吉川英治著書
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     新平家物語(14)

■頼朝は義経を常に関心をもっていた

<本文から>
 「いや、さようなことではありませぬ。福原の焼け跡に、平家が残し去った石倉にあった物の由で、しかも、梶原自身が取り出したわけではなく、九郎の殿が、都へ持ち帰ったおびただしい分捕品のうちより、分け前として、九郎の殿から贈られた物なれど、武者に用なき品ゆえ、みだい所へ、献上申したいと、そのように、梶原は申しおりました」
「九郎が福原でかき集めた分捕品とな」
「はい」
「そのうちの一品か、これは」
「……と、梶原のことばではございますが」
「…………」
 頼朝は黙った。
 あきらかに、不快そうである。
 弟の九郎義経にたいしては、自分が鎌倉を出ず、遠くにいるため、つねに関心をもっているらしい。なまじ弟という者だけに、果たして、追分の代官として、わがままをやっていないか、威をかりて、やり過ぎをしていないか、驕らないで、慎み深くいるかなど、ほかの諸将以上に、気もつかい、かれ自身が思いすぎにもなりやすいのであった。
 時政には、その心の揺れが、すぐわかる。
 大勢の眷属を抱え、内輪の揉めや、世の急変にあたって、さんざん苦労して きたかれの眠から見れば、頼朝と義経の間柄など、児戯の煩いといっていいほどの問題にすぎないが、頼朝にはまだ、一門の族長としての経験が浅い。そしてまた、人いちばい、猫疑ぶかい性格がある。−時政は、そこを、見落していなかった。
 「いや何、合戦に打ち勝てば、一国も奪り、負くれば、万戸の富も捨て去るのが慣いでござる。かような物も戦場では、瓦礫の遺物同様に見え申そう。なにも、さして、お心を煩わすほどなことはない。はははは」
 かれは、無造作に、そういった。
 わざと、頼朝の弱点をついておきながら、またわざと、はぐらかすように、政子へむかっても、おなじ風にいうのであった。
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■頼朝は重衡を平家滅亡後まで生かしていた

<本文から>
 院の言質を取ると、かれらは、転じて、鎌倉を相手どり、再三、使者をして「−重衡の身は当方へ渡して欲しい」と直接、頼朝へ食い下がった。
 だが、関東の府は、院とはちがう。かれらの尊大な要求ぶりは、ひどく鎌倉方の感情を刺戟した。「奈良坊主の不遜な口上。今後もあれば、このさい、武府の御威厳を、はっきり、お示しおかれるがよい」という意見が圧倒的だった。
 頼朝も同意見だった。けれど平家の轍を踏むような愚は極力避けた。「いずれ合議のうえにて」とか、「不日、御返牒申す」とか、いつも、態よく使者を追い返してきた。
−とはいえ頼朝が、以後も心から重衡を庇護していたということではない。
 むしろその反対であった。
 あくまで、平家絶滅を期しているかれは、その間にも追討軍の急展開を止め てはいない。そして翌年四月には、壇ノ浦の海戦をさいごに、目的を完遂していたのである。−つまり重衡の身は、それを利用する目的で生かしておいたのだが、西国における源氏の着々たる大捷の結果、利用することもなく終わったというに過ぎなかった。
−当然、鎌倉には新しい権力意識が興りつつあった。僧団の圧力に屈して、重衡を渡したといわれるのはかれらの意地がゆるさないし、また「鎌倉殿が情けをかけおかれたるお人」とたれも知る重衡の中将を、すぐ突っ放したと聞こえるのも、世間態にはばかられた。
 では依然、重衡は鎌倉の庇護と、前通りな優遇をうけていたかといえば、これは大いに違ってきた。南都の抗議がうるさいうえに、頼朝としても、はや「用なき者」と見たのであろう。千手ノ前と引き離してから、およそ一月ほど後、つまりその年の秋、身柄は密かに他へ移されていた。
 ほかとは、どこへ?
 以後、重衡の移された場所は、どうも、定かに分かっていない。
 鎌倉中の内ではあろうと人びとはいった。ところが、伊豆の蔵人大夫頼兼の手で伊豆へ移されたという説もある。また、重衡の中将の隠された先は、鎌倉山の土牢の一つであると、臆測する者もあった。
 が、重衡がなお、翌年六月までは、この世にいたことだけは確実である。
 翌年六月といえば、すでに平家一門は壇ノ浦に亡び去った後であった。
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■義経は訴訟事の裁定など評判が良かった

