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<本文から> 鞍馬そだちのかれの野性は、自然、人中の狭い世間や壁の家に、ときどき、たま堪らない息苦しさを覚えるらしい。
季節は、ものみな萌える春でもあったし、年若の体温には、綿のはいっている夜具など、いやに柔らかで、暖か過ぎて、かえって、火みたいなほてりに寝もだえてしまう。
発作的に、何か、あばれてみたくなるのだ。山の子であった日の自由と跳躍への郷愁に耐えないで、わざと夜具の外に足を出してみたりする。
で。−今夜の事件などは、かれのそういう生理を癒やすには、打ってつけな遊戯となった。
物々しい闇入者を見たとたんに、かれは、
(吉次の悪戯だな。−わしを懲らそうとするな)
と、すぐ判断していた。
こういう脅しごとには、幼少から馴らされて来たかれである。鞍馬法師たちが、山の椎子たちにするわるさと来ては、なまやさしいものではない。特に牛若はきかん坊であったから、退屈な法師輩は、機会のあるごとに、年若を、試しにかけたり、懲らしたり、おもちゃにし抜いたものだった。そのため、かれの天賦のなかには、自然それに鍛えられて来た後天的な特異性があった。大人の鼻をあかすような才気と敏捷がそれである。
もし、こうしたかれに母なる人がなかったとしたら、後の源九郎義経はあり得たかどうか、わからない。たとえ、鞍馬を出ても、羅生門に巣食う不良の一人となる環境と素質は多分に持っていた牛若である。
母の髪の毛は子をつなぐという。−−母を夢にみる子はいつも心の岐路では母に手をひかれている。−牛若が、そうであったのだ。
しかし、その一面の不良魂と、大人もしのぐ不敵さは、今夜のばあいのように、突然な行動には、偽りなく出るものだった。
にせ群盗のウラをかいて、かれが、離れの水屋戸を脱け出し、母屋の大屋根へ上がってしまった迅さなどは−吉次を始め、下では、笑止なほど、狼狽えた様子だったが − 牛若としては、大人の悪戯にたいし、子どもの悪戯をもって、シッペ返しをしたとしか思っていない。そして、その愉快さに、笛など吹いていたまでのことである。
だが。
こういう少年の行為は、大人の理解にかかると、何か、もっと意味ありそうなことになる。小面憎いし、不気味でもあった。ことに、完全に鼻をあかされた吉次は、
「ちいっ。……チビ天狗め」
どうにも不愉快そうである。手伝わせた家人どもへも、不面目でならなかった。さっきから仰向いたまま大屋根を見ている首の向け変えようもない姿だった。 |
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