吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     新平家物語(1)

■清盛が本当の父親を疑問に思う

<本文から>
「やめよう。やめてくれ。そのはなしは、けさからもうさんざんやりつくした。木工助も呼びつけて、胸いたむまで、やり合った問題だ。果てしがない。よしてくれい」
「では、証をたててください。わたくしの、身の証を」
「だから、さきほども、いったではないか。−平太清盛は、まちがいなく、わしとそなたの、子どもだと」
「平太!開きましたか」と、かの女は、するどく見て−「聞きましたか。そこを、郎党の木工助も」
「そなたたちは、めっそうもない陰口をいいふらす人びとではある。白河の上皇さまに御寵愛をうけたことは、かくれもないにせよ、八坂の僧を忍び男としていたなどと、もう二十年もむかしの古事を、いったい、たれがいいだしたのでしょう。−忠盛どのも、知らぬといい、じじの木工助も、知らぬといい張る。……平太や、そなたはまさか、母のわたくしへ、うそはいわないでしょう。いってごらんなさい、その下手人を」
「わたくしです。そのことなら、たれでもない、この平太です!」
「ま。そなたですって。……いやいや、子のそなたが、実の母のわる口を、いい出すはずはありませぬ。そこな、じじであろうが」
「いや、自分にちがいありません。……母上っ」
「ま。何という眼。その眼は」
「そのことを、乱そうとしては、いけないでしょうか。畜生の子なら、考えもいたしますまい。が、清盛は、かなしいかな、人間の子でした。……ほ、ほ、ほんとの、父親は、たれなのか、どうしても、わたくしは知りたい」
「あらわに、忠盛どのが、今もそなたへ、いったではないか」
「お慈悲です……おことばは。−清盛は、たとえ、ほんとの男親なる者が分かっても、ここにおられる父上を、父以外の者とは決していたしません。……けれど、もうこうなっては、あなた様へは、糺さずにおきません」
 清盛は、不意に、かの女の袖を、つかまえた。そして、ゆうべから涙にただれた限じりを裂いて迫った。
「仰っしゃい。あなたは、知っている。−わたしは、たれの子だ?」
 「ア、この子は、気でも狂うたか」
「狂うたかもしれません。父上が、世間に恥じて、こう長い月日、引き龍ったのも、あなたのためだ。あなたは、父上の大事な若い月日を奪った、おそろしい女狐だ」・
「なんですっ、母にむかって」
「母ゆえに、平太は無性に、あなたが痛にさわる。あなたが、穢らわしいんだ、いまいましくて」
「あれっ−わたしを、そなたは、どうする気です」
「撲らしてください。父上には、撲れないんだ。二十年もの間、撲れずにいたんだ」
「平太、ばちがあたりますぞ」
「なんの、ばちが」
「今は昔でこそあれ、この泰子は、かりそめにも、白河の君の御愛情に秘めいつくしまれた体ですよ。もし宮中にあれば、后、更衣とも、あがめられたかも知れないのです。それをこんな、あられもない町屋敷へ、妻にと、下賜されて来たことを考えてみたがよい。そのわたくしに、手をあげたり、辱めたりすることは、取りも直さず、上皇さまへの反逆です。無礼です。わが子とて、ゆるしは措きませんぞ」
▲UP

■母にのみ高い貞操を標準として憎んだ清盛

<本文から>
  いまの世の習慣からいえば、貴族社会でも、下層民でも、女の貞操は、ただ男のためにあって、女のための貞操ではなくなっている。一夫多妻は、あたりまえのことだし、物の代償に、妻を他の男へ与えたり、貴人の一夜の饗応に、未婚の女子をささげることなど、むしろ当然みたいに思われている。 − その代りに、女性もまた、享けたる女の身を、放窓に快楽し、女の一生を、ひたすら、自由な性愛の野に遊ばせて、ひとりの恋人や、良人や、乳のみ児の、ありなしなどに、顧みていない風潮もつよい。−それも男が女をこうさせているのだというように見せかけて−むしろ時代の自由さを、女の方が、逆利用しているほどにも見えるくらいである。
 だのに、なぜ清盛は、母にのみ、女の高い貞操を標準として、憎むのだろうか。そんな無理を−時代的に少ない例を−母の場合にだけ固執してみたところで仕方はあるまいに−と、これはかれにも、分かっていないことではない。けれど、子どもは母を、強いてでも、清らな女性、気だかい女性、純なる愛の権化とも、見たいのであった。いや、乳ぶさにすがって、幼いうわ目づかいに見まもってきた母なるひとは、たしかに、そう見えていたのである。長じて、もの習びし始めてからでも、たれも母を、汚い女とは、教えもしなかった。それが、卒然として、一個の、淫らな肉塊でしかなかったと分かったとき、清盛は、腹が立った。母の不潔が、自分の不潔に思われた。それまで、貧しくも、伊勢平氏の父と、清らな母の血とをもって、自分のなかに脈持っていると信じていたものが、急に、どろどろな宿命の物質みたいに思われてきたのである。
 あの遠藤盛遠から、初めて、母の実体を聞かされた晩に、かれは、惜しみもなく、遊女宿の女へ、二十歳の童貞を、うっちゃるように、くれてしまった。自己へのさげすみは、母へのさげすみであった。あれからのかれは、自分の血と肉とに、こんなもの−−−という軽蔑をつねにもっている。
 それが、青春の放埼へむかって、いつでも、崩れんとしているのを、何かに、あやうく支えられてぃるだけのかれにすぎない。父ならぬ父忠盛の愛が支柱であった。あのスガ目のひとの大愛と長い忍苦を考えると、かれは、素直に返らずにいられなくなる。その人を真実の男親と思い、よい子になって、身も大切に持とうと思う。
▲UP

