|
<本文から>
両者の不和は隠れもないことだが、といって以上のような喧嘩沙汰までがあったとは思われない。思うに、梶原の三人の息子や将士が、屋島の名折れを、あすこそは、取り返そうと、気負っていたので、自然、梶原自身までが軍監の地位をわすれて、積極的に、先陣の役を望んで出た程度かと考えられる。
そして、おそらくそれは、義経に容れられたのではあるまいか。なぜなら、味方割れまでしてかれの望みを拒む理由は何もないからである。
といって。
平家方にも、さまざまな違和が包蔵されていたように、源氏の内部もまた、決して、義経の下に、整然と一本になっていたのではない。
そう考えられる第一の不審は。
義経と並び、ともに東国勢の一方の大将軍といわれる三河守範頼(蒲冠者)が、まったく、動きを見せないことである。
豊後に渡って、九州の一角にあることだけは、確実らしい。
九州に一線をひいて、彦島の平家を、牽制しているものと見れば見えないこともないが、それも余りに消極的だ。−なぜ、文字ケ関、柳ヶ浦など、豊前の海べまで、その旗職を見せて来ないのか。
義経は、三河どのの真意が、どこにあるのかを、疑っている。
「−よし船はなくても、豊前の岸に、その白旗を見せ給うだけでも味方にとっては大きな助力。敵にとっては、心を寒うさせるものを」
と、遺憾でならない。
しかし、梶原だけは、多少その消息を知っているはずだった。かれの許へは一、二度、範頼から使いもあった。だが、義経には何も語らず、義経もそれには触れないのであった。いったい、九州にいるのかいないのか、まったく、奇妙な友軍というほかはない。
疑えば安からぬ心地もして、
「−この義経が平家に勝つのを、よろこばぬ者が、味方のうちにあるのか」
と、思わされるおりさえある。
が、義経は「浅ましい心のうごき」と、むしろ自分に恥じ「そのようなこと、あり得ようはずはない」と、かたく思い直すのだった。
かれは敵以上、味方の割れ″を恐れた。功名争いや意地ずくの、われがち態勢であすへのぞんだら、神器の奪取はおろか、勝利もどうかと、危ぶまれるからである。それには、梶原を立てておくことだと知っていた。−で、その夜の最終会議も、梶原にとっては、充分、得心のできる結論のもとに終わっていたろうことは、ほぼ疑う余地もあるまい。
やがて、梶原父子をはじめ、諸将の影は、船房から外へ出て来た。そして口々に、
「さらば、明朝」
「晴れの海ばらにて」
−さらば、さらば、といい交わしながら、おのおのの船へ帰って行った。 |
|