吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新平家物語(19)

■静との別れ

<本文から>
 人びとへ向かって、そういう文彦の、罪もないその人までが、静のひとみには、冷酷無情な山の制度、そのもののように思われて、恨めしかった。
 わっと、声をあげて、泣きたく思った。
 だが、かの女とて、仏教や神道が、法律とか道徳などより、はるかに高い力と光をもっている時代の下に生まれた子であった。国禁を犯すも同様な、大それた科には、はたと、心も閉じられてしまう。
 雪千丈の谷も、白皚々な大峰も、女はそれに恐れはしない。−けれど必然、愛する人へかかる累を思えば、盲目にはなりきれなかった。
 静は、このとき、初めてほんとの心がきまった。盲目的な情火もべつな理性も、ともに、氷のようになっていた。文彦の前だからではなく、涙も出ず、取り乱しもしなかった。
 そっと、ささやくような小声で、
「……静は、ここでお別れいたしまする。……殿を、お見送り申したうえ、山を降りて、ひとり都へ戻りまする」、
と、義経へいった。
 義経は、うなずいて見せた。何もいわなかった。静が、運命の前に、やっと素直になれたとき、逆に、かれの胸は狂炎に変っていた。一語でもその火の想いをもらせないほどにである。
 で、やや急に、かれは、子守ノ宮を立ち出たのだった。文彦へは、ねんごろに礼をのべ、教えられるまでもない山坂道の一すじを、南へ向かった。そして五、六町行くと、道の端に、土壇が見え、結界の杭が、立っていた。
 不許女人入山、
 雪まだらな文字までが、何か、恐ろしげにそう読まれる。静は、馬の背を降りて、
 「……では、わが良人さま。静はここで」
 と、雪の上に、小ひざを折った。そして、そういうなり、じつは、義経の姿もよくは見えない、いっぱいを涙の眼になってしまった。
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■頼朝は覇者として冷血非情に、さらに凄腕の傀儡師がいた

<本文から>
  今。−こうなった途端に、その生贅の娘の親から一族の所領を全部没取してしまった頼朝の心を、御家人たちさえ、無慈悲な、と思わずにはいられなかったことだろう。
 だが、政治的な見地からのみいえば、理由はある。万一の変を、頼朝は恐れたのだ。
 権力を守ろうためには、人は、あくまで冷血非情であらねばなるまい。
 ひとり河越重頼や下河辺だけではない。多少でも、義経に好意をいだく者、緑につながる輩は、このさい、ゆるさぬという鉄の意志を示す必要もあったのだ。しゅんとして、鎌倉中、声もなかったのは、道理である。
 だが、頼朝とて、むかしは、政子と恋もした男だし、あわれを知らぬ人ではない。−黄瀬川から転じて、帰来早々のかれは、余りにも少しできすぎている。
 その冷たい果断ぶり、その非情さ、また政治的な眼のくばり方など、ほとんど完全な覇者の権化だ。
 思うに、素質として、それのできるかれではあるとしても、かれのみの思慮ではあるまい。
 覇者の座は、ままその覇者をかりて、蔭には途方もない凄腕の傀儡師を住ませておくものである。
 そう疑えば、頼朝のそばには、稀代な、あやつり師かとも思われる人物が、無二の相談あい手として、かれの信望を得ていないでもない。
 一人は舅の時政である。政子に習性づけられた頼朝の恐妻観念が、させているだけでなく、時政の分厚い潜勢力と、政略に長けている点とは、頼朝のどうにもならないところだった。
 田舎出の、いわば土豪の一老爺−と、見くびっても、先天的に、何か、かれには負けを感じる頼朝らしい。
 もう一人の黒幕は、大江広元だ。
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■義経追捕にかりて守護と地頭の革命を成し遂げた頼朝

