吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新平家物語(12)

■義仲は平家と鎌倉勢を前に迷いに迷った

<本文から>
 義仲の容子も、ここ数日は、さすが平静でない。
 西の平家攻勢、東の鎌倉勢。さらに行家の反乱など、思慮のいとまもない四面の楚歌に、その決断も迷わされたことが、かの玉葉記事″などに見ても、思いなかばに過ぎるものがある。
 一たんは、平家に当って、運を天にまかせ、雌雄を決せんとしたらしい。すると、かならず和平説が出、平家も迷い、義仲も迷つたのである。
 そのまに、双方の出先の兵は、丹波方面で小ゼリ合いを起こし、平家武者十七人が首切られたり、また行家の兵が、難波方面へ働き出すなどのことがあって、どちらも疑心暗鬼をいだき、和睦は、ケシ飛んでしまったのだ。
 かかる間に、一方、鎌倉方の義経、範頼の軍勢は、ふた手になって、熱田を発し、すでに義経軍は、北伊勢の開から加太峠をこえ伊賀の山中へかかっているという飛報もある。
 これがすでに、十六日のことだった。
 その十六日夜から十七日の朝にかけ、伊賀、南近江方面から、出先め木曾兵が三々五々、みだれ立って落中へ逃げ帰って来た。
ゾ宝貨ノ五箇バーみだれ亙うノてハl小洛外甲卜逃げ帰β将来たゾk∴汁k∵ノ〃
 それらの弱腰な者の口から
「鎌倉勢の陣容はゆゆしいものだ。とても太刀打ちできるものではない」と、いいふらされ、いやがうえにも、死相の都を、暗澹なものにした。
 しかし、どういうものか、まったくそれとは反対な流説もあった。
「なんのなんの、義経の軍も、範頼の手勢も、あわせて、たかだか千余騎にすぎぬ。−いま洛中にあるお味方の数をもっても、それくらいな敵、驚くにはあたらなね」
 どれが真。どれが嘘。
 義仲は迷いに迷った。
 一挙、西の平家に当たるべきか。
−でなくば、法皇のおん輿を擁して、大津口へ進み、鎌倉勢を前に、堂々の陣を布くのがよいか。
 将また、いずれも避けて、法皇のお身がらだけを守り、北国へ立ち退き、鎌倉勢にも平家にも、ここは、肩すかしを食わせて後日を待つのが賢明だろうか。
−義仲は、まったく、思惟の乱視にかかった。
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■義仲の言動が乱視的であった。彼には冬姫を思っていた

<本文から>
  いかに、義仲の言動が乱視的であったか、そして、後白河には、ここのせつなをあらゆる遁辞のもとに、かれの拉致から遅れようとなされたか、想像するに難くない。
 それの苦しまぎれな遁辞の一例ともいえようか、なお玉葉の一節には、
−御幸、危ク停止シ了ンヌ、院御赤痢ニ依リテナリト 云云”などいうまことに際どい記事もある。策がなくなると、法皇には、御仮病を構えられたものであろう。もちろん、赤痢といっても、当時の病語であり、今の赤痢とはちがう。
 しかし、院そのものは、まさに、危篤の命脈だったし、木曾の運命も、釜中の魚にほかならない。
 なぜ義仲は、わずかなここ数日の間にでも、早く、次の活路へ、身を転じようとはしないのか。院の甘言に惑ったり、都に執着したりしているのか。
 玉葉の筆者は、その様を、ただかれの無策と見、方針の変々、日に十数度とのみ書いているが、義仲の乱視のひとみに、冬姫のすがたが、不断に住んでいたことは見のがしていた。
 義仲とても、その冬姫に、恋々とひかれていては、ついに、院の思うつぼに墜ちるものとは、知っていたにちがいない。しかも、知りつつかれは、冬姫との夜の帳を稚い方状で濡らしあう悲曲から自分を断つことができなかった。−いやむしろ、夜々に深まる死の都の暗黒と凄絶さとは、二人のほかは何もない盲月的な命の燃焼を、一そう、ひと知れぬ甘美なものにしていたかもわからない。
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■義経が頼朝に誓う

<本文から>
「よく、わかりました。不肖なわたくしですが、ただ、懸命に勤めまする」
「よし、わしの代官として、やってみるがよい。まだ、瀬踏みだが、万一、ただちに合戦ともなれば、和殿にとっては、生まれて初めての実戦、つまり初陣ぞ」
「はい」
「ぬかるな」
「………」
 なぜか、九郎は、ほろりと、涙になりかけた。−千載一遇ともいえるこの機会を、兄は、自分に与えてくれた。そうすぐに、愛情に取ったからであった。
 が、頼朝は、その容子を見ると、かえって、むずかしい顔を守った。涙に誘われる人ではない。事は公命であり、鎌倉の運命をも決する大事ぞと、よけい冷静になるのである。
「九郎」
「はい」
「鶴ケ岡若宮野の棟上の式。もうだいぶ以前になるが覚えておるか」
「覚えております。養和元年の夏七月」
「うむ、御家人どもが、みな宝前で神馬をひいた。和殿も、わしが工匠へ与えた馬を、神前でひいた。あの日のことさえ忘れねばよい」
「ゆめ、忘れはいたしません。たとえ、遠くお個を離れましょうとも」
 義経は誓って、立った。
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■義仲の最期

<本文から>
  するとそのとき、何かにつまずいて、かれの馬は泥田のなかへ落ちこんだ。いや、それよりも、ひゅうっと、飛んで来た夫が、喉笛から内兜を射抜いたことの方が早かったかも知れない。
 いずれにせよ、がぼと、大きな泥しぶきの音がした一瞬、さしもの木曾山の自然児、そしてわずかでも、静を都に占めた朝日将軍義仲は、三十一を末期として、生命を終わっていた。
 深田の泥へ、横顔の半分までも埋めたままのかれの死に顔は、白い夕星の下に、すぐ、比良の雪のような冷たいものに化していた。
 それは、なんらの怨念の影もなく、むしろ、課せられた宿業を解かれて安らいだもののように見えた。
 −たたたたと、たちまち、ここへ馳けて来る騎影があり、すぐ跳び降りた一人の武者は、義仲の首を持って、泥田の中からはいあがると、魔の踊りのように、その首を差し上げて、体じゅうかち怒鳴った。
「木曽殿の御首級を、われ掲げたるぞ」
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