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<本文から>
「−殿っ、およろこびなされませ。弁慶と伊勢三郎の両名が、吉報をたずさえて、ただ今、立ち帰ってまいりました」
遠くへ駒をつないで、馳けよって来た忠信と有綱の声に、義経は、きっとかれらを見。
「なに、帰って来たと。して、両名はどこに?」
「昼夜をわかたず、馬を取力替え取り替え馳け通して来た由です。そのため、疲れきっておりますゆえ、しばし四天王寺の門前で落ち着かせ、粥など与えて、休ませておきました。が、追っつけこれへ見えましょう」
「吉報とは、その二人が申したことか」
「ひと言、それだけを、殿のお耳へ入れてくれ、委細は後より申し上ぐれば、とのことに、ともかく、先に飛んでまいりました」
「おっ、そうか」と、義経は、顔いっぱいに夜明けのような喜色をたたえて
−「そうか。吉といったか。田辺は吉か」と、にわかなよろこびを身のうちで持て余すように、力づけられた足つきで、ふたたび松の間を、行きつ戻りつし始めた。
やはり子飼からの郎党は、自分の胸もよく分かっていてくれる。「田辺は味方」とさえ聞けば、いきさつなどは、後でゆっくり聞けばよい。義経は、かれらをすぐ、四天王寺へ返して、
「まず身を休め、ひとまず眠り、宵のころ、ながらの別所へ罷るがよい」
と、そこの弁慶と伊勢三郎へ、つたえさせた。
それは一つの思いやりであったが、義経にはこうした悠長に似た一面もある。
ひよどり越えなどで示したかれの疾風迅雷の行動から、とかく人は義経を短兵急な勝気一途と見ているが、日ごろのかれは、鎌倉へも院へも、部下へたいしてさえ、気をつかい過ぎるほど、細心で控え目な方であった。 − ふつうならば、弁慶や伊勢三郎が、いかに疲労していようと、猶予はしまいに、かれは
「夜、罷れ」と、まず有ったりしたのである。もっとも、先に帰っていた鎌田正近から、田辺の事情はすでに聞き取っていた。吉報とさえ分かれば、あらましはもうかれに判断されていたのかもしれない。
弁慶と伊勢三郎は、やがて夕刻、ながらの別所に来て、夜更くるまで、義経の室にいた。湛増法印の書状やら誓書が、そのさい直接、義経の手へ渡された |
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