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<本文から>
余波はすぐ九州へもおよび、博多の地に過去十年余の業績と人柄を称えられていた九州探題の北条英時も、たちまち、四面楚歌の包囲中におかれ、鎌倉滅亡の日からいくばくもない、当年の五月二十五日、館に火をかけ、自害して果てた。
じつに、怪しいのは、こんなときにおける人のうごきで、先には、探題実時に与して菊池寂阿を自滅させた少弐妙恵と大友の入道具簡も、こんどは、阿蘇、菊池の諸豪に伍して、共に、探題攻め包囲軍中にいたのである。−−白楽天のことば−行路ノ難人山二モアラズ水こシモ非ズ、タグ人情反覆ノ間二在り−という事実を人々は目のあたりに見たことだった。
だが、市井の目が、そのまま真相を映すかといえば、これもそうとはかぎらない。
激動中の表裏には、怪奇複雑なかけひきやら、政治的な離合なども、さまざま、波の底にはおこなわれている。
一時、菊池党と結んだ少弐、大友の二党も、やがて建武新政の両三年を経て来るにしたがって、いつかまた、水と油の反目をみせだしていた。
元々、九州九カ国の諸家は相譲らぬ対立を持していたし、またとくに、少弐、大友の二氏は、菊池党とはまったく違う時勢観と利害の上にも立っていた。
それというのも、ひとつには尊氏の遠謀だった。少弐、大友などが、尊氏と密盟を持ったのは、きのうや今日のことではない。まだ尊氏が六波羅にいて、六波羅奉行の腕をふるっていた建武初年の頃からであった。
当時、都に在番の少弐、大友、島津らの子弟はみな、
「足利殿の人物は大きい。新田殿とは比較にならぬ」
と、帰国の都度、郷党の者へ語りつたえる風だったのである。
もちろん、遠謀に富む尊氏は、そのころから筑紫諸党へたいしては、かくべつ政治的便宜をはかり、またあらゆる好意を送っていた。で事々、筑紫の武族間には、
「なるほど」
と、こころよく受けとられ、同時に、
「さすがは、赤橋殿の妹智、うわさのごとく、なかなかな器量人か」
と、衆望の観るところにもなっていた。
ゆらい疑い深いのは武族間のつねだ。それが未見の尊氏へ、どうして、こうつよい信頼を九州では高めていたのか。
もっとも、これまでに、彼らの尊氏観が固まってくる根底には、それとの結び付けとなった重要な前時代の前提がないではない。
何かといえば。
その胚子は、すでにこの地で亡んでしまっている前の九州探題北条英時が蒔いておいた徳望だった。 |
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