吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新平家物語(5)

■頼朝のしおらしをもちながら胸中を他人へのぞかせない人間性

<本文から>
しおらしさを示すとき、世の女は、勝手に、自分だけの頼朝という男性をえがいて、われからかれの贅になるのを望んでしまうにちがいない。
 それはこの人がまだ十四という少年時代のことを思い合わせてみてもわかる。
 もうそのころからしてすでに身に備わっていたものだろう。当時、池ノ禅尼や重盛が、頼朝のために、命乞いをしたというのも、今でさえ、こうなのだから、まして当年の可憐な姿を想像すれば、まことに無理もないことだったろうとうなずけてくる。 − 現にいま、文覚の如き者ですら、こう対坐しているうちには、なんとなく、この人へは、寸毫の反感もさげすみも起きないのみか、かえって妙なあわれみと、それに伴う親しみを生じ、ふと、その源家の嫡流というものへ、自分を賭けてもよいような魅惑にさえかかってくる。
 そのくせ、頼朝自体は、おくびにも、胸中の秘を、他人へのぞかせはしなかった。
 与えられている運命の中に甘んじきっている姿である。六波羅を恨むでもなし、世情の憐れを願うでもなく、ましてや天下の隙をうかがおうとするような眉色は見えない。
 −いくら時を移していても、世間ばなしに誘いをかけても、松は桧風の声しか立てないように、始終、頼朝の態度は同じだった。文覚はひそかに「これは、ものになる」と思った。
 −なぜならば、文覚は、まったくべつな方面から、頼朝が決して現状に甘んじているような人物でない実証を、いくつも聞いていたからである。その表裏を洞察し、人物の厚さを測り「これは、義朝には欠けていたものを父子二代分ほども、ゆたかに持って生まれた男ぞ」と、観たのであった。
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■政子の掠奪結婚

<本文から>
  政子を負って逃げたのは、土肥次郎兼平であり、ほかに、加藤次景康だの、天野遠景の弟七郎なども、護っていた。
「仕すましたぞ、仕すましたぞ」
 かれらは、乱舞した。
 こう、凱歌して、一つの沢を渡った。
 そのまに、べつ組の書茂、小次郎、宇佐美五郎なども、土肥次郎の組に追いつき、一団になって、
「おおいっ」
「してやったぞ、首尾よく」
「祝げ、祝げ」
 やがて、この一群は、韮山の峰道まで来て、初めて、政子を地に降ろした。
−しかし、その政子は、またすぐ被衣につつまれて、
「お苦しくも、しばらくは、おこらえあれ」
と、馬上になった土肥次郎の鞍まえに、抱え上げられた。
 若者のあらましは、みな馬の背に跳び乗って、三騎、二騎、五、六騎と、先の影につづいてゆく。
 幾人かが、あとに残った。−見とどけて、宗時へ知らせるために。
 まるで、遠い大昔の夜のようだ。未開土の蛮族が、掠奪結婚の風習にまかせて、なんでもないこととしていた通りな光景が、今夜の星の下に行われている。
 箱根、足柄、愛鷹などの連峰の上から、ただ、夜の富士だけが、それを見ていた。
 政子を攫って行った人馬の影は、点々と、峰道のいただきへ出、やがて、半島の脊梁をなしている平原へ立つや、一陣になって、風のように、伊豆山の方へ馳け去った。
 −その疾風の中に、身を浮かせて、いやこの先の恋も、一族の運命も、みな風の中のものとして、奔馬にまかせていた政子は、どんな心地でいたろうか。
 生ける心地もないようなかの女ではない。
 といって、野性の男どもみたいな、よろこび一途に、なれなかったことも確かであろう。−初めから、自分の恋が組み立てた計画である。余りに自分の智恵が思いどおりに行われたそら怖ろしさに、今となっては、戦懐を覚えたかもしれない。
 女は、行うまでは、盲目であり、男は、事の行われたときから、いやおうなしに、腹がすわる。
 兄の宗時が、そうであった。父の時政が、その立場である。
 政子のえがいたような夢の実行が、たれにも、なし得るものではない。
 ただ、火のごとき恋だけが、やればやりかねないことといえよう。それも政子のような女性でなければ、という条件がつく。
 だから、北条父子の、野望への踏み出しは、かの女の恋が、いやおうなしの導火線だったといってよい。たまたま、この家では、世にもすくをい特異なむすめを、その門に持っていたということになる。
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■弁慶出生の謎

<本文から>
  弁慶。幼な名は、鬼若と呼ばれたという。
 生まれは紀州。
 田辺といい、新宮の御船村鮒田ともいい、口碑も諸書も、一致していない。
 また、弁慶は出雲の産なりとか、伊勢の度会氏の商なりとか、奇説の書も、少なくない。
「義経記」の弁慶素姓なども、その類である。師長右大臣が、某大納言の女をつれて、熊野詣でにゆき、別当堪増が、これを奪って、むりに妻とし、懐胎八ヵ月で、翌年、生まれたのが、生まれながら魁偉な弁慶であった − となっている。
 つまり弁慶は、熊野の別当の子か、右大臣師長の子か、と謎めかしているわけだ。
 しかし、この「義経記」の誕生年代でゆくと、源平合戟の一ノ谷、壇ノ浦のころは、弁慶が、十歳にしかならないことになってしまう。
「寛文記(踊甜謂詣e酢桝)」という一書には、
  別当弁心ノ子、本宮備ノ里二生レ、五条大納言国綱卿、具足シテ上洛ノ後、叡山西塔ノ律者弁順ノ弟子トシ給フ。
 これも虚伝である。弁順などという人物はない。
 そこで、史家の間には、弁慶は実在したのではなく、架空人物ではないかという疑いさえもたれた。しかし、「吾妻鏡」の文治元年十一月の記事には、義経の従者のうちに、武蔵坊弁慶の名が、二度も出ている。義経の愛人、静の名も記録されている。
 こうして、弁慶は実在せずと、抹消しようにも「吾妻鏡」は抹消できない。
 といって、口碑伝説のほかには、なんの手がかりもない。
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