吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(8)

■死した正成と対面した尊氏

<本文から>
 「さむらいの本懐だ。ほかは」
 「同時に、建物へ火をかけて、刃に伏したことなので、これなる師業が、正成の遺体を、そとへ取出すのもやっとであったような次第。……詳しくは、追ッつけすぐ、赤松や細川が、御報告にまかるものとぞんじます」
 直義は、首包みを抱いて、すこし前へ進み出た。
 重そうに、下へ置く。
 戦陣勿忙のさいだ。首は武者の母衣で包まれ、血糊が.にじみ出している。
 それを解いて、直義は右手で首のもとどりをつかみ、左の手を母衣の下へさし入れた。そして、片膝立ての体をななめ構えに、首級をささげ、吃と、尊氏の熟視に供えた。
 「…………」
  尊氏は、見た。
 息をつめている。そして、ひらいていた床几の膝も小さくすぼめ、両の手はただしく膝においていた。顔にはなんの感情の色ものぼっていない。無常感、それでもないようだ。ただマジマジと見入りながら、もう一言も交わすことのできない物質にたいして、何か、味気ない空しさでも抱いてるような彼に見える。
 生前、しばしば会うことはあっても、親しい往来などは、ついぞなかった正成との仲だった。そのせいの無表情なのか。
 それにしても、これほどな戦果を、これほどな名誉の首を、何と御覧あっているのか? 御満悦ではないのだろうか? 直義もそうだったが、ほかの面々も、みな、尊氏の口もとばかり見つめていた。
 「むむ! よい」
 やっと、尊氏はうなずき終った。そして、
 「こよいは、ここに置け。なおまた、白木の首台を設えさせて、ていねいにいたしておけよ」
 と、言いたした。
 しかしそれからは、いつもと変らない尊氏だった。
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■尊氏の和議を後醍醐は了承

<本文から>
 −天下の成敗は
 公家に任せ進ら
 せ候ふべし
 と、まで書きむすんでいるのである。が、もとより後醍醐は、尊氏の勧告を、その文字のとおりには決して御信用になってはいない。−−いまの窮状ではこれをただ一つの活路と見、これに応ずる以外に再起の道はないと、深く、しかも密かに、御決意の臍をき物門いたものだった。
 和睦の運びは、じつに、秘密裡であった。近側ですら、その日にいたるまでは知らなかったほどである。
 なぜ。というに、武家の奏上では、戦況は概して悪くない。われにも損害は多いが、敵にも、より以上の打撃は与えている。兵糧の欠乏も同様で、敵もやっと掠奪で食いつないでいるのが実状だから、とうてい、この冬中は越せっこない −
 こんなことのみ聞かされているのである。だから侯爵のなかにも、なお信じている者が多かった。わけて坊主の清忠、洞院ノ実世などは、そのコチコチであった。
 −しかし後醍醐は、かならずしも、義貞の奏上だけにたよって御判断はくだしていない。さすが大局を観とおして、とうに、第二のだんどりを御心のうちにえがいていたのである。
 その結果、
  和議了承
 の御返事を、密々に、尊氏へおこたえになられたが、なお思円僧正を介して、
  還幸は十月九日
 下山の龍駕には、尊氏方からお迎えの軍勢が途中まで出ていること。等々々の手筈まで、一切、課し合せもつけておられたのだった。
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■尊氏は後醍醐に武家の世を宣言する

<本文から>
  「だが、尊氏」
 「は」
 「それなればなぜ、そちは早くも約束をやぶったのか。思円僧正を介しての、そちの上書、誓文とは、事ごとに約が違うているではないか」
 「ここの御待遇の儀でござりまするか」
 「それのみでない。條が還りさえすれば、侍側の公卿、供奉の輩も、なべて過去を問わず、みな元の本官本領に復すとそちは申し出ていたはずだった.」
 「そのことは、弟直義に、よく申しふくめてありまする。じつは、日ごろから、諸政軍事にわたるまで、煩墳のあらましは、直義にまかせきっておりますので」
 「いや、膿は、尊氏の和議を容れてこれへ還ったのじゃ。直義が対象の人ではない。しかるに、囚人にひとしいこの扱い。これでも約を違えておらぬというか」
 尊氏は、お怒りに逆ろうなく、あくまで低く。
「申しわけございませぬ。じつのところ、私すら眉をひそめたことでございました。さっそく、直義に申しつけ、近習もおそばに添えまいらせ、調度、火の気、供御の物、ご不自由なきようにいたさせまする」
 「いや大事なのは向後の約だ。そちは軍事から政治向きまで、東直義にゆだねて、多くは自身あずからぬようにいうたが、そちの約定によれば、天下の成敗は公家にまかせ邁らさんと、明記しておる。その儀と、矛盾はせぬか」
「もちろん、違背はいたしません。けれど、東国の草創より起った古源氏の裔、尊氏の寸心にも、ひとつの信条がござりまする。そして直義はもとより、足利一類の族党から志に大同して来た諸国武士どもの希望もまた、ことごとく、それの具現にありますゆえ、もし中道で、尊氏が初志を曲げるなれば、この尊氏を仆しても、第二の尊氏、第三の尊氏が出て、あくまで、それを世に果さんとするでしょう」
「武家大同の、その望みとは」
「申すまでもなく、基礎を武家におき、武家によるよき代を招来せんものとしております」
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■後醍醐は吉野に入って南北朝がはじまる

