|
<本文から>
二万八千騎は誇張である、じつさいの数ではない。また、宮以下、頼政の方の数も、五百余騎とされているが、それも五、六十騎にすぎなかった。
要するに一対十、約十倍の敵をむかえ、宇治橋を断って、宮以下頼政一族は、勝目のない合戦を余儀なくされたものである。
しかし、宇治川合戦の特徴は、兵量ではなく、その烈しさだった。なぜ十倍もの敵軍に当って、頼政の部下が、あえて死闘を求めたかといえば、その間に、以仁王を、一歩でも先へ、お落し申そうためであったのは、いうまでもない。
じつに、奈良はもう目の先だった。あと一歩というところで、迫撃軍に食いさがられてしまったのである。宮方の残念さも思いやられるし、またかれらが、目的のため、一死を宇治川に賭けて、
「ここを防ぎ戦うまに、宮には奈良へ、急がせ給え」
と、捨身になったこともわかる。
逸りたつ六波羅勢の先頭では、
「敵は、橋を引いたるぞ、過ちすな、川へ落つるな」
と、部将の声が、しきりに聞こえた。
そこの東岸も、西岸の陣も、川をはさんで、おのおの、川べり一ばいまで、弓を張り並べていた。能うかぎり、夫ごろ(距離)を接しあうためである。
多くのばあい、序戦はたいがい両軍の矢合わせと、武者声だけがしばらくつづく。わけて、宇治橋の対陣は、地形や条件からも、初めは、典型的な矢合わせとなった。 |
|