吉川英治著書
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     新平家物語(10)

■義仲は頼朝が味方かどうか迷っていた

<本文から>
 鎌倉殿は、わが甥だが、御辺もまた、行家の甥である。天下一変のこのさい、平家にばかり心を軒られて、万が一にも、後門の狼に、あえなき不覚をとり給わぬよう、一そうの御自重が望ましい)
 という進言など、いかにも、行家らしい才気がゆき届いている。
 「……ありそうなことだ」
 義仲は、惜然と、南の空を見た。
 つねに忘れがちだったが、そこには、鎌倉の頼朝という者が厳存していた。まだ、会ったこともないが、平家をたおすという目的において、よい盟国だと思っている。
 しかし、その頼朝が、真に自分とひとつになれる味方か否か、それは今日まで、義仲自身も、自分に乱してみたこともなければ、疑ってみたこともない。
 「−依田へ帰って、まず、碓氷口に、備えおけ。南へ、討って下りるか、ふたたび北へ攻め上るか、思案は、しばちく雲行きを見てのこと」
 義仲は、こう自分へいって、また、そのことばを、今井兼平から、据花川の全軍に布令させた。
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■清盛の死を洛中の人びとは「そら、やったわ」と

<本文から>
  公卿の家々では、そら見たことか、天罰よ、平家の落ち目よ、といいはやしている。西八粂へもまわって見て来たが、いやもう、輿や牛車や、騎馬武者の往き来で、近づけもせぬ混雑だ。あれだけでも、ただ事ではない」
 「どうして、公卿衆は、そう、よろこぶのだろ」
 「きまってら。平家のために、二十年ってもの、きゅうきゅういわせられて、あたまも上がらずに来たんだから」
「それにしろ、人の死ぬのを、よろこぶなんて」
「業のむくいで、しかたがない。あの入道殿がして来たことを思えば」
「どんな悪業をなされたろうか」
「いえば、針の山ほどもある。保元、平治では、たくさんな人を殺し、堂上に取って代って、勝手気まま、南ばかりを高位高官にすえ、腐り栄えてきたろうが」
 「だが、悪いといったら、公卿も山門も、おらたちから見て≠いいやつはいない。みな、おのれらの欲の皮と、立身栄華のいがみあいだ。入道殿だけを、責めるわけにもゆくまい」
「いやいや、いくら山門でも、法皇さまを押しこめたり、わが娘を、宮中に入れて、その皇子を天子さまに立てたりはしていないぞ。藤原氏は、それをやって、四百年も栄えたが、こいつあ、遠い先祖からのことだから」
 「先祖からでも、した罪はおなじだし、長ければ長いほど、罪は確かろうに」
 「つべこべいうな。なにしろ、入道殿の火の痛は、天罰だ、仏罰というもんだ南都の大仏殿やら、あまたな寺々を、焼き討ちした罰が中たったにちがいない」
 鏡磨ぎは、痛快がった。一しょになって「そうだ、そうだ」という者もある。けれど、平家二十年の治世の、それ以前をも、眼に見て来た中年以上の者は、「悪いのは、平家だけではないぞ」という考えらしく、あながち、清盛だけを、怨嵯してはいなかった。
 清盛を、悪人道と、単純に思いこみ、飢餓も、貧乏も、みな平家のせいに考えているのは、総じて、若い仲間であった。かれらの年齢では、貴族末期の腐えた世代と、その後の世代との比較がもてなかつた。社会が見渡せた時は、すでに平家全盛の時代だったから、世に思う不平は、すべて平家の悪さに見えていたのは是非もない。
 清盛の大きさともいえよう。ひとたび、かれの重態がつたわると、世間は未曾有な関心をよせた。天皇の御不例にもまさるほどな衝動だった。
 それが、どんな感情と表情をつらぬいて、京中へひろまったか。古典平家物語では、こう活写している。
 −あくる二十八日、重病をうけ給へりと聞えしかば、京中、六波羅ひしめきあへり。「すは、しつるわ」「さ、見つる事よ」とぞ、ささやきける。
 つまり、洛中の人びとは、「そら、やったわ」「ざまを見たことか」と、みな、快哉をさけんだというのだ。
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■清盛は頼朝がいなくても後白河法皇によって平家は滅んでいたと

