吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新平家物語(3)

■厳島を恋した清盛

<本文から>
 −天地の生んだ一個のもの。あなたはそれでいいではないか。白河の御子であろうが、なかろうが、一個の人間としてお立派であったらいい」−と。
 いつ、どこで思い出しても、これはその通りだ。じじは、いいやつだった。
 「海の見える地に、生涯の館を建て、八重の潮に、理想の業を、顕現してみせん」
 というかれの日ごろの夢は−この時の船中で、いよいよ形をもち、誓いが固められていたにちがいない。
 やがて、厳島の影を、波上に近く望んだ日。
 「ああ、厳島」
と、清盛は恍惚と、ひとみを凝らした。なぜともなく頻に涙がつたわった。
 −前世からの恋人がここに自分の来るのを待っていたとも、いいたげな面持ちであった。
 平家の氏神。海の氏神。島そのものが、神の姿といっていい。
「きょうは、結縁の日だ。おれの考えを、この世に具現させる宿縁は、すでに、父祖の代からあったのだ。きょうはようやくその結線が熟して、自然に、これへわが身が運ばれて来たのだろう」
 かれは、故知らぬ涙を、そう理由づけた。
 厳島の砂を踏まないうちに、かれは、厳島を恋した。
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■世は平家の時勢

<本文から>
 「世は藤原」という時は藤原氏の門へ。「世は平家の時勢」といい出さぬれば平氏の門へ。 − 世俗の媚びや実利主義の方向には、臆面がない。
 平家万能の風は、世相化してきた。
 何か緑を平家の門の端にでも結ばなければ、人として生業も立ちゆかないような錯覚を人びとはもった。そうした観念が常識にまでなっていた。民力の自覚をもたない時代の民である。南が吹けば南風になびき、北が吹けば北風に臥し、とかく、季節には従順に、あの野草や雑木の根づよさを、そのまま、生きの姿と守っているしか、生き方はなかった。
 人の心が、こんな世風に、染められて来たときである。
  ここにそのころ、ひとつの 巷話″が、語りつたえられた。
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■平氏の一類は昇官をほしいままに

<本文から>
  「清盛の専横こそ、言語道断なれ。かくも密かに、法皇をたぶらかし奉るとは」
 と、かれへの非難は、いやが上にも、騒然たるものがあった。
 むりはない。摂関家をはじめ、藤原氏の側にとっては、幾世紀の家例をここに破られたのだ。
 かつては、殿上へすら昇れなかった地下人の子の清盛が、今や、皇室の準外祖である。しかも、一片の交渉すらなく、かれらが唯一の特権としていた −皇室と藤原氏との血縁によるつながりを−横あいからの園入者に、ふみにじられた憤懣は、骨髄にまで、恨みをのんだに違いない。
 あまつさえ、凋落一途をたどる藤氏の門をよそに、大典の功を名として、平氏の一類、重盛、宗盛、頼盛、敦盛など、みな昇官をほしいままにし、いまは皇太后となられた平ノ滋子の兄、時子の弟時思すらも、権中納言の高位に登ったのを見ては − である。
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