吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(7)

■六波羅奉行の頃から九州は尊氏に好意をもつ

<本文から>
  余波はすぐ九州へもおよび、博多の地に過去十年余の業績と人柄を称えられていた九州探題の北条英時も、たちまち、四面楚歌の包囲中におかれ、鎌倉滅亡の日からいくばくもない、当年の五月二十五日、館に火をかけ、自害して果てた。
 じつに、怪しいのは、こんなときにおける人のうごきで、先には、探題実時に与して菊池寂阿を自滅させた少弐妙恵と大友の入道具簡も、こんどは、阿蘇、菊池の諸豪に伍して、共に、探題攻め包囲軍中にいたのである。−−白楽天のことば−行路ノ難人山二モアラズ水こシモ非ズ、タグ人情反覆ノ間二在り−という事実を人々は目のあたりに見たことだった。
 だが、市井の目が、そのまま真相を映すかといえば、これもそうとはかぎらない。
 激動中の表裏には、怪奇複雑なかけひきやら、政治的な離合なども、さまざま、波の底にはおこなわれている。
 一時、菊池党と結んだ少弐、大友の二党も、やがて建武新政の両三年を経て来るにしたがって、いつかまた、水と油の反目をみせだしていた。
 元々、九州九カ国の諸家は相譲らぬ対立を持していたし、またとくに、少弐、大友の二氏は、菊池党とはまったく違う時勢観と利害の上にも立っていた。
 それというのも、ひとつには尊氏の遠謀だった。少弐、大友などが、尊氏と密盟を持ったのは、きのうや今日のことではない。まだ尊氏が六波羅にいて、六波羅奉行の腕をふるっていた建武初年の頃からであった。
 当時、都に在番の少弐、大友、島津らの子弟はみな、
 「足利殿の人物は大きい。新田殿とは比較にならぬ」
 と、帰国の都度、郷党の者へ語りつたえる風だったのである。
 もちろん、遠謀に富む尊氏は、そのころから筑紫諸党へたいしては、かくべつ政治的便宜をはかり、またあらゆる好意を送っていた。で事々、筑紫の武族間には、
 「なるほど」
 と、こころよく受けとられ、同時に、
 「さすがは、赤橋殿の妹智、うわさのごとく、なかなかな器量人か」
と、衆望の観るところにもなっていた。
 ゆらい疑い深いのは武族間のつねだ。それが未見の尊氏へ、どうして、こうつよい信頼を九州では高めていたのか。
 もっとも、これまでに、彼らの尊氏観が固まってくる根底には、それとの結び付けとなった重要な前時代の前提がないではない。
 何かといえば。
 その胚子は、すでにこの地で亡んでしまっている前の九州探題北条英時が蒔いておいた徳望だった。
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■尊氏の出陣の辞

<本文から>
 いわゆる出陣の辞≠以て、こう励ましていたのである。
 「−敵の主たるものは菊池党と阿蘇、秋月の二、三党にすぎぬ。が、九州はひろいのだ。筑紫九カ国は数十党のカと地盤のうえにたもたれている。−従来、わが足利家の教書に誓いをなしきた家々は十党二十党の少数ではなかった。−しかし尊氏の下向と、菊池方の進軍の急なりしため、心ならずも一時菊池の魔下につくとみせて機を待つ者、あるいは、間道に立ち迷っていまだここへの参陣を見ぬ者など。−それらはみなあしたの味方よ。申さば、この一勢は少ないが、九州地下水の呼び水なのだ」
 と、説きすすめ、
 −建武いらい武家はむかしの下種とみなされ、公卿専横の御支配もすでに腐爛の状にある。みちのく北陸、五畿、山陰山陽、武家の不平の声なき所はなく、九州とても鬱勃は久しかろう。−それらが挙げて尊氏を迎えぬはずはない。−が、それもただ呼び水のわが一軍の意気如何にはかかっておる。みなに誓う。尊氏は引く地を持たず、勝って生きぬく道のほかに生きてはおらん。しかし一条その道は明るいぞ、ここから博多までのあいだに、みなの運も、わしの運も、また、天下いずれに傾くかのあしたもきまる! 生き抜こう! 死にもの狂い、死中に入っておたがい翠えある生を剋ちとろうぞ」
  といって結んだ。
 粛と、すべての顔が、光る眼を持って、聞き終った。
 出陣の辞はままある例だが、こんなにも長くまた熱をこめて尊氏が言ったなどの例は、左右の将ですら覚えがない。
 第一、尊氏はなかなか急を見ても腰をあげないたちだし、よほどでないと、乾坤一柳といったような大勝負には出ないほうの人である。−だから尊氏をよく知る者ほど、この出陣の辞には、胸をうたれたし、そしてひどく気負ってもいないことばの正直さにかえって駈引のない覚悟をも、ひきしめられた。
 事実、その言は決して彼の希望的な観測だけのものではなかった。少弐頼尚の意見をきき、また諸情報の綜合などからも、尊氏自身、かたく信じていたのである。
 で、じつにわずかな小勢にはすぎなかったが、
 わああッ……
 と、出足のとたんには、武者声をふるい揚げ、たちまち、後ろを見ない鉄の怒涛となっていたものだった。
 許斐山を越えると、道は西郷ノ庄を望んで展け、右の山切れにほ、折々、水平線低く、玄海灘が壁画のような顔をあらわし、強い北風もしばらくは後ろの峠にさえぎられる。
 「オオ明け近いぞ」
 まだまっ暗だが、玄海の沖には、旭日の微光が映し、そしてこの頃からの参加者だった。
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■尊氏の九州平定は薄氷の上どころではなかった

