吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新平家物語(9)

■頼朝は遅参した上総介広常殿を追い返す

<本文から>
 頼朝の耳へは、一人の部将から取次がれた。
「−広常が来たというのか」
 ひどく、不きげんである。
 あたりの将たちは、かれのその一語に、意外な感がしたのであろう。頼朝の面へ陣をあつめ合った。
 川原の秋草に、小鳥が噂きぬき、大河は朝陽に揺れ立っていた。その波影が仮屋にまで映しこんで、無言の人の感情を、あたりに措きぼかしているようだった。
「…………」
「おそれながら、お耳に達しまする。ただ今」
「なんだ」
「−ただ今、上総介広常殿が、手勢五千を召し連れまして」
「うるさい」
「はっ」
「何度ひとつことをいうのだ」
 しかし、それなりなお、黙っているので、取次ぎの侍も、果てなさに困って、つい、またいった。
「広常殿へのおことば、いかが伝えましょうか。……お目通りのうえ、ごあいさつ申し上げたい由にございまするが」
 すると、頼朝はきびしい声で、
「ならぬ」
 と、どなった。
 びくとしたのは、取次ぎだけではない。すべて、惟幕のうちが、しんとしたほどである。「はつ」と、居疎んでから、あわてて立って行く取次ぎの背へ、頼朝は、追い浴びせるように、またいった。
「今ごろ何しに参ったぞと、申してやれい。追い返せっ」
 めったに主君のこんな声は聞いたことがない。居合わせた千葉、土肥、三浦などの物怯じを知らない人びとすら顔いろを変えた。おそらく、外に待つ上総介広常の耳へも聞こえたろうと思われたからである。
 せっかく来た五千の味方を、失うばかりか、それが逆に敵にまわったばあいを、たれもが、「ああ!」と嘆じないでもいられなかった。
(なんたる御短慮)
 千葉介さえ、義実や実平さえ、唖然と、いや腹立たしいような疑いの眼で、じっと頼朝の気色を見ていた。
「はははは」
 頼朝は笑い出した。周囲の心配顔を無視し、それを翻弄するようないい方で、
「いいのだ。これでよいのだ」
 と、つぶやいた。
 よくはない。たれの面も、釈然としてない。しかし、もう陽は高く、きょうもまた大勢の兵や雑人は、舟橋を架ける工事に働き出しているし、おりふしまた、川向こうに、およそ六、七宙騎の兵馬が岸に見えた。
 江戸太郎重長、小山四郎朝政、豊島権守清元、河越太郎重頼などが打ちそろい、
「魔下の一方にお加えを」
と、参陣を乞うて来たものであった。
 その中には、先に頼朝から撒を送った者もあるし、石橋山では、平家方に.ついていた者もある。けれど頼朝は、なんらとがめる風はなく、
「よく来た。大いに働いてくれい」
と、一切をゆるした。
▲UP

■頼朝は抵抗らしい抵抗にも出会わず、順調な風雲児だった

<本文から>
  それも頼朝には、大きな健倖であった。
 もし石橋山の第一報とともに、六波羅の軽騎何千かが、即刻、海道を馳け下り、箱根、足柄を絶して東人力国の平家の与党へよびかけていたら、おそらく頼朝も、そうやすやすとは隅田川をこえ、武蔵へはいることもできなかったであろう。
 そして、安房上陸以来、続々帰属して来た武族たちも、みな日和見に傾くか平家に忠誠を示すべく、かれを狩り立てたにちがいない。
 何しろ事々にめぐまれていた。じつに順調な風雲児だった。頼朝の質が大器であったことも確かだが、なお、それだけのものではない。億倖というのが当らないなら、時代がかれに味方していた。
 とにかくかれの源氏軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗にも出会わず、隅田川濠押し渡った。そして豊島郷滝野川に降し、王子、板橋、練馬と進み、わざと武蔵野の西北方を大迂回して行った。
 これは、ひとつの示威であったろう。一面には、武蔵野に散在する草の実党だの、下野、常陸あたりの源氏党をさし招くためであったかもしれない。
 武蔵大里郡熊谷の人、熊谷次郎直笑も、このとき、頼朝に謁して、臣となった。
▲UP