<本文から>
  二十余年のむかし。平治の合戦も片づいたあと。
 もし、あの時、虜偶の「少年頼朝を、死刑に処していたら、どうなつたろうか。
 今日の憂いは、起こらなかったにちがいない。
 すくなくも、源頼朝なる者も、鎌倉新府なるものも、東国には、出現しなかったであろう。
(−それを思えば、平治のさい、池ノ禅尼のお命乞いにまかせて、頼朝を助けおいたことほど、世にも残念なことはありません。ついに、今日の禍いを見たのも、もとはといえば、その大不覚によるものです。まさに、平家にとっては、千慮の一失とも申すべきか)
 これは、一門の声である。
 入道清盛は、何度、一門のたれかれから、おなじ地だんだと、歯ぎしりを、聞かされてきたかしれない。
 (そうだ。いってみれば、まあ、そんなものだ)
 千慮の一失とは、自分の過失だ。自分の犯した責任だ。清盛は、それを、いい逃げたりなどはしない。
 けれど、かれの本心は、べつにあった。一門のすべてが、口をそろえて「あのとき、頼朝を生かしてさえおかなかったら……」といっている後悔とは、根本から考えがちがっている。
(どのみち、世に、栄々盛々など、ありえない。咲いた花はかならず散る。栄枯盛衰が自然なすがたなのだ。まして、自分の亡い後、平家がなお弥栄えてゆけようはずはない)
 かれは、こう、結論をもっている。
 また、一門のうち、自分ほどな器量の者が、あとにいるとも思われない。たとえ、いたにしても、後白河法皇のおつよくて複雑なあの御性格に、よく対処し、よく抗しうるはずもない。
 とかく、周囲は、源氏ばかりを、平家の仇と思っているが、清盛にとって、いちばん怖いのは、後白河なのである。
 (あの法皇の御意を立てつつ、一面、その弄策をあいてによく一門を支えうる者は、この入道をおいてはあらじ)
 とは、いつも清盛が、近親へいっていたことばである。
 かりに、頼朝がいなくても、自分の死後は、かならず、平家を滅ぼそうとする人があろう。それは、疑いなく後白河法皇である。また、その後白河に抗しうるほどな器量人は、まず一門に見当らない。
 −とすれば、頼朝が伸びて来ても、結果は、おなじことである。
 はかない望みだが、頼朝にして、もし池ノ禅尼の旧恩を忘れず、またこの清盛の寛大な処置を思い出してくれるなら、権力は奪っても、人間は殺し尽すまい。平家人の根は絶やすまい。清盛は、その最悪な日までを、考えている。
 だからかれは、周囲の者のような後悔や地だんだは踏んでいない。
 もともと、頼朝を助けたのも、かれとしては、
 (自分である)
と、思っているからだ。
 義母の池ノ禅尼が、どう、すがったにせよ、ほんとに、助けない肚ならば、遠国へ送った後に、人手でも殺せたことだし、また、何より重大なことは、なんでわざわざ源氏の故郷 − 代々源氏党の多く住む − 東国地方へ頼朝を流そうか。
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■「頼朝の首を、わが墓前に供えよ」は後年の作

<本文から>
  右のように、清盛が臨終に、「頼朝の首を、わが墓前に供えよ」といったということは、数百年来、真実らしく伝わってきたが、それは、清盛がいったのではなく、後の人の臆測であろう。
 何よりは「墓に首を供えよ」などという表現が、あの時代のいい草でない。儒学から出た士道的で、また殉忠義烈の復讐型を思わせるものだ。−−−武門は武門でも、平家はまだ「武」と「儒学」とを鍛ち交ぜた武士道をもつまでには至っていまし。むしろ多分は、平安朝貴族のにおいをもった半公家武者だった。
 では、かれは、ついに、何もいわずに死んだろうか。
 そうもいえない。凡人の死に際にいいそうなことは、清盛もいっただろうと考えられる。
 潜伏痛は、発作すると猛烈な大熟を示すが、おさまると、平調に回る。その間には、二位ノ尼とも、いろいろ話もあったにちがいない。遺言といえば、そのすべてが、遺言といえよう。
 諸善一致していることは、
 (自分が死んでも、仏事供養の必要はない)
と、いったということだけである。
 清盛らしいし、これは、かれの日ごろの言行や、その性格とも、矛盾がない。
 とまれ、内外に、その喪が発せられたときは、洛中、くつがえるような騒ぎであったに相違なく、西八条はたちまち弔問の車馬で埋まったことであろう。
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