吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新平家物語(2)

■保元の乱が敵と味方との両陣営に、無数の人びとをまっ二つに分けて戦わせた

<本文から>
 まことに、保元の乱を書くことは苦しい。その時代から八世紀もへだてた今日においても、そくそくと、胸が傷んでくるのである。筆者は、その精彩も描きえないで、かえって、今日の嘆息に落ち入ってしまう。
 戦そのものは、幼稚であった。戦争を遊戯しているか、芸術しているようですらある。しかし、戦争のかたちや量ではなく、戦争のもつ人間苦の内容は、今も昔もかわりはない。いや、昔のそれを、もっと拡大し、深刻化し、そして科学的進歩のうえに、今日の戦争形態としたものが、人間進化の全面ではないが、一面であることは否みえない。
 −と、すれば、かつての古き人間の戦争は、まだ、その稚気、愛すべしとはいえないまでも、人間的とはいえるかもしれない。武器、服飾にも、芸術の粋をこらし、陣前では、廉恥を重んじ、とまれ、精神的な何かを持とうとは心がけた。動物にはなるまいとしていた。
 しかし、それにしてすら、保元の乱が、敵と味方との両陣営に、無数の人びとをまっ二つに分けて戦わせたあとを見ると−いかにその戦いが、人間の本性にそむいた、むごい、傷ましい、血みどろな一戦であったかがしのばれる。
 いや思いやられて、描くにも忍びなくなるのである。
 次の、主なる人びとが、たがいに、攻めあい、苛みあい、殺しあう、敵味方に別れていたことを見ても、読者もともに、眼をおおうて、われらの過去にもった歴史の一駒に、嵯嘆せずにいられまいと思う。
▲UP

■信西の頭角

<本文から>
  ただ、やがて戦後の論功行賞のわりふりに当って、それが、賞勲考査の資料になったことにはちがいない。
 −−こういう抜け目のない、そして、峻烈な行政手腕をふるっている新朝廷の上官は、いったい、だれかというに、それは久しい間、少納言の局の机に、背をかがめたまま、鳴かず飛ばずで、凡々と吏務をとっていた例の−少納言信西入道なのである。
 典型的な、官僚肌の男、とでもいおうか。
 今までは、容易に、その頭角を、局以外には、現わさないかれであった。
 わけて、頼長のいるうちは、ほとんど、頼長の眼のすみにも止まらないように、無能、無言を守っていたかれ。
 その信西入道が、ようやく、首をもたげて、廟堂の上に大きく自己を見せ出したのは、まったく、こんどの戦乱を境とし、特に、戦後処理の行政に、自身、当ってからのことである。
 残党狩りの執拗さも、かれの性格らしいし、また、自首奨励の街の偽説なども、実は、信西の策というのが本当らしい。
 恩賞の内議にも、信西は、その考査に当って、大きな発言をもち、かれの意見が、基準になった発表ともいわれている。
▲UP