<本文から>
  九州平定のいくさも終ったある日のこと、その大友具簡が、尊氏の侍憎日野賢俊にむかい、つくづく慨悔して、こう述懐したというのである。
  −じつ申せば
  われ始めのほどは
  到底、勝戦なきを思ひ
  ひそかに
  将軍(尊氏)を討たむもの
  とちかひ居しが
  そのをり将軍の形質を看たるに
  面容優長にして
  げに大人の風貌備はる
  天下の器として
  この人、何の不足かあらむと
  即座に幕下たるを決したるなり。
  云々と。
 これでみると、立花城にとどまって足ぶみしていた大友たちの腹は、まだ決して尊氏一辺倒だったものではなく、次第によっては、尊氏を掠り籠めて、おのれが、菊池党以上の勲功を一挙に揚げようという二の足掛けていたものであったらしい。
 この一話は、じつに当時の物騒きわまる九州武族の腹の底をよく打ち割ってみせてもいるし、また彼らが、尊氏の九州下りをいかに待ち、いかに観たかの、好実例といってよい。−尊氏にすればまったく薄氷の上どころではなかったのだ。
 ゆえに、もし彼が消極的な大事をとって、立花城に籠るようなことだったら、具簡らにも「およそな者」とその器量をみくびられて、逆な悲命を招いていたかもしれなかった。−といって、そこまで複雑な人心のけわしさを尊氏がよく看破していたというわけのものではなかろう。尊氏にすれば、すでに身を九州の一角においた以上、そう出る積極以外、勝機をつかむ途なしと信じていたまでのことだったにちがいない。
 やがて。
 一郭での軍議はすぐきまった。
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■尊氏の政略

<本文から>
  あくる日、尊氏は、直義や日野賢俊をつれて、内山の有智山寺にのぞみ、少弐妙意の霊をねんごろに弔った。
 法会につらなった筑紫の諸将は、犠牲者への心からな傷みを尊氏の姿に見て、「−このような将軍へなら、身の将来をこのひとへ託しても悔いはない」と、みな尊氏への信頼を一ぱい深くしたようだった。
 わけて、少弐頼尚は、
 「かかる破格な御供養をたまわり亡父には死花が咲いたようなもの。さだめし地下でよろこんでおりましょう」
 と、法会がすむと尊氏の前で感泣していた。
 けれど前夜いらい、尊氏が喪に服して「魚鳥を口にせず」としていたため、なんとなく、陣中、士気も揚がらないふうだった。
 で、頼尚はその夜、尊氏の営所へ、わざと鮮魚や野鳥の一ト籠を献上に持って出て
 「十二刻(一昼夜)の御別行(服喪)だけでも、このさい過分至極なのに、もしお体にでもさわっては一大事ですし、また、陣中どことなく鏑沈のていにもござります。なにとぞ、ご服喪は今日一日だけのこととして、おすましを願いまする」
  と、進言した。
  尊氏は、聞いて、
 「それも一理」
  と、うなずいた。
 そこで、彼が持ってきた魚鳥をさかなに、杯を用意させ、
 「諸将、兵士の端々にまで、こよいは酒をやって、喪は一日かぎりと、触れ直せ」
 と、その夜は、精進落しの酒宴を開き、彼も大いに酔ったということである。
 これなども多分に尊氏の政略だったにちがいない。武将尊氏であるよりは、彼はつねに政治家尊氏であった。またそこに、より彼らしい真価もみられる。
 多々羅の一戦などでも、単騎奮迅の猛は、決して、彼のよくしたところではない。
 −が、大友具簡らの油断ならぬ老武族のこころをもよくつかんで、博多から太宰府に入ったあとでも、いか.にそれらの他郷の他人≠ナ−そして勇豪な一九州人を心服せしめうるか。それに心をくだいていたあとがみえる。
▲UP

