吉川英治著書
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     新平家物語(8)

■宮以下頼政一族は、勝目のない合戦を余儀なくされた

<本文から>
  二万八千騎は誇張である、じつさいの数ではない。また、宮以下、頼政の方の数も、五百余騎とされているが、それも五、六十騎にすぎなかった。
 要するに一対十、約十倍の敵をむかえ、宇治橋を断って、宮以下頼政一族は、勝目のない合戦を余儀なくされたものである。
 しかし、宇治川合戦の特徴は、兵量ではなく、その烈しさだった。なぜ十倍もの敵軍に当って、頼政の部下が、あえて死闘を求めたかといえば、その間に、以仁王を、一歩でも先へ、お落し申そうためであったのは、いうまでもない。
 じつに、奈良はもう目の先だった。あと一歩というところで、迫撃軍に食いさがられてしまったのである。宮方の残念さも思いやられるし、またかれらが、目的のため、一死を宇治川に賭けて、
 「ここを防ぎ戦うまに、宮には奈良へ、急がせ給え」
と、捨身になったこともわかる。
 逸りたつ六波羅勢の先頭では、
 「敵は、橋を引いたるぞ、過ちすな、川へ落つるな」
 と、部将の声が、しきりに聞こえた。
 そこの東岸も、西岸の陣も、川をはさんで、おのおの、川べり一ばいまで、弓を張り並べていた。能うかぎり、夫ごろ(距離)を接しあうためである。
 多くのばあい、序戦はたいがい両軍の矢合わせと、武者声だけがしばらくつづく。わけて、宇治橋の対陣は、地形や条件からも、初めは、典型的な矢合わせとなった。
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■内外の情勢がはげしい様相をもって平家へ迫った

<本文から>
  内外の情勢が、今ほどはげしい様相をもって、平家へ迫ったことはない。
 いいかえれば、それは清盛への四面楚歌の声であり、時局の処理、進退、すべてかれ一個のうえにのしかかって来たものといってよい。
 わけて、この数日の多事と精神的な衝撃とは、かれの健康にも耐え得ないほどなものだった。
 頼政が、宮を奉じて、三井寺にたてこもったと聞いたときなど、かれは、
 「……ふううむ。あの頼政がか」
 と、鼻腔を大息で鳴らしたきりであった。けれど、眼の中のものや、顔じゅうに滲み出た深刻な色には、かたわらの人びとすら、眼を反らさずにいられなかった。
 「腹立ちは体に毒だ。何よりは、体に障る。あとの疲れもかなわん」.
 かれは、かれ自身をなだめるのに、努力と、時間を要した。かなり時たってから、ようやく、自嘲的につぶやいたことだった。
 「えらい。思えば、えらいやつだ、頼政という男も。−およそ清華の公卿といえど、この清盛に限をかけられて、媚びぬはなく、靡かぬ輩もなかったのに」
 おそらく、それはかれの負け惜しみだけではなかったろう。騙され、裏切られても、事と手際によっては、憎むべき相手に、感歎を送ってしまうような例もないではない。頼政の辛抱づよさと、晩年の志操を思うとき、歯咬みをして盆怒にふるえたのは、もちろんだが、一面、鵺の正体に、驚歎したことも事実である。
 とにかく、かれの立場は、受け身にあった。四面の楚歌を感じながら、極力、自己の感情をなだめ、陣頭の指図や内外の折衝は、すべてこれを、義弟の平大納言時息にまかせていた。                
 時忠は、由来、泰平な日の有能ではない。逆境につよい英俊である。
 西八条でも六波羅でも、また検非違使ノ庁へ出ても、かれの姿は、席あたたまるひまもなかった。
 こよいも、忙しげに、西八条の奥へ通り、清盛と対談数刻の後、またへ馬をとばして、六波羅へ急いで行った。
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■福原遷都