■清盛は天下第一の憎まれ者と自覚

<本文から>
 −といって、全然、頼朝の監視を、無策のまま放沸していたわけではない。
 北条時政、伊東祐親、日代の山木判官などに、それは充分、命じてあったことだし、源三位頼政にも、伊豆の一部を知行させ、子の伸綱を伊豆守に任じ、蛭ケ島の配所に関する報告は、たえずそれらの者から聞き取ってもいたのである。
 「よい年をして、不覚至極。おれは元来、人に好ききらいの強いたちだ。信じると人を信じ過ぎ、また寛大に過ぎてしまう。そこをうまく狙われたのだな」
 いわず語らず、泥のような悔恨にまみれたにちがいない。
 けれど、後白河を幽閉し、院政を廃し、以仁王を討ち、遷都まで断行した後の清盛は、さすが、自分の行為にも、反省をいだき、ごうごうたる世論の声に畏れも感じて畏れも感じていた。
 天魔、悪逆、外道の所為。一門の栄えのみを考えて、やがて国をも亡ぼすであろう大逆賊、大悪党。−かならずや、ただでは死ぬまいぞ、と呪われている天下第一の憎まれ者。
 その名は、すべて自分であり、自分をさしてののしる地上の声だということも、清盛は、知っていた。
 「しかし、おれにも、いい分はある」
 ひとり枕をつけて眠る夜半、かれは、ほの暗い格天井へむかっていう。
 「院政の弊害は、久しいことだ。政治が二道より出るために、幾世にわたって、万人を苦しめ惑わせ、そして地獄の乱をくり返して来たか分からぬ。保元、平治の戦いを初め、鹿ヶ谷の変も、以仁王の謀叛も、因をただせばみなそれに帰する。おれは、禍いの根元にむかって鉄鎚を下したまでよ。法皇こそは、院政の権化だ。おれが天魔外道なら、法皇は大魔王であろう。何ゆえ、おればかりを世は責めるのか。 − 稀代な魔王を降伏せしめるには、稀代な外道にならねばできぬ。……おう、憎まば憎め、清盛の今は、むかし、日吉山王の神輿へ失を放ったあのおりの心と違っていない」
 自分の声で、夢がさめる。
▲UP

■頼朝と義経の対面

<本文から>
 頼朝もまた、無量な感をたたえ、しげしげと、義経を見まもっていた。
 二十年の孤独に馴れて、骨肉町あるなしなども、頼朝は、まったく忘れていたのである。いま突然、眼のまえに、肉親の枝ともいえる一個の若者が、弟と名のって来たのをながめ、うたた、ふしぎな思いに打たれた。自己の生命の由来に、遠いなつかしみと憐懸を抱かずにいられない。
 「風の便りに、みちのくにいるとか聞いていた九郎冠者とは、おことなるか」
 「はい。九郎義経にござりまする」
 「この頼朝が旗挙げと聞き、遠くより、馳せつけて来たと申すか」
 「されば、まだ鞍馬にいたころから、伊豆には父をひとつにし給う兄君のおわすと人より聞かされて、長いあいだ、伊豆の空のみ密かに恋うてもおりましたゆえ」
 九郎は、両手をついたまま、ようやく、確とその人を仰いだ。頼朝の全姿を、眉目のうごきまでを、眼のうちへ、むさぼるように、見すました。これまでは、想像の人でしかなかった兄が、限のまえに、実在している。夢ぞはなく、愛情にみちた陣で、自分へはなしかけている。
 これこそ、兄君である。父を一つにした兄。自分はこの人の弟と意識する。
 生まれながらの、数奇で宿命的なかれの孤独も、ほのぼのと、血のうちから、あたためられていた。
 おなじ孤独でも、兄の頼朝が経て来た幽居の二十年とはおのずから違う。それとは比較にならないほど苛烈で冷酷な人中の孤独に撮まれて来た九郎という弟である。「自分にも、兄弟があった」という歓喜も、感激の度合いも、頼朝とは相違があった。うれしさにも、落差がある。
 けれど、頼朝とて、よほどうれしかったものには違いなく、
「さても、よう来たぞ。よくぞ訪ねて」
 と、何度もそれを繰り返し、
「むかし、わが家の祖八幡殿(義家)が、奥州へ遠征のみぎり、おん弟の新羅三郎義光殿には、兄君の戦難儀と聞き給うや、都の職を辞して、奥州へ馳せつけ、御加勢ありしたか、伝え聞く……。先ほどから、その故事も、思い出されていた。浅からぬこよいの機縁、黄瀬川の一夕こそは、お互い兄弟にとって、生涯、忘れうることではあるまい」
▲UP