■正成は策が用いられず死を決意した

<本文から>
「はい、正成が申しあげたい儀も、一にその作戦のほかではございません。まず、結論からさきに申すなれば、急遽、ここの皇居を、もいちど、都の外に遷し、主上には叡山へ御動座あらせられますよう、伏しておすすめ申しあげます」
 はばかりなく、こういう言を吐くときの彼は、まるで別人の観がある。公卿たちにはそれが、身のほど知らぬ臆面なしに見えもしたろうほどだった。
「なに」
 と、はたして、後醍醐には、
「では、都を空け放して、ふたたび、叡山へこもれと、そちは申すのか」
 と、すくなからぬお驚きと、またありあり、ご不満な御気色だった。
「さようでございます」と、正成はいよいよ、ことば静かに。
「−ここ幾日、させざま按じてみましたが、尊氏に勝つには、それしか、よい戦法はありませぬ。まずいかなる作戦や今日にいたっては、彼の強大を打破るわけにゆきません」
「なぜか! なぜそのように尊氏を恐れるのか」
「さきにも申しあげましたように、彼には時運が幸いしており、その人の和、地の利、天運のよさは、恐れずにおられませぬ」
 「地の利? 兵庫は味方にとってさほど不利か」
 「兵庫とはかぎらず、いずこにてもあれ、このさい、彼の大兵をふせぎ得る地はありますまい。− なぜなれば、お味方には、まったく、水軍の御用意がないのです」
 「いや、尊氏を九州へ追い落したさいには、わが方にも優勢なる水軍があったはず。それらは今日、どうしておるのだ」
 「あの折、もし新田殿が、都へのご凱旋などなく、筑紫までもと、尊氏を追いつめて行きましたなら、御勝利は確たるものとなっていたでしょう。……しかるに、惜しいかな、敵に時を与えてしまいました。……ためにまた、官方の船手もすべて各自の国々へ離散し、今日ではもう招いても、召にこたえて来る船はありませぬ。せめて、熊野の水軍でも、ご加勢にまいればと存じますが」
 「来よう。かならず、熊野の船手は」
 「いえ、そのような不確かなものは、戦略の上に悼んでもいられませぬ。 − むしろ、ここは御聖断が第一です。わざと尊氏を都の内へひき入れ、われらは摂河泉の糧道を断ち、また、新田殿や千種殿は、京の山々に拠って、ときには出て戦い、折には引き、洛内の敵に、安き眠りも与えぬなら、やがて足利勢も、もがき出しましょう。自解をおこしてくることは明ら′かです。必勝の策は、これ一つしかございません。なにとぞ、御英断を願わしゅうぞんじまする」
 すると公卿たちのあいだで、このとき、
 「もってのほかな!」
 露骨に、反対した者がある。
 坊門ノ清忠だった。
「一戦にもおよばず、敵に都をあけ渡せとは何事か。察するに正成は、戦場へ立つのを厭うておるな」
「こは、なさけない仰せを承るものです。坊門殿には、さいぜんからの正成の言上にお耳をそらしておられましたか」
「だまんなさいッ廷尉。たとえ魔の軍汚請い那榔の王軍が行くところ、なにほどの抗戦い差しえようぞ。−かつて蒙古の襲来の外兵十万を、博多ノ浜に葬ッた例しさえある。−それを、尊氏来るの凧騒に怯え、たちまち都を空にして、みかどの蒙塵を仰ぎなどしたら、それこそ、いよいよ武士どもを思い上がらせ、世の物笑いとなるのみだわ。……愚策、愚策」
 と、清忠は肩をゆすッて笑い、そして列座の千種忠顕や四条隆資らと、ふた言み言ささやきあっていたふうであったが、やがて、その居ずまいを、こころもち玉座の方へ向けて、
 「おそれながら」
と、筍を正して、奏上していた。
「王師ニ天命アリ、宜シク外こ防ゲ−とは古来の鉄則かとぞんじまする。−事ただならずとは申せ、三軍はまだ健在ですし、金吾義貞も、前線にまかりおること。さだめしその新田とて、頚勢の恥をすすがんものと、心をくだいておりましょう。− さるを一廷尉の言をおとりあげになって、御動座などあらせられたら、王軍の将士は、それだけでも戦う気力を失い、ひいてはお味方の違和を大にし、敵を利するばかりのことかとぞんじられまする」
 「…………」
 いずれを採るか。後醍醐はお迷いらしい。
 しばらくは、仰せ出でもなく、公卿たちの説に、お耳をかしておられた。
 千種、四条、中院ノ定平ら、あらましは、清忠説を支持してやまなかった。−正成の言を「なるほど」と、素直に聞いたらしい人々もなくはなかったが、しいて発言はしていない。……で、御心も結局は、傾く方へ傾いて行った。いつ、どんなばあいでも、策を積極的にとることの方が、強く、たのもしく、また正しくも聞えがちなものである。とくに後醍醐の性格としても、一時でも敵を都に入れるなどの策は、み心に合うものでなかった。
  −まもなく、正成は退出した。いやさいごのお別れを告げて、即座に、前線へ立って行ったのである。
 彼は、このときにおいて、「もう、これまで」と、ひそかな死を独り意中に決した。
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■正成が正行に共に死んではならぬと諭す