<本文から>
  どんな偽装をもって、どうして逃げおおせられたものか。尋常一様なる御手段であったとは思われない。
 「天野金剛寺古記」によると。
   二十三日
 帝王、賀名生に御着
   二十八日
 青野金峰山に入御
 と、見える。雪やあられの、厳寒の道を落ちて行ったものにしては、おそろしく日かずも早い。おそらく馬で飛ばした所も再々であったのだろう。
 そして、経路から考えるに、途中では、和田、楠木などの残党がお迎えして、葛城山脈を南へ越えてゆかれたものと想像され、紀州へ入ってからは、土地の官方、三輪の西阿、真木定観、貴志、湯浅党などが、前後を厚くおかこみして、山上の蔵王堂へと、一時、ご案内申しあげたのではなかろうか。
 いずれにせよ、これらの手順だの吉野大衆との交渉は、あらかじめ、北畠親房や四条隆資らが、運びをつけていたもので、さらにここから、高野へお選りの議もあったが、その議は止み、ここ吉野の山上を、以後、
 吉野朝廷
 の地と、さだめられることとはなった。−いわゆるこれが、南朝である。−それにたいして、京都の朝廷を、北朝と、世人はいった。
 京都では、暮の二十九日、なんとなく殺伐な気の失せない中にも、一道の平和らしさが流れていた。尊氏の母堂やら妻子脊属が、丹波から迎えとられて、都入りしていたのであった。
 年は明けた。
 北朝の、建武四年
 南朝では、延元二年
ことおかしなことだが、こう真二つに、ひとつ国土が割れ、二つの年号を称え、それぞれ異なる正月を迎えたのだった。
 日本の分裂症時代、南北朝≠ニよばれる崎形な国家へ突入して行った年を、この春とすれば、以後、その大患はじつに、五十七年間もつづいたのである。
 これまでで、もうたくさんであったろうに、まだこの先、いぜんたる血みどろやら謀略の抗争を半世紀もやりつづけなければならないとは……。
 たれが予想したろうか。
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■南北朝は誰も予想しなかった。尊氏も後醍醐も誤算

<本文から>
 たれもそんな予想はしなかった。願ってもいなかった。
 だから生きてもいられたし、各ゝが我意、主張を固執してもいられたのだろう。もし、そんな未来とわかっていたなら、たれにせよ、虚無か、出家か、でなくとも、生きのほこりなどは持てなかったにちがいない。
 後醍醐にしても。尊氏にしてもである。
 わけて尊氏などは、自分の画策と、事の結果とが、
 「こうも、思いのほかに、変ってくるものか」
 と、その年の初めに、その一年の未来さえ、分らない気がしたであろう。
 後の史家には、後醍醐と尊氏との講和を、どちらも、謀略と謀略との、だまし合いであったと説く者もあるが、後醍醐とて、初めから、好んであんな冒険的な脱走をもくろんでおられたものでは決してあるまい。
 もし、吉野落ちが、初めからの計画であるならば、わざわざ、その御一身を敵の足利軍にゆだねて、都へ還る必要などがどこにあろう。
 あれほどなお覚悟を以てするならば、叡山の行宮から、直接、吉野へ入ることは易々たるものであったはずだ。やはり尊氏との政治的交渉に、大きな御期待を寄せていたからにほかならない。
 それがである。ついに、龍は雲を呼び、雲は龍を乗せて、政治圏外の、絶対地へ去ってしまった。
 尊氏にとっては、大きな痛打であったし残念でもあったろう。彼はもう血みどろにあきあきしていた。血が万事を解決しないことも知っていた。
  もっと彼の心に重量をしめていたのは、いまの優位のままあとは政治的な進展に乗せて行こうとしていたことだった。−それが破られたのである。−直義以下の大勢を前にして、彼はあのような度量のひろさをみせてはいたが、じつのところ、落胆は深かったろう。そして、ことしも来年も、また来々年も、なおまだ、不安定な幕府の発足と、戦いの連続をも、胸におかないではいられなかった。
 「……自分の意志ではなく、しかも、自分の意志かのように、周囲はあらぬ方へ動いてゆく……?」
 彼はふと懐疑する。大いに悩む日もあった。しかし彼にはこの頃、ひとつの慰安の場がなくもなかった。家庭が担っていたからである。
 丹波の梅迫から迎えられて、以後、都に定住となった尊氏の家族は、家来や侍女たちもいるし、なかなかそれは大人数だった。
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■後醍醐の死

