吉川英治著書
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     新平家物語(7)

■武蔵坊弁慶

<本文から>
 「くどい御念」
 「はははは。ちと、くどかったが、まあゆるせ。じつは時息殿からわれらへたいし、土よい、九郎義経を放すと見せて、じつは武蔵坊なる者に、かくかくの策をさずけてあれば−と、苦衷を打ちあけての御談合に、一同、合点はしたなれど、さて、武蔵坊弁慶とて、どれほどな勇ある着か、また、時忠殿のことばに、偽りなきや否やも、心もとなく思われたゆえ、宴を外して確かめに来たわけぞ」
 「いかさま、公達方らしい御懸念かな。大言には似たれど、六方者のうちでも、いささか聞こえのある弁慶とは、御存知もなかろうほどに」
 「いや、安心した。この由、ほかの人びとへも、急いで耳打ちなしておこうぞ」
 資盛は、物蔭につぐなんでいた従者をつれ、かなたの一門の内へ大股に戻って行った。
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■義経はみちのくへ

<本文から>
  いうまでもなく、みちのくの空へ。
「情けない御縁でおざる」
 と、弁慶はなげいた。さめもいった。
 「子に会うたと思えば、殿にお別れせぬばなりませぬか。……この隠れ家に、いつまた、お姿を見ましょうやら」
 「否とよ」
 九郎は、母子をなぐさめた。
「ふたたび、九郎が、都へさして上る日は、そう遠いことではあるまい」
「では、近々に、旗挙げのお催しが」
「これ弁慶、この隠れ家は、そちにとっても、その間の隠れ蓑。めったなことを口外すな。やがて一つ旗の下に、再会の日までは、母と子と二人暮らしのささやかを守って、その日その日をただ楽しんで暮らすがいい。この九郎が身の上を見ても思え。人の生涯に、そのような倖せが、幾日もあるものではない」
「よう、分かりまいた。勿体ない日を過ごしなど致しては、御恩情にたいしても」
「三郎殿、おれの分の、御奉公も頼む。その代りに、またの日には、きっと、おぬしへおれが奉公返しをするほどにな」
「心得た。武蔵坊どの、案じるな」
 三郎のみは、うれしそうだった。
 生国伊勢の伊勢をとり、また亡父の名のり字を享けて、かれもこの日を境に、以後、伊勢三郎義盛とよばれることになった。
 数日の後には、その三郎義盛をつれた旅姿の義経の姿が、琵琶湖の一舟の上に見出される。
 舟は、竹生島へさして行く。
 しかし、かれの竹生島滞在は、ほんの二た夜か三夜であったらしい。いくばくもなく、この主従二人は、ふたたび、湖北から北国街道にあらわれ、越前、越後路にはいり、やがて雲漠々、出羽の羽黒山にいるとも聞こえたが、翌年の初春には、すでに奥州平泉の人となっていた。
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■源氏へ撤を飛ばす打ち合わせ

<本文から>
 運命にはあやつられない。自分の運命は自分で作ってゆく、として来た頼政も、このとき、何か、足もとへ来た大きな波にさらわれたような、自主のない自分が感じられた。
 以仁王はまた、行家にたいし、わが令旨をたずさえて、諸国へ王使として下るからには、無官の新宮十郎では、人も信じまい、蔵人の資格で行けと、称をゆるされた。
 「え。蔵人のみゆるしを」
 身に余る光栄と、使命の重大さに、行家は、まったく、緊張しきっていた。
 一応、頼政父子とともに、別室へ退がり、かれは、その身なりを、山伏姿に変えた。
 国もとの能野新宮には、支配下の山伏も居、その起居、作法、特有な山伏ことばなどには、精通しているかれなので、不自然な風は、どこにも見えない。
 「そのお身なりなら、いずこの関や平家の所領を通ろうと、よも、密使と思う者もありますまい」
 と、仲綱は、いつもながら、行家の機智と、抜け目のない用意に、感服した。
 まず、まっ先に、令旨をつたえる第一の源氏はたれたれか。
 伊豆の前右兵衛佐頼朝、木曾の木曾冠者義仲が、指を折られる。源九郎義経は、余りに遠く、みちのくまでは足も伸ばし難いと思う。禽陸源氏の信太三郎義教は、為義の子、そこへはぜひ賜わねばなるまい。
 そのほか、どの家々、どの族党へは、こうしてなどと、行家は頼政と、源氏揃の表によって、撤を飛ばす打ち合わせを遂げた。そして、坪口から草鞋をうがち、笈を負い、金剛杖を手に、よそながら宮の御座所へもう一度お別れをつげて、ひと足さきに、三条高倉の門を、暁闇にまぎれて出立した。
 すぐあとから、頼政、伸綱も、帰って行革外にいた兼綱たちの郎党も、見張りを解いてか凄消えた。
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