吉川英治著書
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     新平家物語(18)

■頼朝が義経を迎えるのに、物々しい警戒を布いたとは思われない

<本文から>
(−九郎が、けふはこれへ近う来るなるぞ。おのおの、ぬかりなく用意あれ)
と令し、大名小名の軍兵数千を駆り催して、身はその中にありながら、なお、
(由来、九郎は、すすどき男ぞ。いつなんどき、そこらの畳の下より、はひ出でんやも知れぬものなり。とはいへ、この頼朝、さはさせじ)
と、左右の臣へいったとある。
 これは、頼朝らしくないことだし、頼朝贔屓の古典の著者としても、いささか贔屓の引き倒しであろう。
 富士川、一ノ谷以来の義経の戦いぶりを見、頼朝が、弟の才分と勇に、ひそかな恐れを抱くに到ったことは、まちがいではない。だが、西征の革もすでに解かれ、わずかな一部隊で宗盛を護送して来ただけの義経である。それに対して、頼朝ほどの者が、そんな物々しい警戒を布いたとは思われぬし、また、余りに大人気なさ過ぎる。
 それに、そのころまだ、梶原は鎌倉へ帰っていなかった。故言というのは、先に頼朝が手にした梶原の書状と、使者の報告とが、それに当るものだろう。
−事実、頼朝の理性も、多少眩まされていたし、日ごろ、感情を慎むかに見えるかれが、義経に関してだけは、露骨に感情的な仕向け方を見せたことも否みがたい。
 それは、金洗坂の関所における当日の応対にも、はっきりしていた。
 でも、義経はなお、心ひそかに、
 「−虜の内大臣の殿を、引き渡した後は、府内へ罷り通れという思し召しを賜わるやも知れぬ。そのせつ、にわかをうろたえなどしては」
 と、一緒の希望を捨ててはいなかった。いつなん時、鎌倉どのの殿中へ招かれてもよいように、夜前に髪を洗い、旅の垢など、身ぎたなく姿にこびり付けていないように、肌着までを改めて、宗盛父子の檻単に添って行ったのである。
 関の柵には、武装した軍兵が、ぎっしり詰めていた。
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■腰越状

<本文から>
  かれが満腔の良心と、真情をこめて、兄頼朝の胸へ訴えた腰越状″ の全文は、かなり長いものである。
 吾妻鏡、古典平家、盛衰記など、およそ、それを載せないものはない。
 そして、悶々たる苦衷とかれの立場は、その一状に隈なくうかがい知られると、している。
 だが、伝えられる腰越状の文には、後人の加筆のあとも見え、義経の原文そのままではあるまいという別説もある。あるいは、そうかもしれない。
 だが、かれが生涯の心血を注いで、幕府の大江広元の手から、それを頼朝へさいごの訴えとして差し出したことは事実である。疑いの余地払少しもない。
 ともあれ、腰越状は、かれが、かれに迫り来つつあった運命へたいして、残されたただ一つの手段たる善意の抵抗をこころみた必死の文字であった。それが頼朝に容れられるか容れられないかを賭けた義経畢生の叫びであり、真情の吐露であつた。
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■頼朝が義経を推挙した背景

<本文から>
  ところが、これには、べつな事情もある。頼朝の推挙の表は、じつは、もっと前の四月上旬ごろ−思い合わせれば壇ノ浦の捷報が鎌倉へとどいたあのころ−院へ手続きされていたことで、今なされた思考ではない。
 頼朝も、壇ノ浦の大捷を知った時は、夢かとよろこび、正直、感涙をながして西方の空に謝したものである。そのうれしさのまま、当時ただちに恩賞奏請の手続きを取ったものにちがいなかった。
 しかるに、その感涙は、すぐ乾いた。義経にたいする将来への過度な恐れやら、清疑に変ってきた。武家本元の次代を確立するためにはどんな手段も辞してはならぬ、というかれらしい政治信念が、梶原の讒をも容れた。そして義経詰責への、いや自滅への追い落しに、さまざまな形をとって、以後あらわれたものだった。
 とはいえ。−今となって、先に朝廷へ執った手続きを引っ込めるわけにもゆかない。
 そこで頼朝は、こう考えたのではなかろうか。
「もし義経が、心から勘気に服しているなら、ここは謹慎を表して、辞退するにちがいない。また、院にせよ、勘気中の義経が任官などは、鎌倉へたいしても、御遠慮あることであろう。−いずれにせよ、世間が殊勲者と見る義経の功を、兄のわが手で削るよりは、ただ勅註にまかせ奉ると、申しておく方が、わが名分は、よいというもの」
 もし頼朝の意図が、この辺にあったとすれば、かれのねらいは、見事、外れた。
 なぜならば、院は、義経への賞を、むしろ遅きに失するものとして、すぐそれに裁可を与え、義経もまた、無感激に見えるほど、あっさりと、拝受してしまったからである。
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■頼朝は義経の罪科をかぞえ追っ手を差し向けた

