吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(6)

■官将軍による尊氏の排斥

<本文から>
  となされ、近ごろでは、これまでの尊氏懐柔策はすてて、しばしば、官将軍との御密談も内裏で行われているなどの事実も、俄に、官一味をここで気負わせ、
「討つなら今だ。尊氏が片腕とたのむ弟直義も、去年引き裂いて、鎌倉へ追いやってあれば、六汲羅にいま在る勢は、主従あわせても知れた数」
 と、いうつけ目を狙った夜討ち計画となったらしい。
 しかし、これは甘かった。
 尊氏は知っている。堂上における尊氏なし≠ネどという排他的空気にも、彼は鈍のようでいて鈍感ではない。とくに六月六日の宵からは、すでに非常をさとって、六波羅一帯は急武装にかかっていた。−宇治舟がとだえたのは、その方面から、楠木正成が畿内の兵を動員しているものと見て、大和ロヘ一手をそなえ、また二条方面から五条へかけては、明け方までに、数千騎を配置して、
「いつでも」
 と、官の出方を待ちすましていたのであった。
 どうして、そんな迅く、しかも六波羅勢だけとも思えぬ兵力を尊氏が配備したのか。
 これには大塔ノ官以下、一驚を喫して、夜討ちの出鼻をくじかれた。大誤算を生じたらしい。しょせん、正攻では敵わぬことはわかりすぎている。ついにむなしく夜は明けてしまい、夜討ちの秘密計画は不発に終ってしまったのである。白々と事なく明けた町を見て、ほっとしたのは洛内万戸の市民であった。
 あとでは尊氏も、りつ然としたことだったろう。「−官将軍の悪ラツさよ。もしこなたが事前に官の秘計をさとらずにいたらどうなったろう?」と。
 尊氏が本心、官にたいする警戒以上な敵慢心をむらと抱いたのはこのときだった。自分にたいする大塔ノ官があくまで抱擁の寛度もない冷ややかな他人≠ナあることは夙に承知だが、それは世間知らずのお人が陥りやすい周囲からの誤解と観て、決してこころよくはないが、何事も受け身に受けていたのである。
 が、いまはちがう。
 官こそは自分にとっての「当の強敵」。また宮をめぐる殿ノ法印、千種忠顕、新田義貞、名和長年、楠木正成ら−のすべては一群の一敵国と、心のもちかたを、ここであらためずにはいられなかった。
 そして、それらの官一味のうちに、佐々木道誉の名も彼はかぞえてみたかもしれない。なんとなれば、その道誉は、めったに六波羅へ顔をみせず、また尊氏も彼を訪わず、つまり、いらい疎遠となっている。
 しかも道誉と千種忠顕とは、ここ急速にその交友ぶりを密にしており、また殿ノ法印や義貞とも親しんで、たれの目にも官将軍幕下のひとりと今は見なされているからだった。
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■官は諫言した正成を勘当

<本文から>
  「さきには、官将軍令旨も発してありますれば、いざと御旗を見れば、万や二万はすぐ近国からも馳せ集まりましょう。……したがここには、河内守が見えませぬが」
  「正成か」
 「は、決断所では役にもたたぬ仁でおざるが、畿内の兵を狩りだすには、あれもなくてはならぬ一人ですが」
 「その正成は勘当した」
 「え、なんで御勘気にふれましたか」
 「つい十日ほど前よ、おれの前で、くどくど、説法めいた諌言だてをしてやまぬゆえ、出仕止めを命じたのだ。まもなく、河内の奥へ情々として帰ったそうな」
 こともなげに、宮は笑う。官と正成とは、よほど心契の仲とこれまで思っていた人々には、少なからぬ意外であった。
 「…‥さては、正成は河内へ帰ってしまいましたか」
 と、中には彼がここに見えないのを惜しむ者もあり、宮はぜひなく言い足した。
 「いやの。たしかに正成は戦はうまい。しかし彼のはどこまで自衛の戦だ。ただ辛抱づよいのが取柄だけだ。天下布武の大志もなし、政治などは、何もわかっている着ではない」
 ことばのうらに、官は官ご自身を語っていた。自分にはそれがある。正成にはそれがない。−またかつての、千早龍城にせよ、自分がたえず大局的見地から彼の孤塁へ全国的な観望やら兵策をさずけていたからこそ、よく持ちささえたものなのだ。ということを、一同へ、ほのめかしてもおいでだった。
「ま……。正成は除こう。いずれ折をみて勘気は解いてやる心でおるが、おれのまえでも尊氏を庇い、ああ拗こい諌言をするようでは今日の役には立たぬ。なんといたせ、ちと変り者だ。あれはやはり河内の奥で柿作りのかたわら寺普請の奉行でもさせておくのが一番よい。さりとて弓を逆に引くやつではなし」
 こう、正成のことは結論づけて、官はまた、
 「越後」 
 と、忠顕のとなりにいる越後守新田義貞へ、熱のこもった膵を、らんと向けられた。
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■二十日先代ノ乱