<本文から>
   臣も忠烈の臣に非ず
と、さいごの輪言を残され、そして左の御手に、法華経ノ第五巻を持ち、右の御手には御剣を抱いて、おかくれになったとしている。
 これは、すさまじい御遺言の形相で、いかにも、さもあったらしく思われぬではないが、後醍醐は、古代東洋の学問に深く、宗教の面でも、なまはんかな仏家よりは、はるかな諦観を積んでおられたはずである。なんで死にのぞんで、世まい言にひとしい妄念を−苦しい御息の下から吐き給う− などのはずはない。「太平記」の舞文に過ぎない。
 おそらくは、その寛達で豪毅な平常と教養からおしても、
 これまでか
 と、大死一番の死を観ておられたことと思う。
 たとえ、大業ツイニ成ラズ−の御無念はあったにしろ、死んでも魂塊はつねに京都回復を望んでいるとか、自分の命にそむく天子は、天子も天子でないの、臣も忠義の臣ではないなどという、そんな妄想じみた御遺言をなさるはずはない。
 さいごの、おん瞼に、あらゆる人々との別れを、しずかに、ただよわせたときには、後醍醐もただの一個の生命として……
 すまなかった
 と、身に併せて、生きとし生ける者への御誦念をお唇にもったものであるまいか。
 わけても、乱世下においた、無数の民にたいしてである。
   身にかへて
   思ふとだにも
   知らせばや
   民の心の
   治めがたきを
 かつての御製には、そうした歌もみえている。王政一新の理想にしても、民を基盤としてのみあることだ。かならずや死に臨んではお胸にわびておられたにちがいない。
 ともあれ、帝王として、また父として良人として、その死は、おおかたの人間とも、さして変ることはなかったであろう。ただ天皇のばあいは、その意志による御生涯の波及するところが、余りにも大きかったのはぜひもない。
   青野山
   蔵王堂の艮なる
   林の奥に
   まろをか
   円丘を高く築いて
  北向きに葬りたてまつる
 −かくて、御一代の業は終った。・そしてその土墳は、あとに残った旧臣后妃の涙に濡れた。
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■師直は女色をなめずり出した

<本文から>
 だが、師直はやや違う。すくなくも尊氏から、
 「この男」
 と、信じられているほどなものはあった。何を持って行っても、あらましはそれをしりぞけて受けつけなかった。しいて押しっけてみたところで彼には置いて行き損≠ナしかないと分って、その点、
 「高の殿は、きつい御潔癖だの。二ガ手な殿よ」
 という定評が、定評となっていた。尊氏もこれは知っている。家宰としての師直の縦横な才腕をのぞいても、そこだけは高く彼を買っている所以だった。
 けれどこの師直にも好き≠ヘあった。女色である。「われにはゆるせ−−」で、彼はこれを隠そうとしていない。
 ゆらい彼は醜男だった。木像蟹の名さえあったほどである。女にもてたことのない醜男の胸中には、若年から人知れぬ鬱積があるらしく、師直の胸中にも多年「……時をえたら」とする念がひそんでいた。時をえたら俺でも女にもててみせるぞ、という女への復讐にも似た悲壮なる欲念だった。そして今日の彼は、その時に会し、その権勢をもち、また多少の閑をえていた。
 そこでこの小康時代に、彼は露骨にあたりの女界を観て、思うさまな女色をなめずり出した。
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■尊氏は弟・直義に敗れ和解。師直、師泰を引き渡す