■保元の乱の恩賞、義朝には名を取らせ、清盛は実利を取った

<本文から>
  その中で、下野守義朝が、昇殿をゆるされ、左馬頭に叙せられたのに較べて、安芸守清盛が、また播磨一国を加えられて、称えも、播磨守となったのは、見る者が見ると、非常に、格差のある恩賞だという評があった。
 「左馬寮ノ頭といえば、見栄はよく、武将の官職としては、めずらしく高い地位でもあるが、なんと、清盛どのが受けた播磨守は、どう思う?」
 「それは、較べ物には、なるまい」
 「なるまいがの。−いかに、寮ノ頭でも、一方は、馬いじりの、馬の司にすぎぬ。清盛どのが、さきの安芸一国に、また、播磨一国を加えた富とは、重さがちがう」
 「義朝どのは、見栄のよい名を取られ、清盛どのは、実を取ったわけよの」
 「そうだ。……由来、瀬戸内の海に面した備後、その他には、親の忠盛どのが領国であったころの、平家の族党が、たくさんいる。されば、前もって、清盛どのから信西入道へ、ぜひ播磨の国を賜え − と、ないない、請うていたのではあるまいか」
 「……かも知れぬよ。あの両家の、親しさからでも」
 恩賞の発表には、依怙、不平の論は、付きものだが、信西入道と清盛との仲は、何か、格別なあいだらしい。どうもただ親しいという程度ではないと、ようやく近ごろになって、周囲も気がつき始めていた。
 なんと、迂遠な衆目だろう。
 信西は、早くから、武者の力を牛耳る必要を考えていたし、清盛も、家門の興隆には、廟堂の人物との黙契を、望んでいたにはちがいない。 − そして両者の、妻と妻とも、たえず往き交いして、良人たちの、そうした野心の交易に、裏面の扶けをしていたことを、世間は、気づかずにいたらしい。
 いまや、二人の黙契の上に、両者の期していた季節が巡って来たわけである。
−−−清盛が、義朝には、名を取らせ、自分は、一実利を取ったのも、
 (花は、行く末に、いくらでも)
 と、将来の夢を、大きく抱いていたためであったとは、後にこそ人も知ったが、この時には、まだたれも感づかずにいた。
▲UP

■入道の切れすぎた独裁

<本文から>
  一介の公卿儒官から、にわかに、朝権の中心に立った少納言信西入道には、当然な、敵があった。
 しかし少納言の局の片隅で、長年のあいだ、一事務官吏におかれたまま、根 気よく無為無能な顔をして、よく隠忍を続けてきたかれだけに、一たび、
(乃公、出づ)
 と、自負して出ると、まるで面目をちがえていた。快刀乱麻という趣があった。その政治的才腕は、むしろ、斬れすぎた。
 保元の戦後処理も、思いのまま片づけおわった。大内裏の造営も成心とげた。
 そのほか地方税制の改革やら、古札の復古やら、都内の武器携行禁止やら、かれの意中から出た政令刷新は、枚挙にいとまがない。人材の抜てき、大臣の更迭、また賞罰の振り当てにいたるまで、じつに明快は明快だが、余りにも堰を切ったようで、果断のきらいがないでもない。いや、その独裁ぶりに、もう非難の声が出始めていた。
 独裁者が乱をよぶのか、乱が独裁者を作るのか、とにかく、保元以前にはなかった型の覇権的人物が、一夜に出来た地殻異変の山のように、忽然と、政権に立って、この荒療治をし出したものである。
 新院の遠流。為義、忠正などの斬刑。そして新院方の百名ちかい公卿武将をも、捕まえては斬らせ、捕まえては斬らせ、寸情の仮借をしなかったのもかれのさしずといわれている。
 当時。−その恐怖政治を見て、栂ノ尾の文覚は、信西入道の館へ、献言に行ったが、結果は、信西に面会を避けられて、いたずらに、大声疾呼し、文覚大暴れの一場面を演じて帰ったにすぎなかった。
 もとより信西も、他人の脅迫などで、所信を曲げる男ではない。
▲UP