<本文から>
 武力のない朝廷でも、土地の面では、絶対な力を、土に根ざして、ゆるがぬ威を持っている所以でもあった。
 「多年のお望みを遂げ給うて、幕府の下に、世を、一つに統べ、またわが君が、武家の棟梁たる名と実とを、真に、おん掌に入れられる日は、今こそ来たと申すべきでございましょう」
 大江広元は、こう説いて、
 「それには、判官殿の事件に口をかりて、あくまで院を責め奉り、義経行家の捜査と称して、都の内を、兵馬で埋め、そのうえで、こちらの要請を出すことです。 − おそらく、かつては、平家の太政入道(清盛)と争い給うても、決して、降ることのなかった院の大天狗どのも、こんどは、そうはなりますまい。
 我を折られて、こちらの要請を、お容れになるは、疑いもありませぬ」
 広元の献策は、かれと時政と頼朝の三人ひざづめで、秘密裡に練られ、その結果、北条時政自身、上洛したものだった。
 −こう観て来ると、鎌倉方の腹もよく分かる。一切が、ある利権をつかむ目的に集中されていたのである。
 それまでの折衝も、不当な大軍の進駐も、じつは、義経追捕のためよりは、院を強迫するための、示威であり、伏線であったのだ。
 こうして、重大な要請は、その示威のかたちが、でき上がると同時に、北条時政から、帥ノ中納言吉田経房を経て、朝廷に奏請され、即日、
 「−聴許せらる」
と、なってしまった。
 日本の土地の上に、初めて、守護地頭の制が布かれ、武家政治なる形が、ここに誕生を見たのだった。
 いやそれは、革命といった方が早い。
 血は流さなくても、武人が武人の手で一切の政治経済を切りもりする幕府政治の創設を、いやおうなく、院に、認めさせたのである。
 守護と地頭は、もちろん幕府の武将が、任命されて赴く。そして全国の守護は、警察権をにぎり、兵馬をつかさどる。また地頭は、院、宮家、公卿、寺社などの田領を管轄し、たとえ朝廷の公領でも、例外の地というものは認めない。そして租税を徹し、事あれば、兵糧米の提出を、それに命じる。
 たいへんな、改革である。
 しかも、これほどな大変革の局面も、ただ一日で決定を見てしまった。・
 中納言吉田経房から、それの掟出があったのは、二十八日。
「− 朝家の一大事」
と、後白河以下、公卿座の面々も、色を失って、衆議したが、
 「かかる野望は、平家も抱かぬところであった。いかなる抗争を見ようと、屈すべきではない」
 と、断乎、いい切れる者もなかった。
 ただわずかに、藤原長方が、反対したが、反鎌倉の頭目、泰経すら、もうこの日には、意気地なくうな垂れていた有様だった。
 また、かつては太政入道清盛との政争に、龍壤虎?ともいえる才略を見せられた後白河法皇も、今は臥龍の座に、老いられたか、
 「ぜひもない」
 と、長大息のうちに、それを容れてしまわれたのである。−その聴許の発令があったのが、二十九日。じつに、中一日のことでしかない。
 これを受けた時政は、手を打って、
 「すわや、わが事成ったり」
 と、吉報の書を、早馬へ載せて、鎌倉表へ、飛ばさせたことだろう。頼朝の満足は、いうまでもなかった。
 かれの政治目的は、思うつぼに、達しられた。平家一門を亡ぼしたよりも、これは大きな意味を将来に持つ幕府の大成功といってよい。
 成功には、気をよくして、一応は、矛を休めるものだが、頼朝は、酔わなかった。すぐ第二段の政策を進めた。−院中に鳴りをひそめている、かつての義経方と見られる一連の公卿の粛清がすぐ始まった。
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■北条時政は地方武者から六披羅どのへ、大局的に観ることができた人物