<本文から>
 「あいや、病にもいろいろあること。単に、所労と触れて、仮病を構えるぶんには、そこはどうにでも、つくろえましょう」
 と、あわてて口をさし入れた。
 「−いってみれば、一両日ほども、飲まず食わず、灸などすえておれば、いかさま、病人じみて見えるもの。自体、お使者を前に、灸治の肌をお示しあるなど、その所作からして、そもそも、おかしい。わざとらしいお振舞いと思わざなるまい。察するに、事を行家に通じ、機先を取って、抜からぬ用意をしておかんとの、下心かと存ぜられる」
 梶原の解釈が、頼朝の意に添って、重大な献言の役をなしたのはいうまでもない。
 それの応えは、ただちに具現された。−翌々の十月八日には、すでに、鎌倉殿砥候ノ間に召集されて「−何事やらん?」と、居ならぶ大小名の物々しげな光景となっていた。
 この日、頼朝は、台座から、幕下一統へむかって、義経の罪科をかぞえ、
 「たとえ、舎弟たりとも、かくの如きものを、鎌倉の代官とゆるしおいて、なんで、天下に律令を立て、諸人への示しがつこうか。泣いて馬謖を斬る−というたとえもある。いまのうちに根を絶たずば、後日、必ず禍乱の元となるだろう。−たれぞ、たれでもよい−即刻、都へ馳け上って、九郎の冠者を討ってまいれ。−九郎に死を与えよ」
 と、声を大にしていった。
 これまでの、義経に対する勘当とか、所領没収などは、いわば内政的か局部的な措置に過ぎない。こう頼朝が、公にいったのは、初めてである。
 居ならぶ大小名は、みな、肌をそそけ立てた。口をとじて、いつまで、寂としたままである。−内心、義経の立場に同情している者も少なくないことが、それで分かった。また中には、義経の天裏の武勇に恐れを抱いている者も多い。−いずれにせよ、和田、畠山、佐々木、三浦、熊谷、千葉、土肥など武者所の静々すべて「そんな討手の人選には、南無三、選ばれたくないものよ」と、いわぬばかりな顔で緘黙していた。
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■義経らが都落ちをする前に

<本文から>
 大焚火をして、体を温めようというのであろう。けさは捨て去る館ではあるし、大地震のあとでもある。焚くに惜しみのない薪はいくらでもあった。
「ああ建ったわ。なんと見事な焔−」
「いっそ早くから、こうして朝を待てばよかったのだ」
「もっと、そこらの物を寄せて、思うさま焚け。思うさま」
 ここの火にまねて、広い邸内のあちこちでも、同じように焚火を囲む群れが見え出した。
「なあ、武蔵坊」
 燃えさかる焔に顔を並べて悟られながら、伊勢三郎がつぶやくようにいった。
「考えてみると、われら主従が、この堀川に起居してから、暢々五体を暖められたのは、けさの焚火が初めてのようなものだ。いまいましい幾年ではあったの」
「うむ。それをいえば限りがない。しかし…」と、弁慶は白い灰のチリに眉をひそめながら。
「殿のお胸が、都落ちときまった以上、もうその愚痴はおたがいいうまいと、きのうもわれら同士で約束したではないか。もうよせ、いうても始まらぬ」
「だが、木曾を追って入洛以後、一ノ谷、屋島、壇ノ浦とひきつづいての戦陣も、いったいたれのために、おれどもは、生死を忘れて働いたのか。−そのあげくが、もう無用の物と、掃き捨てられる落葉となって、この焚火だ。……これが、物もいわずに、黙って、温まっていられようか」
 ひとつ火を囲んでいた片岡為春、江田源三、草の実党以来の鎌田、横山、吾野なんどまで、口をそろえて、鎌倉殿を罵り出すと、どの顔も火となって、つい悔むこともなかった。
「女々しいぞ、おのおの」
 黙々とただ、渋い眼をしていた弁慶は、人びとの燃える顔へ、水をぶっかけるようにこういった。
「ややもすれば皆は、屋島、壇ノ浦の戦いは、たれのためになどと野芸が、知れたことではあるまいか。人は知らず、あの日もこの日も、弁慶にはお主判官殿があるばかり、ゆめ、鎌倉殿のために働いたものではない。……としたら、お主に従うて都を去るも、また、ぜひないことではあるまいか。天を恨み、人を恨んだところでなんになろう。ああ、今さらなんになろう。……よせよせ、せっかく、わが殿が踏もうとしておられる名利の外の、きれいな、いさぎよい、さむらいの道が、可惜、だいなしになってしまう。われらの愚痴のため、ただのみぐるしい敗れになり果ててしまうであろうぞ」
 かれに、そういわれて、たれもが、はっと、きのう義経の口から、懇々と諭 されていたことばを新たに思い出したふうであった。
 「…………」
 途端に、みな黙ってしまった。
 そしてただ、まん中の大きな煩を、じつと見まもりあった。
 どの顔の、どの陣毛にも、赤い涙がキラと光った。ごうっと、煩は静かな音を立てている。その昔の中に、きのう一同を集めていい渡した義経の声がそのまま聞、こえていた−。
 こらえてれ、皆の者。この義経に免じてこらえてくれよ。
 そう義経は初めにいった。
 あの手この事の鎌倉どのの非道、身に覚えなきあらぬ罪名、御卑怯な軍仕懸け。それらのいかなる不合理にも怒りにも、ここは胸をなでて、ひとまず九州へ立ち退こうよ。
 また、立ち退くにさいしては、さきの平家のような、みぐるしい落ち方はしてくれるな。
 なおのこと、木曾兵のごとき、乱暴掠奪などは、断じて、してはならぬ。せめて誇れ、館を捨て、都をあとに落ちてこそ行くが、判官義経も、お汝らも、不義な軍はしたことのない者ぞ、旗を巻くやすぐ狼と変じるような餓武者、落ちぶれ武者の類ではないはず。
 われには、われ一個の願いもあることだが、またここを再び戦火として、あわれな民を、この寒空にさまよわすに忍びない思いもある。
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