■平治の乱の前の清盛の決断、悪くゆがめられた

<本文から>
  (都返りを急いでも、洛内の諸相は一変しているだろう。信頼や義朝一党の備えに抜かりのあるはずはない。われは旅さき、甲胃弓箭の用意もないし、同勢五、六十人があるばかり……。如かず、難波ノ津から四国へ渡り、しばしかの地で情勢の推移を見、兵を集合したうえで、入洛を計ろうではないか)
 これでは、どっちも、消極な退嬰策にほかならない。
 一案にも二案にも、重盛は反対した。じじもうなずかなかったのである。
 −が、筑後には、清盛の真意が読めていた。清盛が最も恐れたのは、京師の大敵よりも、じつは旅をともにしている味方にちがいない。これが異心を抱いたら、無造作に、自己の屍を路傍にさらしてしまうだろう。首は、京師へ持ってゆけば、その者たちに莫大な恩賞となる。
  都に残してある池ノ禅尼や妻子の安否も、清盛の胸を痛めている一間題たることは想像に難くない。−もし、清盛が軍備に移ったと知れたら、信頼、義朝たちはたちどころに、六波羅を一巨火に葬り、かれの義母や妻子を獄に投じ、清盛に降伏を強いる囮とするであろう。それは火をみるよりも明らかなことだ。
 まず味方を。次には、内通者や敵方の眼を−。少なくも、都にはいる直前までは、巧みに、晦ましておかねばならぬ−偽装しながら、しかも急速に、帰路の無事を計ることが、絶対に必要であった。
 由来。このときの清盛の決意と言動については、古典の諸本が皆、清盛の不決断と退嬰策を、かれの本心みたいに書き、そして、その卑怯を諌めた者を、子の重盛であるとなし、ひどくかれを無分別者あつかいになし終わっている。
 この年、平氏の嫡子重盛は二十二歳。かれのような親の子としても、時代の青年としても、良い子であったことに異論はない。けれど、清盛を悪くゆがめようがために、重盛がひとり忠孝両全の士で、道義、信愛に篤く、親まさりの良い子にされすぎたきらいは多分にある。
 この原因は、古典の諸本が、みな、平家滅亡後の鎌倉期に善かれた物であったということにほかならない。歴史は勝者が敗者を書いた制裁の記録″ であるという千古の原則によって 清盛像″も描かれていたのである。
 だがなにも、それほどまで、愚父賢息のひらきがあったわけでは決してない。
むしろ、清盛の本質には、その風貌もたすけて、はなはだ紗としたところがあり、容易に他から意中の機関をのぞかせないところもあった。そうかと思うと、赤裸で、明けっ放し過ぎるような点もあり、その両面を知ると、人はなおさら「わからないお人よ」とよくいうのである。しかし、清盛の心の構造は、その両面の大広間のほか、なお幾つもの小部屋や開かずの間があったか知れない。
 それは清盛自身さえまだ全部は分かりきっていないのである。ただかれも年とるままに、やがてその年齢が、つぎつぎに、心の小間や明けずの問を開けて来ることとは思われるが −。
 こういう父清盛を、二十二の白面重盛が、たしなめたとは思われない。まして、一門浮沈のばあい、この一児の計によって、思慮を変えたり、動かされたりしているような観で、どうして後の太政入道相国などが存在しょう。あの六波羅風俗だの平氏文化の一時代がありえよう。
▲UP

■万に一つの脱出劇六波羅行幸″は平安朝の終焉を意味した

<本文から>
  このため、悪源太義平は、父の義朝に命ぜられ、急遽、一隊の騎兵をひきいて、二条大宮へ駆け出していたし、諸門の兵も、それぞれ動いて、鞍馬口へ備えを出すなど、あらぬ幻影の火の手に無用な心を労っていたものなのである。−主上の御車は、この間隙を縫って、じつに万に一つの脱出に、成功したものだった。
 世にこのときの陛下のいでましを六波羅行幸″と称んで、脱出とはいっていないが、事実は、もっともっと劇的であったにちがいない。こう事が運ばれるまでの裏面史は決して単純なものでなく、二条帝御自身も、一死を賭しての御決行であったろうし、さらに最大な運命を賭けていた者は、いうまでもなく、清盛であった。
 小技は不得手なかれであるが、こういう大技となると、かれならでは、やり手はない。こんな難局の大舞台を、いながら回転させ得るほどな力量の人物は、平安朝の幾世紀にも、この日までは、出づベくして出なかつたものといっても過言ではない。
 余談を述べすぎたが、以下、主上の御車が、ひとたび、皇居を脱して、六波羅の門へ向かうや、いかにそのことの結果が、時局に急激な転換をきたしめたか。また大弐清盛なる二流級人物を、一躍、時代の主動的人物にさせて行ったか。驚くべき変化を読者は読まれるであろうと思う。いわゆる「六波羅行幸」と称んで、史家がこれを重視する理由はそこにあるのである。何しろ、いろいろな意味において、平安朝という世代は、この夜の御車をさいごとして終わつたといえよう。藤原貴族政治四世紀の長い長い軌のあとを一切過去として、烏羽玉の現在を、さらに果て知らぬ未来へと、旋り急いでいたものであった。
▲UP