■600年も続いた山門の強訴

<本文から>
  世にいう、山門の強訴とは、つまり山門大衆の、示威運動にほかならない。
 数千の荒法師や神人が、隊伍を組んで、入洛し、自己の要求を押しつけるため、朝廷や、摂関家へ、押しかけてゆく。
 この場合、南都(奈良)の大衆だと、春日神木と称する大榊を、先頭に持ち出し、叡山では、日吉山王の神輿をかつぎ出すのを、常套手段としている。
 で。−南都のそれを榊振り″といい、延暦寺のそれを神輿振り″という。どっちも「絶対なるもの」の標識である。
 これを、禁門に、振り込まれると、天皇すらも、階を下りて、地に、遥拝しなければならない。公卿百官も、衣冠を低うして、下座につかねばならない。いわんや、武者どもは、弓を伏せ、かりそめの弦鳴りすらも、慎まねばならない。−というほど、絶対なものだった。
 円融天皇の天元年間から、後奈良帝までの、約六百年ほどの間に、強訴の行われたことは、実に、二百回をこえたというから−その効果も、いかに覿面であったかがわかる。
 とはいえ。
 これが、庶民のためだったことは、一度もない。ただ、時の社寺大衆という、一部の我意と、山の擁護に過ぎないのだ。
 朝廷あり、政廟あるうえに、なぜまた、こんな超特権をおいてしまったものか。−おそらく、時の、あわれな庶民たちにも、わけが分からないことだったろうし、後世の社会にとっても、ちょっと、理解し難い、ふしぎな世態であったというしかない。
▲UP

■清盛が神輿に矢を放ち迷信を破る

<本文から>
 「あはははつ。……あははは。やよ見ろ、安芸守清盛は、気が狂うたのだ。−気が狂うて、来たとみゆるぞ」
「だまって聞け。法師どもっ」
 清盛は、声を張るのに、満身を揺すった。まるで、熟鉄の上の水玉のように、頼、あご、耳のうらから、汗の玉が、散るのだった。
「狂気か、正気かは、気をしずめて、なお、おれのいうところを聞いてからにしろ。− 日吉山王の神輿も聞けよかし。およそ、神だろうが、仏だろうが、人を、悩ませ、惑わせ、苦しませる神やある仏やある。あらば外道の用具に相違ない。叡山の凶徒にかつがれ、白昼の大道を押しあるく、なんじ、日吉山王の神輿こそ、怪しからね。幾世、人を晦まし、迷わせて来つらんも、この清盛を、たぶらかすことはできぬぞ。−喧嘩は両成敗ぞ。覚悟せよ、邪神の興っ」
 あ?−と、うろたえの表情が、無数の面上をかすめたとき、もう清盛は、弓に央をつがえ、キ、キ、キ……と、満をしぼつて、神輿へ、鏃を向けていた。
 横川ノ実相坊は、おどり上がって、頭から火を出すような、大喝を放った。
「あな、無法者っ、罰あたりめっ。−血へどを吐けて、死ぬのむ知らぬか」
「血へど? 吐いてみたい!」
 びゆんと、一線の弦鳴りが、虚空に、聞こえたとき。−矢は、サッと、風を切り、神輿のまん中に、突き刺さっていた。
 −とたんに、狂せるような諸声が、二千余人の荒法師の口から揚がった。自丁の神人たちも、とび上がって、何やら口々にいった。突くが如き声、怒る声、傷む声、戸まどいの声、放心の声、悲しむ声、吠−える獣のような声。声、声、声の一つ一つに生きものの感情がどぎつくほとばしっていた。
 古来。
 どんなことがあっても、神輿に、央のあたった例しはない。また、神輿の大威徳を冒して、矢を向けるばかもないが−もしあれば、矢は地に落ち、射手は立ち所に、血ヘドを吐いて、即死する。
 −こう、かたく、信じられていた。
 ところが、矢は、神輿に刺さった。
 清盛は、血ヘドも吐かず、なお、立っている。
 迷信は、白日に破れた。それは迷信利用の中に、生活の根拠と、伝統の特権をもっていた山門大衆が、赤裸にされたことでもあった。かれらは、狼狽と、おどろきの底へ、たたきこまれた。
 しかし、祈?のきかないことを、たれより知っていたのは、祈?する者たちいでもあった。− 大衆を指揮する大法師たちは、大衆の幻滅と狼狽を、すぐかれらの怒気へ誘って、
「やあ、希代な痴れ者っ。そこな外道を、取り逃がすな」
と、暴力を、けしかけた。
 うわつ……と、襲いかかる荒法師の長柄の光や、土ぽこりや、神人たちの棒の雨の中に、清盛の姿は、たちまち蔽いつつまれて、見えもしなくなった。
▲UP

メニューへ


トップページへ