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<本文から> 人びとへ向かって、そういう文彦の、罪もないその人までが、静のひとみには、冷酷無情な山の制度、そのもののように思われて、恨めしかった。
わっと、声をあげて、泣きたく思った。
だが、かの女とて、仏教や神道が、法律とか道徳などより、はるかに高い力と光をもっている時代の下に生まれた子であった。国禁を犯すも同様な、大それた科には、はたと、心も閉じられてしまう。
雪千丈の谷も、白皚々な大峰も、女はそれに恐れはしない。−けれど必然、愛する人へかかる累を思えば、盲目にはなりきれなかった。
静は、このとき、初めてほんとの心がきまった。盲目的な情火もべつな理性も、ともに、氷のようになっていた。文彦の前だからではなく、涙も出ず、取り乱しもしなかった。
そっと、ささやくような小声で、
「……静は、ここでお別れいたしまする。……殿を、お見送り申したうえ、山を降りて、ひとり都へ戻りまする」、
と、義経へいった。
義経は、うなずいて見せた。何もいわなかった。静が、運命の前に、やっと素直になれたとき、逆に、かれの胸は狂炎に変っていた。一語でもその火の想いをもらせないほどにである。
で、やや急に、かれは、子守ノ宮を立ち出たのだった。文彦へは、ねんごろに礼をのべ、教えられるまでもない山坂道の一すじを、南へ向かった。そして五、六町行くと、道の端に、土壇が見え、結界の杭が、立っていた。
不許女人入山、
雪まだらな文字までが、何か、恐ろしげにそう読まれる。静は、馬の背を降りて、
「……では、わが良人さま。静はここで」
と、雪の上に、小ひざを折った。そして、そういうなり、じつは、義経の姿もよくは見えない、いっぱいを涙の眼になってしまった。 |
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