吉川英治著書
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     新平家物語(17)

■源氏の内部も義経の下に、整然と一本になっていたのではない

<本文から>
  両者の不和は隠れもないことだが、といって以上のような喧嘩沙汰までがあったとは思われない。思うに、梶原の三人の息子や将士が、屋島の名折れを、あすこそは、取り返そうと、気負っていたので、自然、梶原自身までが軍監の地位をわすれて、積極的に、先陣の役を望んで出た程度かと考えられる。
 そして、おそらくそれは、義経に容れられたのではあるまいか。なぜなら、味方割れまでしてかれの望みを拒む理由は何もないからである。
 といって。
 平家方にも、さまざまな違和が包蔵されていたように、源氏の内部もまた、決して、義経の下に、整然と一本になっていたのではない。
 そう考えられる第一の不審は。
 義経と並び、ともに東国勢の一方の大将軍といわれる三河守範頼(蒲冠者)が、まったく、動きを見せないことである。
 豊後に渡って、九州の一角にあることだけは、確実らしい。
 九州に一線をひいて、彦島の平家を、牽制しているものと見れば見えないこともないが、それも余りに消極的だ。−なぜ、文字ケ関、柳ヶ浦など、豊前の海べまで、その旗職を見せて来ないのか。
 義経は、三河どのの真意が、どこにあるのかを、疑っている。
 「−よし船はなくても、豊前の岸に、その白旗を見せ給うだけでも味方にとっては大きな助力。敵にとっては、心を寒うさせるものを」
 と、遺憾でならない。
 しかし、梶原だけは、多少その消息を知っているはずだった。かれの許へは一、二度、範頼から使いもあった。だが、義経には何も語らず、義経もそれには触れないのであった。いったい、九州にいるのかいないのか、まったく、奇妙な友軍というほかはない。
 疑えば安からぬ心地もして、
 「−この義経が平家に勝つのを、よろこばぬ者が、味方のうちにあるのか」
 と、思わされるおりさえある。
が、義経は「浅ましい心のうごき」と、むしろ自分に恥じ「そのようなこと、あり得ようはずはない」と、かたく思い直すのだった。
 かれは敵以上、味方の割れ″を恐れた。功名争いや意地ずくの、われがち態勢であすへのぞんだら、神器の奪取はおろか、勝利もどうかと、危ぶまれるからである。それには、梶原を立てておくことだと知っていた。−で、その夜の最終会議も、梶原にとっては、充分、得心のできる結論のもとに終わっていたろうことは、ほぼ疑う余地もあるまい。
 やがて、梶原父子をはじめ、諸将の影は、船房から外へ出て来た。そして口々に、
「さらば、明朝」
「晴れの海ばらにて」
 −さらば、さらば、といい交わしながら、おのおのの船へ帰って行った。
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■義経は父の復讐心はなく、平家の女子どもに憎しみはない

<本文から>
 誓紙へ筆をとれば、いかに後日の禍いを約すようなものか。また、これまでの輝かしい戦功やあすの武勲も、みずから泥土へ地つような結果になるかを、かれの理性は、知っていた。
−が、義経は、望楼へのぼって、そこの将座へ、ゆらと、腰を落すと、もう迷っていなかった。
「何を怯む。……それは善だ。大きな善根となるものを」
 一風の風が、かれの面を洗った。
 かれは、屋島の八乗の山上で、またべつの日、白峰のいただきで、自分にかえりみ、世の流転を観じ、深胸にきざんだはずのことを、今まで思い出していたのである。
 兄頼朝は知らず、弟義経は、すでに屋島以後においては、‘平家を迫っても、二十余年も前の、父義朝の復讐などという念を追ってはいない。平家であるからには、女子どもにいたるまで、倶に天を戴かざる仇敵であるなどとまでは、かれには憎しみきれないのである。
 −ただこのさいの一戦は、それの犠牲をもって、世もしずまり、諸氏泰平になるならば、それも弓矢の功力、武門の当然と信じるからであった。また、兄頼朝には一業の扶けをささげ、院後白河の御信任にもこたえ奉るものと思われるからであった。
 −だが。
 それは、白峰の山風の中でも考えさせられたことであるが、人の生涯に尊いものはいったい何か。無数の人びとが当然な白骨となるまでたどりにたどった流転の生涯を見るならば、「栄爵、何かせん。軍功、何かあらん」と、思わずにいられない。
 それの欲しい者は、かすかな腐肉をもった牛骨を争う野良犬のように、世の四つ辻で争うがよい。−はかない、浅ましい、そんな生涯はとげたくはあるまいにと、白峰の松風は、自分へ語った。
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■知盛は特殊な海流を利用した作戦をたてていた