<本文から>
  しかし、教書の反応はほとんどなかった。この論告はかえって尊氏の窮地をまざと響かせたものとみえ、逆に、直義の方へ奔る者が多かった。斯波高経、今川範国、二階堂時綱、小笠原政長、上杉朝定、同朝房。
 そのほか、南流して去る兵旗ばかりである。
 山名時氏のごときは、きのうまで尊氏の下にいたのに、この趨勢を見ると、尊氏を離れ、一夜、とつぜん直義方の八幡の陣へ投じてしまった。
 「こんなものか?」
 泡のような嘆きが尊氏の胸に消えた。これまでにしてきたこと、見つけていた人間の顔、すべてが信じられなくなった。いや洛中にいることすらがすでに危険になっていた。
 「ぜひもない」
 一時、都を退いて、陣容をたて直すときめ、義詮や師直と共に、尊氏は丹波へ走った。そしてまた播磨の書写山へ移り、そこで石見から馳せつけて来た高ノ師泰の一軍とひとつになった。
 細川顕氏が反いて窮地の尊氏をさらに窮地におとし入れたのは二月十四日だった。四国もついに彼から離れたのである。
 「顕氏までがか?」
 尊氏は耳を疑った。−師直、師泰にたいする反感が、顕氏までを敵側に走らせたものであると分っていたが、それにせよ今はどこも四面楚歌である。腹をすえる時だと思った。
 「道は一途。このうえは直義と話がつくか、さなくば、一戦もぜひあるまい」
 書写山のやしみを破って、十七日、師直、師泰の兵を先手に、兵庫へ出、さらに御影街道へと、怒りの奔流を見せていた。
 が、それあるを予期していた畠山国清、石堂頼房、小笠原政長らの軍に待たれて、尊氏以下は、打出ケ浜でさんざんな苦戦にまみれた。−師直、師泰もこの日に負傷し、疲労困債のかたまりのような残軍を湊川まで引いて、残る将士をかぞえてみると、蓼蓼、一千にも足りなかった。
 尊氏が、自決をかくごしたといわれたのは、このときではなかったか。
 彼はいくども死地に陥った経験をもち、同様な噂を何度もこれまでの経歴には持って来ている。だが彼は本心から自刃を考えたことは一度もない。彼は物の終りという考えを知らないのだ。追いつめられた運命のどたん場にはなおその括機が働くのである。禅がものをいうのかもしれなかった。自意識でなく現実の自己は突っ放している。そしてほかに何か寸秒の転機でも待つかのような無表情をただその顔に持つだけだった。
 すでにどこかで、この晩あたりは、夢窓国師の和解の斡旋が、おこなわれていたのである。が、尊氏は知っていない。しかし彼の考えついたことも、直義との和睦であった。−夜半、旗本の饗庭氏直は、彼のむねをおびて、直義のいる八幡へ馬をとばして行った。あとの尊氏は、魚見堂で眠りについた。
 なぜか、この魚見堂で眠るときは、いつも彼の運命は巌頭にあった。筑紫落ちの前夜、また九州から再東上の日、そして今夜 −
 「真光寺の墓は、どうしたろうな?」
 自分の手で弔ってやった正成の首が彼の瞼をたゆたわせていた。すがすがしい一個の生命は眠りの中で思ってみても寂かな池の花でも見ているようで気もちがいい。いまだに地獄の火坑から脱け出られない自分にかえりみて羨しかった。
「おう、そういえば、右馬介もあれきりわしの許へ戻って来ぬ」
 むしろ彼のためには、それがよかった気さえして来る。幼少から自分のもり役として仕えてくれた右馬介がもしここにいて、この君臣相剋の乱脈やら父子兄弟の戦いなどを見ていたら、彼は身をおくに所もなく、発狂していたかもしれぬ。
 響庭は一日おいて帰って来た。講和はいれましょうと直義は言っているという。
 当然、条件が提示されて来た。師直、師泰の引渡しだった。それが主である。だが、尊氏にはこれが呑めない。そのため、相互の使者の往返が三、四度にもおよんだ。結局、師直、師泰は高野山へのぼらせて生涯を出家遁世に終らせる。これなら尊氏は二人へ告げて観念させることができるとしたのである。
 直義は容れた。
 「さっそく、御自身、両名を伴って、連れ上っていただきたい」と。
 直義との再三な交渉のすえに見た和解の条件を、親しく尊氏から聞かされると、師直は、不敵な日ごろの顔も失くして、その温情に泣いた。
 「それがわが君にとって残されたただ一つの活路とあるなれば、何で私に異存ございましょう。よろこんで頭をまるめ、いつの日か、ふたたび出て来いとお召がかかるまでは、きっと遁世をよそおってよき日をお待ち申しておりまする」
 そして彼は彼で、弟の師泰を切になだめた。ここは辱も我慢も忍ばねばなるまい、死一等を減じられただけでも僚倖とせねばならぬ、と。
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