<本文から>
  むかしは「六披羅どの」といえば、平家の太政どのをさすことだったが、今では、鎌倉どのの代名詞となり、関東稔名代を連想する所と変っている。
 その時政にしても、以前を思えば、感慨なきを得なかったであろう。かれも、三十代までは、平家に仕え、隔年の大番の勤めには、平家の庁に出仕して、太政どのやら一門公達の出入りに、身を低うして、送迎の列に立った地方武者のひとりに過ぎなかったのだ。
 −それが、なんと、今日は違って来たことか。源二位頼朝を婿にもち、新幕府の威勢を一身に負い、進駐の諸将を幕僚に、この六波羅へ君臨する身となっている。ひとたび、口を開けば、朝廷もうごき、天下の旧制も、革めさせることができる。こんなにも、迅速に、思いどおりに、万事が運ぼうとは、かれにしても、予想しなかったことだったろう。けう
「まったく、源二位どのは、御運がよいわ。稀有なお人だ」
 かれは、日本一の婿を持ち当てたと思い、また、その婿が、まだ伊豆の一流人であったころに、未来を予察して娘をゆるしていた自己の先見にも、ひそかな誇りを抱いたことにちがいない。
 「……だが」
と、かれはふと、皮肉な感じに、轢られた。
 「自体、御運のつよい源二位どのだが、しかし、こう急速に大事の成就を見たのも、まことは御舎弟のお蔭であった。もし、九郎義経のあの遭難がなかりせば、事態は全く違っていたろう。……思えば、義経の難が、この成就は、もたらしてくれたようなもの」
 元来は地方人だが、物事を大局的に観るのは、かれの特質だった。世事の結果は皮肉なものと、時政が思ったのは、正直な感慨である。だが、その心底では、
「−さて、残る急務は、義経の逮描あるのみだが」
と八方、詮議を督して油断なきかれでもあった。
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■北条時政の、六波羅在庁中の評判は、極めてよかった

<本文から>
 ひと口に、老檜七いっては、かれに対して、あるいは当らないことばかも知れない。
 北条時政の、六波羅在庁中の評判は、極めてよかった。
 上層からは「−政務を執るや、よく人心を治め、世の幹たるに足る」と評され、一般からも、「思いのほか、苛酷でもなく、威張りもせぬ。物分かりのよい北条殿」と、だんだんに懐かれていた。
 これを見ても、かれは単なる地方的人物ではない。婿頼朝の補佐には、大江広元のような中央的知識を配し、かれは、かれ独自な才腕を撓めて、日ごろはわざと、表に立たずにいたのであるまいか。
 たまたま、こんど初めて、朝廷との重大な折衝に当って、その風貌を大きく世上へ示したことから、堂上でも、かれへの認識をあらたにし、
 「なるほど、鎌倉どのも、政子夫人には、頭が上がらぬとか、よくいわれておるが、その政子夫人の親だけのものはある。何せい、北条と申すは、容易ならぬ人物らしい」
 と、いわれ出していたのである。
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■後白河は義経との対鎌倉布陣を考えていた

<本文から>
 いや、後白河には、もっと、積極的でさえあった。
 義経をして、六波羅を夜襲させ、瀬田、宇治川を境に、官軍の対鎌倉布陣を、早急に、実現させたいとまでの、お考えがあったらしい。
 が、補陀落寺の密会が、一頓挫したため、逆に、すこぶる不利な事態になりかけたので、後白河は急に持仏堂寵りを称えて、このさいの政務を、わざと、避けられたものかもしれない。
 −でなければ、その持仏堂龍りは、補陀落寺での仮寝のおん夢が、いまなお現にも、消えやらぬ怯えを残しておられたためか。
 とにかく、お立場は、むずかしくなった。
 いやすでに、兼実の院参は、六波羅の最後的な意を、院につたえて、義経を庇護するなどの危うさを、切に諌奏していたかと思われる。
 ところが。
 かれの家来木工頭は、主のかれとは、まったく逆な行動をとっていた。
 木工頭は、その日の仔細を、すぐ前摂政基通の亭へ、密報していたのである。
 すると、まもなく、前摂政家の亭後の小門から、風のごとく出て行った一人の山伏があった。
 山伏の顔かたちは、どこやら、義経の随身の一人、片岡為春に似ていた。
 しかもその足早な山伏が、やがて姿を隠した先は、貴船へかかる鞍馬山の奥だった。僧正ケ谷もその辺である。とすれば、やはり片岡為春であったのかもしれない。
 とかくして、この一日は暮れた。
▲UP

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