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<本文から> 扇の的も、詩と観れば、その人びとの叙情の表現とも、悲哀を消すための陣中の一興とも解せないこともないが、二月二十日、未明から終日にわたる激戦と大混乱の中での趣向にしては、余りに閑日月(暇)な遊びにすぎる。− よしや、一場の風流としても、源平相互の陣が、人の命を賭けて騒ぐほどな意味がどこにあったか疑わずにいられない。
一書には「これは平家方が、占いのためにしたことだ」といっている。
源氏が的を射損じたら、平家が勝つ。もし、射あてたら、平家の凶。
そう、神占を思いついた一門が、
−軍の占形にぞ立てられける
と、いうのである。
けれど、これもおかしい。その日の合戦も、まだ激戦半ばであった。多くの死傷者をかかえて、沖へひきあげたばかりである。また占いなら、平家の凶と出るかもわからない。凶と出たら、味方の士気を、いちどに粗喪させてしまうであろう。
− 思うに。
表面は平家らしい風流に似せているが、真の意図は、やはり何か戦術上のふくみがあったに相違ない。
そして、おそらくそれは、伊予から引き返して来る味方が、義経の背後に現われるまでの、時を稼ぐかけ引きの一つではなかったろうか。
とにかく、平軍としては、間断なく、敵の注意を海上の一方へ引き付けておく必要があった。源氏方をして、背後に迫る情勢を気どらせないためにである。
平家弱しといわれても、またいかに半貴族的な人びとであったにせよ、ただむなしく海上に船陣をつらねていたわけではない。平家の方にも、そうした基本的戦略と、必ず勝たんとする自信は、充分、もっていたのである。 |
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