抑えて、かれを待つか。−でなければ、勿来ノ関を越えて、常陸を撃ち、その勢いを、張るはずである。
 奥羽の精兵十万、兵力に不足はない。あるいは、出羽の秋田城をまず奪って、鎌倉方の出はなを、震験させる。そして、下野、常陸にわたって、陣を横たえ、日ごろ、頼朝に不平をいだく関東武者へ呼びかけるなどの兵略もあっていいはずだ。
 それをしない人。いや、きょうこのごろの、義経の生活には、片鱗すらも、そんな意気はうかがわれない。
 「見下げはてたものよ」
 と、泰衡以外の兄弟は、義経に失望をしめし、特に、泰衡は、
 「そのようなお人を、われらの上に、いただいたら、およそどうなるか、泉殿には分からぬのか」
 と、自分の感情にスリ代えて、義経を排す口実としていた。
 だが、義経主従の武力は知っている。遅疑に遅疑を持つうち、またも、二度の勅命があった。鎌倉のうごきも、ただならぬものがあるという。
 この間に、都では、院を中心として、公卿陰謀の、大事件があばかれた。
 その陰謀には、義経も荷担しており、遠く、院中の者と義経とが、結ばれていたなどとも、広くいいふらされた。
 これの処断に乗じて、頼朝は、奥州追討の宣旨を請いうけた。さらになお、泰衡へ向かっては「−義経を、差し出すか、朝敵たるか」と、矢つぎばやの、催促を派して、責めた。
 泰衡もまた、平家の子たちとおなじように世を知らぬものだった。
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■義経は天命に従い死を覚悟

<本文から>
 以上三ツの策、今なら択ぶこともできるが、もしこのまま、日をお過ごしあらば − と、おりあるごとに、かれらは義経へ諌めていた。そればかりでなく、承意や仲教など三、四の者は、家臣だけの協議のもとに、密かに都へ奔って、義経をふたたび中央へ迎えんとする下支度までしていたのである。
 しかし、義経自身は、心ひそかに、
 「この地に、秀衡殿も亡き今は、なに長らえて」
 と、近ごろはもう、ある観念に徹していた。
 家臣らのすすめる三つの策は、そのどれも、行えば行えぬことはあるまい。
 けれど、これまでの忍従はなんのためか。
 いま、義経がまた、都へ帰れば、都は再び、戦争前夜の様相をよび起こし、諸民の迷惑はひと方であるまい。
 急に泰衡を攻めて、奥州の指揮をにぎり、関東の兵と、対略するなどは、なおさら思いもよらぬことだ。 − では、ここを逃げて、北の果て、氷の海の極みまで、落ちるとしたら、どうなのか。さまでに惜しい命かと人も笑おう。また幼い姫や、その母の百合野も、ここへ捨ててゆかれぬ。
 「しょせんは、何もかも、義経に与えられた天命というものか。天意ならば、死のうもよい。その死が、天に辱−じぬなら、義経が本心、また世への祈りも、いつかは、あの兄にも通じるであろう。世の人びとも、受けてくれよう。いや、後世永劫に、解らぬとされてもいい。自分に悔いはないものを」
 いまもかれは、思いを、しずかな眉にすえていた。なんら動転の色はない。
 もう敵の央は、身近までとどいて来る。欄や板戸にも突き刺さった。しかしかれの弓は一矢も敵へ射返してはいない。敵とおぼしき人影が、矢ごろの内へはいって来ても、見のがしていた。
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■義経から郎党たちへの最後の言葉

<本文から>
  「おお」
 そこへ来て、一様にひざまずいた郎党たちは、平静なこと、水のような義経を見ただけで、何もいえなくなっていた。日ごろの主君の言が、真であったことを、今さらのように、荒胆にこたえ、その悲しみの日は、
 「いま来たか」
と、歯を食いしばるばかりだった。
 義経はそこで最後の別れをみなへ告げた。−自分こそは、勅勘の身であり、鎌倉どのの追捕者であるが、お汝たちには、なんらの責めもあるわけはない。
