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<本文から> 頼朝の耳へは、一人の部将から取次がれた。
「−広常が来たというのか」
ひどく、不きげんである。
あたりの将たちは、かれのその一語に、意外な感がしたのであろう。頼朝の面へ陣をあつめ合った。
川原の秋草に、小鳥が噂きぬき、大河は朝陽に揺れ立っていた。その波影が仮屋にまで映しこんで、無言の人の感情を、あたりに措きぼかしているようだった。
「…………」
「おそれながら、お耳に達しまする。ただ今」
「なんだ」
「−ただ今、上総介広常殿が、手勢五千を召し連れまして」
「うるさい」
「はっ」
「何度ひとつことをいうのだ」
しかし、それなりなお、黙っているので、取次ぎの侍も、果てなさに困って、つい、またいった。
「広常殿へのおことば、いかが伝えましょうか。……お目通りのうえ、ごあいさつ申し上げたい由にございまするが」
すると、頼朝はきびしい声で、
「ならぬ」
と、どなった。
びくとしたのは、取次ぎだけではない。すべて、惟幕のうちが、しんとしたほどである。「はつ」と、居疎んでから、あわてて立って行く取次ぎの背へ、頼朝は、追い浴びせるように、またいった。
「今ごろ何しに参ったぞと、申してやれい。追い返せっ」
めったに主君のこんな声は聞いたことがない。居合わせた千葉、土肥、三浦などの物怯じを知らない人びとすら顔いろを変えた。おそらく、外に待つ上総介広常の耳へも聞こえたろうと思われたからである。
せっかく来た五千の味方を、失うばかりか、それが逆に敵にまわったばあいを、たれもが、「ああ!」と嘆じないでもいられなかった。
(なんたる御短慮)
千葉介さえ、義実や実平さえ、唖然と、いや腹立たしいような疑いの眼で、じっと頼朝の気色を見ていた。
「はははは」
頼朝は笑い出した。周囲の心配顔を無視し、それを翻弄するようないい方で、
「いいのだ。これでよいのだ」
と、つぶやいた。
よくはない。たれの面も、釈然としてない。しかし、もう陽は高く、きょうもまた大勢の兵や雑人は、舟橋を架ける工事に働き出しているし、おりふしまた、川向こうに、およそ六、七宙騎の兵馬が岸に見えた。
江戸太郎重長、小山四郎朝政、豊島権守清元、河越太郎重頼などが打ちそろい、
「魔下の一方にお加えを」
と、参陣を乞うて来たものであった。
その中には、先に頼朝から撒を送った者もあるし、石橋山では、平家方に.ついていた者もある。けれど頼朝は、なんらとがめる風はなく、
「よく来た。大いに働いてくれい」
と、一切をゆるした。 |
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