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<本文から> (−九郎が、けふはこれへ近う来るなるぞ。おのおの、ぬかりなく用意あれ)
と令し、大名小名の軍兵数千を駆り催して、身はその中にありながら、なお、
(由来、九郎は、すすどき男ぞ。いつなんどき、そこらの畳の下より、はひ出でんやも知れぬものなり。とはいへ、この頼朝、さはさせじ)
と、左右の臣へいったとある。
これは、頼朝らしくないことだし、頼朝贔屓の古典の著者としても、いささか贔屓の引き倒しであろう。
富士川、一ノ谷以来の義経の戦いぶりを見、頼朝が、弟の才分と勇に、ひそかな恐れを抱くに到ったことは、まちがいではない。だが、西征の革もすでに解かれ、わずかな一部隊で宗盛を護送して来ただけの義経である。それに対して、頼朝ほどの者が、そんな物々しい警戒を布いたとは思われぬし、また、余りに大人気なさ過ぎる。
それに、そのころまだ、梶原は鎌倉へ帰っていなかった。故言というのは、先に頼朝が手にした梶原の書状と、使者の報告とが、それに当るものだろう。
−事実、頼朝の理性も、多少眩まされていたし、日ごろ、感情を慎むかに見えるかれが、義経に関してだけは、露骨に感情的な仕向け方を見せたことも否みがたい。
それは、金洗坂の関所における当日の応対にも、はっきりしていた。
でも、義経はなお、心ひそかに、
「−虜の内大臣の殿を、引き渡した後は、府内へ罷り通れという思し召しを賜わるやも知れぬ。そのせつ、にわかをうろたえなどしては」
と、一緒の希望を捨ててはいなかった。いつなん時、鎌倉どのの殿中へ招かれてもよいように、夜前に髪を洗い、旅の垢など、身ぎたなく姿にこびり付けていないように、肌着までを改めて、宗盛父子の檻単に添って行ったのである。
関の柵には、武装した軍兵が、ぎっしり詰めていた。 |
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