<本文から>
  「よしよし、よく言った……」
 思いのほか、父の言がこう優しかったので、正行は、甘え心が出て、どっと、いっペんに涙をこぼした。両手で顔をおおったとおもうと、声をもらしてしゃくりあげた。
「さむらいの子、そうなくてはならぬところ、健気さはうれしいぞ。したが、正行よ。死ぬだけがもののふの道ではない。いや、もののふが一番に大事とせねばならぬのは、二つとない生命だ。いかなる道を世に志そうと、いのちを持たで出来ようか。されば、さむらいの、もっとも恥は犬死ということだ。次には、死に下手というものか。とまれ人と生れたからには、享けた〓叩をその人がどう生涯につかいきるか、それでその人の値うちもきまる」
 「………」
「そなたはまだ浅春の菅だ。春さえ知ってない。夏も秋も冬も知っていない。人の一生にはたくさんなことができる。誓えばどんな希望でもかけられる。父と共に死ぬなどは、そのときだけのみずからの満足にすぎん。世の中もまた定まったものではない。易学のいうように、時々刻々、かわって行く。ゆえにどんな眼前の悪状態にも、絶望するにはあたらぬ」
 「…‥‥‥…」
 「それなのに、父は死のたたかいに行く。行かねばならぬ。これは父がいたらぬからだ。みかどの御為とは申しながら、かくならぬ前に、もっとよい忠誠の道を、ほかにさがして、力をつくすべきであった。いや心はくだいたが、この父にそこまでの能がなく、ついにみずからをも窮地に終らすほかない今日とはなったのだ。‥‥‥そのような正成に、若木のそちを共につれてゆくことはできぬ。…そなたは正成のようなおろかしい道を践むな」
 「…………」
 「まず、あと淋しかろう母に成人を見せてやれ。この後は、ふるさとの河内一領を保ちえたら、それを以て、億せとし、めったに無益な兵馬をうごかすでないぞ。ただ自分を作れ、自分を養え。そして一個の大人となったあかつきには、自然そなたとしての志も分別もついて来よう。その上は、そなた自身の一生だ。身の一命を、いかにつかうかも、そのときに悔いなき思慮をいたすがよい」
 「…………」
 「わかったか、正行」
 「…………」
 「わからぬのか」
 「…………」
 「これほど、理をわけて父が申すのに、なお得心がつかぬとは、そなたもほどの知れたやつ、頼もしからぬ子ではある」
 「…………」
 正行は顔を上げたが、何もいえなかった。父から頼もしくないといわれたのが一途に悲しそうで、ただ、けいれんする唇へ涙を吸っていた。それが、まだ三ツ四ツ頃の、あどけない泣き顔そッくりに親には見えた。
 いまは親の身にとっても、心を鬼にして叱ッて帰すのが、絆を断つに、いちばんやさしいこととは思う。
 正成も知らないではない。しかし今生これきりと知る生別を本心でもない偽りの怒面で子を追いやるには忍びなかった。−で、それからも正成は、じゅんじゅんと子を諭し、そしてほどなく、楯に敷かれた毛皮の上に正行を寝かせ、自分もつかのま、そのそばでまどろんだ。
 短夜はすぐ明けた。
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