<本文から>
  ここの海峡がもつ特異な秘密性といっていい。ただ見る海づらだけでは分からないが、早朝ノ瀬戸から沖へ出てゆく激烈な落潮の勢いが、沖の圧力に押し返され、大きくふたたび弧を措いて、元の方へもどってくる。その回流をいうのである。
 満潮のもどり脚は、急ではない。早輌の口を落ちるときよりは、緩やかになっている。それだけに、表面はおとなしい海に見えるので危険なのだ。 −なぜなら、その回流は、御崎の横にさえぎられて、また反転運動を起こし、田野浦の前面あたりでは、いわゆる南水道とよばれる激流の主勢とよれ合って、無軌道な底渦や無数の渦流を作っているからである。
 知盛は、それを熟知していた。
 かれのえがいている作戦も、もとよりそれを利用するにあった。
 敵をおびきよせて、身の満潮へ追い落す。−それへ、主眼をおき、苦境の敵勢へ、平家の中堅をもって当らせ、余隊の味方は、鶴翼の形を作って、敵全陣を大きくかかえ、三方からこれを攻めて、さらに北水道の激流まで追いつめれば、もうほぼ望むところの破滅は、わが手のもの。
 こう知盛は考えている。
 なぜかれが、豊前田野浦を拠地として、長門に拠らなかったかということも、背面から陸の源氏に襲われる憂いを避けたのでもあろうが、ひとつには、田野浦前面の複雑な回流の潮相を利用しょうとした作戦であったのは、いうまでもない。読める者には読めていなければならないはずのものだった。
−思うに。好敵手、好敵手を知る。
 義経のみは、あらまし、知盛の画策を、看被していたのではあるまいか。
 きのうの未明ごろには、まだ平家の一隻影も、田野浦には、出ていなかった。
 そのころ義経は、串崎船頭を水さきとして、長門岸から豊前岸まで、幾めぐりとなく見てまわった。おそらく、いかに意地の悪い潮ぐせや底渦を持っているかを覚ったにちがいない。
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■平家の最期、海に身を投げる

<本文から>
 動願せずにいられなかった。悲しさの限りを咽び上げずにいられなかった。わが身の死は、ともかくである、かの女らとて、それまでには未練はもたない。むしろ、女性特有な心定めは、武者よりは迷いのないものがあったかもしれないのだ。かの女たちの働果するわけは、おいとけなき白珠のような無邪気なみかども、世の薄命を身一つにあつめておいでのような建礼門院も、ついに、ご最期のほかはないのかということだった。同時に、自分たちの身につながる幼い者、死なせたくない者への、絶望もともなった。
 「−西の空、かなたの美しさを、御覧ぜられい。西方の浄土とは、かしこ。極楽の浄土とも申しまする。そこの久遠の命のたのしみは、人の世の都どころではありませぬ。なんぼう、苦息も悪業も知らぬめでたき都やら知れませぬ。
……いで、尼が、お道しるべしてまいらせん。御子さま、こう、尼にお倣い遊ばせや、おん掌を合わせ、おねんぶつを仰せられませ」
 尼のそばには、もう、そこへ誘われて、抱えるように立たせちれたみか紆のお姿が、おぼろに見えた。
 山鳩色の御衣に、お髪はみずらに結わせ給い、つねの御病症や、だだっ子の、み気色もなく、ふしぎとお素直に、うなずいていらっしゃる。そして尼のするとおりに、小さいお掌を合わせられたようだった。とたんに、あっーと小さい叫びがし、お姿は、尼の体と一しょに、この世と、海づらの間を、さっと翻りつつ、沈んで行った。
「さらば、おさきへ」
 つづいて、経盛が、いとも淡々たる容子で、よろい姿に、僧衣の袖を、羽のように夕風に吹かせ、ざんぶと、永別の波音を下から告げた。
「さらば」
「−さらば」
 ひきもきらず、人びとの入水する白い飛沫と水音だった。その間、二位ノ僧都、法勝寺ノ能円、律師仲快、祐円など、数珠を挟んで、声高らかに、読経をつづけていた。−ひと群れの花束とも見える女房たちに取り囲まれて、建礼門院も、さっきから、涙に濡れもだえておいでのようであったが、とつぜん、かの女らの手を振りもぎつて、裳やお袖の色を、夕虹のように逆しまにひき、あなと見るまに、波騒の底へ、姿を消しておしまいになった。
「あれっ……。女院さま」
 帥ノ局は、叫んだ。われを忘れて、
「女院さまが。たれぞ、早く」
と、賢所の方へ、走った。
 すでに、源氏武者が、船内を馳けまわってい、中には、義経の姿もあった。
 義経は、さっきから、舷側の下までは来ていたのだが、つぎつぎの抵抗に出会い、たった今、躍り上がって来たのであった。
 すでに、人影少ない船内の状を見、また、帥ノ局の叫びに、耳をつんざかれて、
 「しまった。ひと足、遅かったような?」
と、残念そうに、そのまま、立ち疎んでいたのであった。
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■義経の讒言は梶原だけでなく幾多の小梶原がいた