■頼朝の助命は、禅尼が政治を私する弊害の表れであった信西の頭角

<本文から>
 そして、やっと確定を見たのは、それからなお、一カ月の余も後で、正式な沙汰ぶれには、次のように見えた。
 一 義朝ノ子、前ノ兵衛佐頼朝事
 一 伊豆ノ国へ配流申シツケラル
 一 三月二十日、京師ヲ追立テ、配
   所ノ地へ、下サレ申スベキ也
 ついに清盛も、禅尼たちの乞いを、拒み得なかったものである。
 禅尼の慈悲心は、さだめし満足を覚えたであろう。諸天の仏菩薩は、かの女の善根を、散華礼讃してよいわけだ。
 ところが、歴史は、皮肉である。
 檻の中から、−陽の目を見て、やがて発芽した小さな生命が、伊豆の頼朝と成長して、関八州の源氏を糾合し、平家一門を脅威したのは、それからわずか二十年目だった。
 (禅尼は、過っていた)
 (清盛も、弱かった)
 (あの時に、頼朝をだに、生かしておかなかったら)
 史家はそういうし、世間も常識として、頼朝の生命一つが、やがて平家没落の禍因であったようにいう。
 しかし、ほんとは、平家凋落の素因は、助けられた頼朝にあったのではなく、助けた池ノ禅尼の方にあったものだといってよい。
 なぜなら、かの女の善行は、たしかに、良人を亡くして後も、貞潔を守った尼後家の慈悲心にはちがいなかったが、その代りにかの女の行為はそのまま「政治を私する昨日までの通弊」を、そっくり清盛の家庭に持ち入れてしまった。
 政治を血族間で私する″また政事と家庭の混同″ほど、かつての藤原貴族を、腐敗させたものはない。−その手法を、禅尼はまた、六波羅の新しい苗地へ植えてしまったのだ。せっかく、保元、平治の合戟と、二度までの犠牲をもって革められかけた新社会の様相も − 六披羅の使命も、意義の少ないものになってしまった。
 貴族政治をたおした平家が、ふたたび貴族生活を真似、一門の子弟がみな、蕩々と、早熟早落の開花を急いで、余りに惨い、わずか二十年の栄花に終わってしまったのも、じつに、六波薙政治の興るとたんからもう一個の尼後家が、組織の母胎に、約束づけていたものといってよい。
 だから、かりに頼朝が、助命されずに、十四歳で、斬られたとしても、平家の短命と、凋落は、必然であったろう。咲いては散り、熟しては落ち、歴史は法則どおりな興亡循環を、やはり措いていたであろうと思う。
 それと、もう一つ考えられる重大な問題は、清盛の真意にも、初めから充分、「頼朝ぐらいは助けても−」という寛大な気もちがあったに相違ないことである。
 池ノ尼から政治上の問題に口出しされたことは、かれを反撥させたに違いない。その弊害が前例になることを極力避けようとしたものだ。そのため家庭の内輪もめとしては、かれは頼朝の助命を断然うけつけなかった。「もってのほかな−」と怒ったのである。
 −けれどもし清盛がハラの底から頼朝を死罪にする意志ならば、禅尼の請いを容れないでもすむことだった。一族の大多数はみな助命反対なのでもある。たとえ頼盛や重盛が、尼に助言したにしても、清盛にも慈悲がない限り、頼朝の助命は見られなかったのだ。かれはいわゆる大きな腹の人だったにちがいない。その頼朝を、しかも源氏の地盤といってもよい−源氏の根拠地たる東国の伊豆に流しているのである。
 もし、かれの寛大が、本心からのものでなく、他から強いられた不承不承の助命であったなら、決して、頼朝を源氏の根拠地へ流すような処置は取るまい。西国へ配流を命じればよい。−それを源氏の地盤へわざわざ流した。− 平家のために失策といえば大失策というほかはない。が、清盛も敵将の遺した−少年に、心では憐懸を抱いていたのである。そしてかれらしい大腹中には大した懸念にもしていなかったものと思われる。
▲UP

メニューへ


トップページへ