<本文から>
 一ノ谷の合戦からおよそ百日後、六月の初めだった。義経は、堀川の自邸にひきこもっていた。
 風邪が流行っているらしい。
 館の内にもせきする者が多かった。しかし家臣たちは、ひそやかに、こういいあった。
 「お疲れが出たのであろうよ。風邪よりは日ごろのお気づかれの方が……」
 事実。兄頼朝の代官の格で、義経はあれ以来、守護職の任に当って来たが、その繁忙と、治安の気づかいには、少々、疲れ気味にみえる。
 不馴れな、朝廷や院の、しきたりにも、相当気をつかうし、鎌倉への報告とか、その指示を仰ぐなどの時務についても、
 「もし、兄君のお心をそこねては」
 と、文書の文言から、使いの口上にまで、心を労す有様なので、まったく、わたくし的な寸暇もない。
 かれの直臣たちは「ああまで鎌倉どのへ、お気がねせずとも」といったり
「自体、わが殿は、余りに、お気をつかいすぎる」ともいっているが、あながち、細心ばかりが義経の本領でもなかった。
 たとえば、洛中や畿内の訴訟事は、ひっきりなしだが、裁断流るる如し、という評もある。
 窮乏の寺から、召し上げられた畑を返してもらいたいとか、兵が乱暴して困るから、取り締ってもらいたいとか、一見して正しいとわかる嘆願書などには、訴状の余白へ、可″とかきっと沙汰すべし″とか、かんたんな一筆を加え、花判を書いて、即座に、それを証に返してやるといったふうであった。
 きびきびした直明な行政ぶりが、戦後社会の人心にさわやかな気分を与えたにちがいない。「九郎の殿は、おきびしいが、情があって、私心がない」と洛中の民は、その人柄に泥み、その治政に、信頼をもった。
 信頼といえば、後白河をはじめ、義経にたいする院の気うけも悪くない。武人蔑視と、自尊と、故実格式にかたまっている公卿のうるさ方にまで「義経とは、まれにみるよい武者よ」と評されていた。
 が、それには、義経自身の人知れぬ忍辱と誠実が底に重ねられていたのはいうまでもない。
 気疲れも出るはずだった。
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■義経と静は恋を越えていた

<本文から>
  ただ、興人したばかりの正室と、その正室付きの家来たちの思惑のほどはわからない。
 おそらく、眼にとげを持って、他のかなたの小館へ、注意を払っていることだろう。
 けれど、これは、義経だけが、そうなのではない。上は皇室から公卿武将にいたるまで、ひとりの男に、幾人もの側室があり、しかも、ひとつ邸内に住まわせていることは、一般の世風である。特に、義経だけを、責めるわけにはゆかなかった。
 それにしても、義経自身は、
 「余りに、あらわでも」
 と、いくぶん、付人たちへは、気がねしていた。わけて、可憐な新妻には、すまないとも、憐れとも、心では詫びている。
 しかし、静とかれとは、もう単なる恋は超えていた。側室とか、妾とか、そんな世間なみの通念は、二人の仲に、持とうとしても持ちえないものだった。二人は二人以外のたれの力でもなく自然に結ばれただけのも釘としていた。大空の星の一つと一つとが出会ったような、それは奇蹟みたいな約束事であったとはいえよう。−あの、どっちもまだ幼かった雪の日の牛車の中で、鞠のように抱き合ったまま眠ったこともあったりしたことなどをいま振り返ってみるならば−。
 ともかく、こうして今、久しい間の恋が、時をえて、結ばれたものだけに、静と夜を一つにしてからの義経は、静の陣、静の唇を、院の御庭にいる昼のまさえ、忘れえなかった。
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■義経は人気に得意になり、頼朝は不快をひきづった

<本文から>
 十月の十一日だ。
 かれは、恩命拝受のお礼のため、院参のうえ、晴れの初昇殿を踏むことになった。
 その日、堀川から白河の院御所まで、かれは、生まれて初めて、八乗の単にのった。衛府の武士三名、供の騎馬侍二十人を従えていた。式場では、古式に則って、まず、庭上で舞踏の後、剣第を帯して、階から殿上へまかり昇り、法皇の御座に拝伏した。
「よくぞ、日ごろは」
 と、深く嘉し給うような大きなおん限を、法皇には特に、義経の上へそそがれていた。
 やがて、賜酒となった後でも、公卿たちの問には、さまざまなささやきや、評が流れた。
「おなじ武者でも、かつての木曾冠者とは、まるで違う」
「−背丈は短いが、容貌は優美だし、進退も優しくて、頼もしげな」
 というのが、衆評であつた。また、
「いつしか、京馴れて、春のころよりは、一だんと、男振りも勝れて見ゆる」
と、いった公卿もある。
 とまれ、かれの名も姿も、いつのまにか、人気的な雰囲気の中にあった。
 人気の恐さや軽薄さ、そして人気というものの、いたずらっぼい本質などは、人気の焦点におかれた当人には得て自省し難いものである。義経は、まだ弱冠二十六だった。かれが、得意になったとしても、ふしぎはないし、かれの未熟ともいいきれない。
 早くも、一部には、かれを嫉視する者もあつた。
 もと昇殿の当日、その人気を見、かれ自身の得意げな様を、眼に見ていた大江広元(頼朝の側近)は、さっそく、鎌倉の頼朝へ、つぶさに、その日の模様を、告げていた。
 おそらく、それを知った頼朝の猫疑と、不快さは、生やさしいものではなかったろう。どんな顔いろを蓼ませたか、想像もつかないほどである。
 いや、頼朝のことだ。あるいは逆に、顔いろにも、見せなかったことかもしれない。
 ことに、この十月にはいってからは、かれが期待していた範頼からの戦報は、事ごとに、不利な報告ばかりであった。かれは暗愚ではない。そろそろ前途の見通しもその多難を感じ始めている。そして、範頼を、総大将としたことの失敗を、自身の大きな過誤であったと、今は自分でもみとめている。
 −でなければ、このさい、かれはただちに義経を呼びつけて、糾明するか、馬諺を斬るの例に倣って、断乎たる処罰をしたいところであろう。
 いや、そうしても、なお、腹のいえないくらいな不快を義経に抱いたことだけは確かである。
 だが、かれはその怒りを外へは発しなかった。胸に冷やしていたのである。この小期間、義経の方へは、ひとまず無事な形だったが、それこそ、じつは恐るべき頼朝の不問だったわけである。けれど、義経は覚らなかった。
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