 義経だに、世を終われば、必然、追捕のお沙汰も止もう。諸所、いずこへなと、身をかくして、農土に生きるなり、またよい主を求めるなりして、生を全うするがいい。ゆめ、義経に殉じるな。きょうまで、お汝たちが尽してくれた真情は、不肖な主には、倖せ過ぎるほどだった。このうえに、死をともになどと早まってくれるな。
 生きてゆけば、お汝らのうえにも、自然、なすべき使命が生じて来るだろう。だが、復讐の隕羞だけは、燃やすなよ。結果は、業の輪廻と、血の歯車を、地上に繰り返すにすぎぬ。保元、平治、それ以後もつづいて来た、人と人との殺しあい、憎しみあい、あれを振り返れば、その愚がわかる。
 なお、こうなっても、義経は兄をつれなくこそ思え、お怨みしてはいないのだ。もし、骨髄からお怨みするなら、兄夫妻が、あのような好策のもとに、むりにわしへ押しつけた百合野を、きょうこのごろのごとく、妻として、ゆるしはしない。どう愛そうにも、心から愛せるものではない。
 それをすらわしは必死な気もちで乗りこえた。一人を幸福にしたい気もちも、人すべての幸福を願う祈りも、おなじ善意につながってこそ世に平和は成就されるものと信じるからだ。まして、これから先、お汝たちが、旧主の怨みをはらさんなどという考えを起こしたら、義経の最期は、無残、犬死にとなるだろう。こんばくは宙に迷うぞ。− 末始終、義経が世へ祈るところを、お汝らもまた、祈りとして生きてくれい。そして安穏な生涯を終わってくれい。
 「それだけぞ、最後のたのみは」
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■義経の首級の検分

<本文から>
  藤原泰衡の飛脚が、鎌倉表へついたのは、五月二十二日、申の刻だった。
 −状には、
 −令を奉じて、去月晦日、義経を許し了んぬ。首級は、追使して、御検分に入れ進らせむ。
 と、ある。
 頼朝は一言
「やったか」
 と、つぶやいたのみである。それは、泰衡の器量もその人物も、およそ測り
えたとするうなずきと交じっていた。義経にたいする感情は眉にも出さない。
 消息はただちに、鎌倉表から、院へ早継ぎされた。
 後白河は、さっと、眉色をうごかされたが、お声としては、
 「さて、これで国中も静諸になろうか」
とのみ、お静かな叡感であったという。
 また、九条兼実が、その日の日記に、
 天下ノ悦ビ、何事カコレニ如カンヤ。実ニ神仏ノ助ケ、抑々又、頼朝卿ノ御違ナリ″
 と書いたのは、鎌倉びいきのかれとして、当然だった。けれど、後白河の仰せが、仰せ通りなものだったとは、いわれない。おそらく、御真意は、べつにあったろう。
 泰衡の使者、新田冠者高衡が、やがて関東へ下って来たのは、もう真夏だった。
 六月三十日、死後四十幾日かを経て、着いたのである。
 さすが、頼朝は、見るをえなかった。鎌倉へも入れなかった。令して、腰越ノ浦に、使者を控えさせ、和田小太郎義盛、梶原平三景時に、実検させた。
 首は、黒漆の植に納められ、美酒にひたしてあったという。
 が、その面貌が、その人と、すぐ判別がついたかどうか。
 酷暑の長い道中だった。よく分からぬのが、むしろ当然と、うなずかれたであろう。しかもまた、じっさいは、義経自身、持仏堂に火を放ち、妻子の屍に折り重なって、自刃したものといわれている。首級がつつがないのも、不審といえば不審である。
 けれど、遠国のことだった。使者は、なんとでも、その口上を、いいつくろうこともできる、また、実検の士としても、和田義盛など、義経の心根を思うて、見るに忍びなかったことだろう。梶原は、恐い気がした。見たらおそらく、その夜の夢にも魘されようかと、これも正視はできなかったにちがいない。
 実検の場所もまた、奇しき宿命の地といえよう。かつて義経が、兄の怒りを解くため、京より馳けて来て、血涙の書を兄へ捧げ、しかも鎌倉にはいるをさえ免されず、むなしく追い返された腰越ノ浜だった。−−−梶原は、当時を思い