■麻鳥が義経を秀衡殿の国へ連れ去った

<本文から>
 「九郎義経殿を、遠い、秀衡殿のお国へ連れ去ったのは、あなたでしょう。あなたが、かどわかしたのだと、もっぱらな評判でした。− 妻の蓬は、九郎君の母御前、常磐さまに仕えていた女ですから」
「ふうむ。……それはまた、奇縁であったが、しかし、この吉次が、都へ顔を出すと、都に不吉があるとは、どういうわけか」
「あなたは、乱を好んでいるでしょうが」
「乱を好むとは」
「世が平穏では商売にならない商売を狙っていらっしゃる。静かな世間よりも地獄の地上を待っている。そこで、このたびこそは、頼朝殿の旗挙げとかで、源平二陣が、一尺の地上も余さず、この世を修羅と戦うことになりそうなので、時こそよしと、秀衡殿の命をうけて、また、地獄のケシかけ役に上洛なすったものでしょうが」
「これ、これ、麻鳥」
 吉次の顔は、いつのまにか、仮面のように変っていた。
「だまって、いわせておけば、秀衡殿のおん名まで出して、何を口走るか」
「でも、あなたが、申せ申せと仰っしゃるので、申しあげているのです」
「たれが、さようなことを、いえといったか」
「でも、おはなしの順序として、根本から申さなければ、御合点がゆきますまい。−つまり、あなたのお顔に出ている死相と、あなたのやっているお仕事とは、べつものではありません。−国と国とを戦わせ、人と人との殺し合いをやらせ、その間に、自身の国を富ませ、栄花と安全を計ろうという御商売が、自然お顔に死相を作っているのですから」
「さても、大それた誹り口を反らすやつかな。源氏が起つ、平家が討つ。それは、自然の輪廻だし、避けがたい世の作用というもの。なんで、秀衡殿やこの士口次の知ったことか」
「いえいえ、人は知らず、麻鳥には、そうとしか見えません。幸か不幸か、わたくしは、保元のころから、ここの柳ノ水の畔に住み、都の劫火から、御所の上皇が、讃岐へ流され給うた末路にも逢いまいらせ、続いて、平治の乱のちまたも、らぶさに、この森蔭で見て来ました。−およそ、むごい、浅ましい、人間同士、骨肉同士の殺しあいを、飽くほど、この眼で見、ほとほと、世に、あいそを尽かしている者です。……あなたが、なんと偽っても、あなたの形相が承知しません。あなたのお顔には、人間の死など、なんともしない残忍さが漂っています。それは、衆生の怨霊のせいです、そのため、あなたもやがて不慮の死をとげ、秀衡殿のお国も、三代で亡び去るでしょう。はい、それはもう、はっきりと、わたくしの予言と申しても悍りません」
▲UP

■清盛の再遷都

<本文から>
 この夜、清盛が奏したのは、再遷都の決意だった。
 理由として、
 「御孝心のあつい新院(高倉上皇)には、父君一院(法皇のこと)のうえを案じられ、先ごろよりは、御病気の方も次第におよろしくないように伺いおります。そして、しきりに、旧都をお恋い遊ばしておられる由。……おいじらしさ、あわれさ、清盛も、今は我執を捨て申した」
と、いった。
 そのうえ、ここの幽所も、こよい限り、解き参らせんといい、還都のうえは、ふたたび以前の法住寺殿へおはいりあるようにと、いう確約もした。
 まるで、夢のようなお顔つきである。
が、法皇の御性格のひらめきか、清盛が、そう明言したとたんに、お心には、べつな疑惑が、わき起っていた。これは何か、時局の大変が世間に起こっているのではないか。そのため、急に、清盛が折れて来たのではないかということをである。
 法皇には、もとより、頼朝の旗挙げも、木曾の挙兵も、否、天下を挙げての、
反平家のあらしをも、まだ、御存知はなかったのだ。
▲UP

メニューへ


トップページへ