吉川英治著書
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     新平家物語(15)

■義経は鎌倉も院も部下へも気をつかい過ぎるほど細心で控え目

<本文から>
 「−殿っ、およろこびなされませ。弁慶と伊勢三郎の両名が、吉報をたずさえて、ただ今、立ち帰ってまいりました」
 遠くへ駒をつないで、馳けよって来た忠信と有綱の声に、義経は、きっとかれらを見。
「なに、帰って来たと。して、両名はどこに?」
「昼夜をわかたず、馬を取力替え取り替え馳け通して来た由です。そのため、疲れきっておりますゆえ、しばし四天王寺の門前で落ち着かせ、粥など与えて、休ませておきました。が、追っつけこれへ見えましょう」
「吉報とは、その二人が申したことか」
「ひと言、それだけを、殿のお耳へ入れてくれ、委細は後より申し上ぐれば、とのことに、ともかく、先に飛んでまいりました」
「おっ、そうか」と、義経は、顔いっぱいに夜明けのような喜色をたたえて
−「そうか。吉といったか。田辺は吉か」と、にわかなよろこびを身のうちで持て余すように、力づけられた足つきで、ふたたび松の間を、行きつ戻りつし始めた。
 やはり子飼からの郎党は、自分の胸もよく分かっていてくれる。「田辺は味方」とさえ聞けば、いきさつなどは、後でゆっくり聞けばよい。義経は、かれらをすぐ、四天王寺へ返して、
「まず身を休め、ひとまず眠り、宵のころ、ながらの別所へ罷るがよい」
と、そこの弁慶と伊勢三郎へ、つたえさせた。
 それは一つの思いやりであったが、義経にはこうした悠長に似た一面もある。
 ひよどり越えなどで示したかれの疾風迅雷の行動から、とかく人は義経を短兵急な勝気一途と見ているが、日ごろのかれは、鎌倉へも院へも、部下へたいしてさえ、気をつかい過ぎるほど、細心で控え目な方であった。 − ふつうならば、弁慶や伊勢三郎が、いかに疲労していようと、猶予はしまいに、かれは
「夜、罷れ」と、まず有ったりしたのである。もっとも、先に帰っていた鎌田正近から、田辺の事情はすでに聞き取っていた。吉報とさえ分かれば、あらましはもうかれに判断されていたのかもしれない。
 弁慶と伊勢三郎は、やがて夕刻、ながらの別所に来て、夜更くるまで、義経の室にいた。湛増法印の書状やら誓書が、そのさい直接、義経の手へ渡された
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■屋島の急襲に狼狽する平家

<本文から>
  屋島の山腹やその下の浜に、蟻の如く、なだれあって見えるのは、平家の人影だけで、源氏の兵は、まだ、屋島の内へははいっていない。
 −それなのに、源軍がもう屋島の内へ乱れ入ったかのような錯覚をいだいて、燃ゆる山に脅かされ、みずから身の位置を失っている平軍の有様は、たしかに、どうかしている。
 指揮の統一に欠けたのか、暁まだきの仰天が、仰天のまま、まだわれに返っていないのか。
 ともあれ、正常ではない。軍容をなしていない。
 もっとも、宗盛が、内心、湛増の味方をあてにし過ぎていたせいもある。また、めったにないほどな大暴風雨に見舞われて、ここの地勢にとっては、最悪な条件下に不意を突かれたことも、この狼狽の一因と見られるが、しかし、総領のかれが、総領らしい沈着に欠けていたことこそ、何よりの不覚であったといってよい。
 −もう、陽は高くなりかけているのに、宗盛は、敵の正体を、その兵数さえも、まだ正確には、つかんでいない。
 おそろしく過大に敵を観ているのである。
 そのために、かれが、
 「総勢、海上へ出て、海上よりあらためて、敵にまみえん」
 としたことは、一応、適宜な命令のように、味方には聞こえたが、じつは、宗盛が度を失っていたための、飛んでもない命令であったというほかはない。
 その命令も、まず、賢所の神器を、御座船に移し、天皇と女院の渡御もすませた後、船へ移れと軍へいえば、こうまで、混雑はなかったろうに、屋島の内に、火の手を見るやいな、
「−海へ、船へ」
 と、いきなり将士へ布令ちらしたので、このわれがちな騒ぎとなったものである。
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■義経の身代わりで矢で死んだ佐藤継信

<本文から>
 「 − あっ」
 と、矢面の諸将も、思わず揺れた。
 ある者は、身を伏せ、ある者は、馬を外らした。烈しい唸りをもって、その上を掠めて行った央は、一将の左肩部を、射抜いた。どうっと、その者の体は、馬の背からまろび落ちた。
 「や、や。継信ぞ」
 悲痛な声で−
 「誰ぞ、継信を、抱き取ってやれ」
 いったのは、義経だった。
 射落された佐藤継信は、義経のすぐそばにいたのである。
 しかも、教経の失が、的の義経へ飛んできたせつなに、継信は、われから身をもって義経の前に立ち、あるじの楯となって、死んだのだった。
 たれよりも、その一せつなを、目に見たものは、義経であった。−当然「もし、継信なかりせば」と、命びろいの一瞬をも、義経は併せて、ぞっと、毛孔で知ったにちがいない。
 「ざ、ざんねんっ」
 と、かなたの教経が叫んだのと同時に、源氏の群れの中では、
 「……わっ、兄者人っ」
と、泣くように喚いた者があった。
 継倍の弟、佐藤忠信に相違ない。
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