 出して、
 「はて、妙な巡り合わせよの」
 夏なのに、ぞっと、背を寒くした。
 きょうの他人の身は、あすはわが身のうえのこと。こんな古い平凡な俗言も、時には、あらそい難いものを、運命は顕然と示すものでもあった。
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■麻鳥夫婦の述懐、保元、平治、平家、院、木曽、源氏らは糠星のよう

<本文から>
  − この辺で、と。
 麻鳥夫婦は、けさ、旅寵でこしらえてもらって来た弁当を、ひざの上で解き合って、食べつつ、花をながめつつ、物もいわずにいたのであった。
 「…………」
  いわぬはいうにまさる、ほどな理解が、自然何十年もの間には、ふたりの仲にでき上がっていた。
 今、お互いは、何を胸で想っているのか、たぶん、それも交響しあっているにちがいない。だから、飽くこともないのであろう。
 ひと箸、口へ運んでは、また手の箸を、しばらく忘れている。そして、蓬は蓬、麻鳥は麻鳥で、
 「ああ、ずいぶん、いろんなこともあったが、長い長い年月を、別れもしないで」
 と、夫婦というものの小さい長い歴史を、どっちも、無言の胸に播いていた。
 「思えば恐ろしい過去の半世紀だった。これからも、あんな地獄が、季節を措いて、地へ降りて来ないとは、神仏も約束はしていない。
 自分たちの、粟ツブみたいな世帯は、時もあろうに、あの保元、平治という大乱前夜に、門出していた。−よくもまあ、踏み殺されもせずに、ここまで来たものと思う。
 そして夫婦とも、こんなにまでつい生きて来て、このような春の日に会おうとは。
 絶対の座と見えた院の高位高官やら、一時の木曾殿やら、平家源氏の名だたる人びとも、みな有明けの小糠星のように、消え果ててしまったのに、無力な一組の夫婦が、かえって、無事でいるなどは、何か、不思議でならない気がする。
「よくよく、わたしは倖せ者だったのだ。これまで、世に見て来たどんな栄花の中のお人よりも。……また、どんなに気高く生まれついた御容貌よしの女子たちより」
 蓬は、やわらかな若草のすわり心地へ、こう、心で答えずにいられない。
 親しく、自分がお仕えした常磐さまは、あのような御運の未だし……。
 そのほか、女院、姫宮、お局から、君立ち川の自拍子まで、およそ、美しいがゆえに、かえって呪われ、あたら野山の草庵にのがれて、黒髪をおろした花々なども、どれほどか、数も知れない。
 「……それなのに、わたしという愚痴な妻は」
 かの女は、思いくらべて、そっと悔んだ。
 もう壁も真白な良人の横顔へ、ひそかな詫びも、胸でしていた。
 けれど、かの女の良人にすれば「それは、あべこべだよ」といいたいであろう。 −麻鳥の方こそ、じつは、この吉野へ来たら、老いたる妻へ、いちどは、男の本音として、
 「よく、わしみたいな男に」
と、礼やら詫びを、いおうと考えていたのである。吉野の花を見せるよりは、ほんとの気もちはそれだった。きょうまで何一つ、これという楽しみも生活の安定も与えず、雑巾のように使い古してしまった妻へ、そして、わがままな男の意志へ、なんのかのとはいっても、よくついて来てくれた妻へ、かれは、あらためて、
「…………」
 何か、いってやりたい。
 けれど、そうした男の胸のものを、こつくり、いい現わせることばなどは、見つからなかった。真情とは、そんな簡単に、出して見せられるものではなかった。 − だから、さっきから、黙っていた。が、蓬には、良人のそうした気もちは充分なほど分かっていた。ふたりのひざを繰って、陽炎がゆらめいている。陽炎は、ふたりの言葉だった。
 やっと、箸も終わって、
「美味しかったねえ。……蓬」
と、初めて、そこで声が聞かれた。
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