<本文から>
 ともあれ、以仁王と頼政の謀叛は、これで終娘した。一応、表面は片づいたというしかない。
 すぐ、五月は過ぎ、六月にはいった。
 すると−である。
 突如として、西八条から、
 「都を、福原に遷す」
 という沙汰が出た。
 万家の公卿、京中の諸職、上下の騒ぎはひと通りではない。
 つい七日前には、合戦やら三井寺の炎上におののき、それがやんだと思うと、足もとから鳥の立つような、遷都の令である。−しかも、初めは、六月三日と触れ出されていたのが、急に一日くりあげられて、六月二日卯ノ刻(午前六時)には、はや、主上(安徳天皇)の行幸が、果てもない列をなして京をあとに、西へさしてゆくのが見られた。
 つづいて、中宮(建礼門院).も。
 また、摂政基通の牛車も。
 わけて人目を傷ましめたのは、後白河法皇の御車であった。
 これには、鎧武者ばかりが、前後に添い、さながら囚人の護送である。福原に着いても、三間板屋とよぶ粗末な建物の内に押しこめ参らせ、一切の出入りを断って、原田大夫種直が守護についた。
 きのうの都も、一夜に変り果てた。桓武天皇このかた、四百余年の平安の都であった。埴生の小屋や板小屋に、食うや食わずの庶民でさえも、すでに、ここの土地と自分の生活細胞とは、ノ木の根と土との関係みたいに結びついているのを、公卿や武門が去るとなれば、自分らも、それを慕って行くしかない。自然、都には職もなくなるし、職も得られないし、食うにも道はないのだった。
 摂津の野には、毎日、そうした流民のみじめな列も、えんえんと、続いていた。
 「気でも狂われたやら、相国さまは」
 「三井寺は焼く、法皇さまは押し龍める、あげくに、都遷しとは」
 怨嵯の声は、地を喘ぎ喘ぎ歩いてゆく。
 この声が、清盛の夜の枕に、適わないはずはない。
 しかもかれはあえて、この重大な問題を、決行した。もとより、考えぬいた帰結である。これ以外に、現状の危機をきりぬけ、平家を安きにおく道はないと、信じたからだつた。
 以仁王のほかにも、なお、後白河の皇族はある。ふたたび、二の舞を見ないとはいいきれない。
 また、依然として、法皇奪取の計画があるとは1時忠もかれに注意していることだった。おそらく、それはあるであろう。法皇御自身のお心としても、そうあるはずだ。
 清盛は、それをも、大いに警戒している。
 けれど、かれが遷都を決意した第一の理由は、西八条や六波羅の地勢のまずさである。−京を囲擁している諸山の僧兵組織にたいし、到底、勝目のない盆地の狭隆に、一門甍をならべている状態は、つねに累卵の危うさにあるものというほかはない。
 従って、政治の複雑さ、むずかしさ。それは、それらの諸山の法師と、公卿とが、余りに接近しすぎているところからも来ているのだ。
 もう、安んじていられる日ではない。一門の軒に、火はついている。−今にして、都を遷さねばと、かれは思い決めたものだった。
 遷す所の福原は、西国西海へ広々とつづく新天地だ。四国、九州は、代々、平家恩顧の武族ばかりが相拠っている。−四百年の古池、せせこましい京の小盆地、捨てるに、なんの惜しみがあろう。清盛は、なお生々たる夢をもち、長寿するつもりでもあったらしい。
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■頼朝を扶けて起つ

<本文から>
 これは時政の肚を見ぬいて、義時がわざといったかと思えるくらいなものである。父子の考えは、完全に合致した。もちろん純情な兄の宗時には、こんなはなしは、聞かせられもしない。
 そこで佐殿を扶けて起つ、と内部の方針はきまってはいたが、なお、時政が出渋って、頼朝の方から足を運ぶように仕向け、両者の会合がのびのびになったのは、そういうかけ引きのためだった。このさいに、頼朝を一個の娘婿として扱ってしまう。そして北条家の一家族という待遇をあきらかにし、将来の優位を占めておく。そう考えたものである。
 ところが、時政のかけ引きは、ひとり角力に終わってしまった。腹立ちまぎれの寝返りも打てないし、頼朝という神輿を持たぬ挙兵ではただの乱になってしまう。
 (ちいっ、この我慢は、忘れられぬよ。生涯忘れることではない)
 ついに、かれは我をおった。強情者が強情に負けたのである。まっ暗な大雨の中をここまで来る途々にも、鬱憤をひとりぶつぶつもらしていた。「だだ娘の惚れただだっ子の殿だから仕方もないが」!と苦笑しながら、他日、いつかはこの我慢に催するだけのものを佐殿からしぼり取らねばならぬとも、ひそかに誓った。
 − しかし、である。
 頼朝から家臣同様に呼ばれ、また、馳せ参じた一部将の扱いをうけても、不平どころか、それに対して、いちいち平伏するほかないふしぎな自分を見てしまうのだった。
 ただ、その場にあってもなお自我を失わずに、控え目な無口を守って、横から頼朝を観察していた者は、次男の義時だけであつた。
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