<本文から>
  もっとも、このおりの歳言が、義経にとって、すべて濡れ衣で、根も菓もなかったとは、いいきれない。
 頼朝もまた、一読者の言に、そう軽々と、気色をうごかされる者ではなかった。
 すでに以前からも、かれの耳へは、義経についての、いろいろな取沙汰が、些事大事となく、聞こえていたであろう。
 世に、讒者は、梶原一人のようにいわれて来たが、幾多の小梶原も他にあったにちがいない。
 三河守範頼とか、その魔下の諸将にしても、義経にとって、よい報告のみを、鎌倉へするはずはなかった。−自軍の無能をおおうためにも。
 四月二十九日。すなわち、都では義経のひく平家人の捕われ車が入京の雑聞をわき返していた当日。−鎌倉の府内では不気味なる少数招侍者と頼朝とのあいだに密談がとげられ、即日、頼朝の書をおびた使者が、西国へ立っていた。
 書は、あとに残った田代冠者僧綱に送られたもので、内容は、
−従来、判官は、関東のお使として、御家人どもを相副へ、西国へ差し遣はされし者。しかるに、判官、いたづらに自立を恣にし、侍どもを私に思ひなし、人これを怨むの趣聞こえたり。
 以後も志を鎌倉に存し、関東に奉公を思ふものは、一切義経の命には、 従ふべからず、この旨、内々に触れ候へ。
という異骨な内命であった。
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■頼朝自身が義経勘当の書を発する

<本文から>
  が、まだしも、これには「義経勘当」とまでは書いてない。ところが、月をこえた五月四日、先の景時の使者が帰るさい、密かに持たせてやった頼朝の指令には、あきらかに、義経勘当の意が、内示されていた。
−今後は、何事も一切、義経の下知に従ふに及ばず″
 という旨は、先の書面とおなじであったが、特にまた、平家の生捕りどもはみな大事な罪人であるといい、ひとり九郎の存意の下におくのも心もとないと、あった。そして、景時一族も早々上洛に及び、九州中国の治とあわせて、その方面のことも、御家人どもと心を一つに、抜け目なく守るように。
−かたがた、武者どもおのおの、心まかせに、関東へ帰ることは相ならぬ、
とも厳しく戒めたものだった。
 果然、頼朝は、梶原の讒聞に乗った。いや、自分の弱点に自分で懸った。
 かれは、大捷の第一報を、南御堂の棟上げ式の場で聞いたとき、
−亡き父義朝の御庇護か、神明の助けならん。
 といって、涙をながした。
 かれは、亡き親の余徳をうけ、神の恵みのあることを信じている。
 だが、そのめぐみを、他へ頒けることをかれは思わなかった。亡父の遺徳と感じても、その徳を、同胞へ頒けあい、ともによろこぼうとはしなかったのだ。かれの自我が、ここにある。
 けれど、かれの風貌は、寛やかで、何があっても、閑に見える。
 義経への、ただならぬ怒りを抱き、勘当の処置すらもらしても、なお、鎌倉の府といい、かれの起居する若菜の奥といい、閑寂そのものであった。
 −何か、そこでは、義経という者を、恐怖の対象とし、忽然と生じた妖星のように、観ている風がないでもない。
▲UP

■何もしらない義経

<本文から>
 何も知らない人 − というのは、まさに、この数日の間の、義経のことであったろう。
 静は、かれを迎えた夜、
 「もう、このような夜が、二人のうえにあるかどうか、ひところは、考えられもしませんでした。こう御無事なお顔を見れば、ほんのわずかな月日ではあったのですが」
 濡れた顔を抱かれて、かの女は何度も、夢の中でいっているようにいった。
 半年にも足らない留守。武者にはありがちといってよい。それが、何年もの別れに義経にも思われていた。静の肌の香に溶け入って、何ものもない、ひとりの男となったとき、かれは生命のふるさとへ帰った気がした。
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