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<本文から> 義仲の容子も、ここ数日は、さすが平静でない。
西の平家攻勢、東の鎌倉勢。さらに行家の反乱など、思慮のいとまもない四面の楚歌に、その決断も迷わされたことが、かの玉葉記事″などに見ても、思いなかばに過ぎるものがある。
一たんは、平家に当って、運を天にまかせ、雌雄を決せんとしたらしい。すると、かならず和平説が出、平家も迷い、義仲も迷つたのである。
そのまに、双方の出先の兵は、丹波方面で小ゼリ合いを起こし、平家武者十七人が首切られたり、また行家の兵が、難波方面へ働き出すなどのことがあって、どちらも疑心暗鬼をいだき、和睦は、ケシ飛んでしまったのだ。
かかる間に、一方、鎌倉方の義経、範頼の軍勢は、ふた手になって、熱田を発し、すでに義経軍は、北伊勢の開から加太峠をこえ伊賀の山中へかかっているという飛報もある。
これがすでに、十六日のことだった。
その十六日夜から十七日の朝にかけ、伊賀、南近江方面から、出先め木曾兵が三々五々、みだれ立って落中へ逃げ帰って来た。
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それらの弱腰な者の口から
「鎌倉勢の陣容はゆゆしいものだ。とても太刀打ちできるものではない」と、いいふらされ、いやがうえにも、死相の都を、暗澹なものにした。
しかし、どういうものか、まったくそれとは反対な流説もあった。
「なんのなんの、義経の軍も、範頼の手勢も、あわせて、たかだか千余騎にすぎぬ。−いま洛中にあるお味方の数をもっても、それくらいな敵、驚くにはあたらなね」
どれが真。どれが嘘。
義仲は迷いに迷った。
一挙、西の平家に当たるべきか。
−でなくば、法皇のおん輿を擁して、大津口へ進み、鎌倉勢を前に、堂々の陣を布くのがよいか。
将また、いずれも避けて、法皇のお身がらだけを守り、北国へ立ち退き、鎌倉勢にも平家にも、ここは、肩すかしを食わせて後日を待つのが賢明だろうか。
−義仲は、まったく、思惟の乱視にかかった。 |
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