<本文から>
  片瀬、七里ケ浜
 鎌倉ロ
 と、敗走に敗走をかさねた。足利方は、要害七カ所七度のたたかいも、ついぞ負け色をみせず、行くところで勝ち、十九日、尊氏の馬は、もう鎌倉の内へ突き入っていたのである。
 連戦わずか十日だった。この迅さ強さにみても、このときの足利勢が、いかに気鋭新鮮な、いわゆる風雲児の下に引率された軍であったかが察しられる。
 道誉でさえも。
 といってしまうと、彼は弱い凡将のようだが、彼の天分は別な面にあって実戦場ではむしろ荻将と呼ぶべき方の者だろう。その道誉でさえも、このときばかりは必死な目にあって働いた。いや働かされたといってよい。
 それは、相模川の合戦の日であった。
 散は、遠江から退いた名越式部の死にもの狂いな兵を中心に、伊豆の伊東祐持や、三浦、諏訪などの新手を加え、頑強にふせぎ戦って一歩もひかない。
 このとき、尊氏が、
 「ここはよい。ここはよいから上野(太郎頼勝)の隊と、仁木(三郎太義照)の隊は、川の上を乗り渡せ。また、佐々木(道誉)の隊は下流を渡って、無二無三、対岸の敵の腹背に出ろ」
と軍令した。
 これはきつい令である。決死隊にほかならない。
 道誉は心で、ほかに足利譜代の将も多いものをと、
 「ちッ」
 と、思ったがぜひもなかった。馬筏を組んで、敢然たる渡河戦の先陣を切った。もとより河中では矢ぶすまを浴び、対岸へ斬りこんでからも、たくさんな犠牲を出したのはいうまでもない。
 従軍はしても、彼は自分が子飼いの伊吹兵は、これを極力大事にして、武功と取り換える消耗はつねに巧く逃げている。
「…尊氏め、それを知って、おれを今日の難場に使ったな」とは思ったが、しかし彼の上には勝鬨が沸いていた。悪感情もたちまちそれに吹き消されていた。
 こうして彼は、今川頼国と並んで、海道下りの二大将となり、鎌倉口まで先陣をつづけたが、しかしその道誉には、上野と仁木の二部隊が付いてぃた。軍監として、彼を督戦していたのである。
 とまれ、鎌倉はまた、足利方の下に回った。
 先代軍の脆さは案外というしかない。北条時行以下、各地へ四散し、ふたたび元の残党境界の陽かげにひそんだ。この先代軍が鎌倉を占領していたのはわずか二十日間に過ぎなかったので、世上これを「二十日先代ノ乱」といった。
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■尊氏の反逆へ

<本文から>
 彼ら若公卿はいう。
 「尊氏の反逆は、すでに歴然といえる。それなのに再度の勅を奉じさせて、法勝寺の慧腰上人をさし下してみたらなどという儀は、あまりにも手ぬるすぎて、彼を増長せしめるばかりか、賊に軍備をかためさせる余日を与えるだけでしかない」
 「かつは御威光にかかわろう。朝廷に人なく軍威なきにも似る」
 「それはすぐ在京武者に弱味をおもわせ、いたずらに去就を迷わせる悪結果をよぶ」
 「すでに、足利の叛旗とみるや、諸家の武門を脱走して、ぞくぞく、鎌倉さして行く兵も少なくないとか」
 「いや、それは憂えるほどなことでもない。事態の急に、京から鎌倉へと、身の処置をきめて行くのもある代りに、また都に砥候の主筋や縁故を持つ輩は、これまたぞくぞく、東国から京へと急ぎ、海道はそのため、西ゆく者、来する者、櫛の歯を挽くが如しじゃと、いわれておる」
 「いずれにせよ、もはや右顧左晒しているときではない。朝敵尊氏を討つに、なんのおためらいなのか」
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■尊氏が打った賊名のがれの芝居″への反論

<本文から>
  はじめて、彼が高時の命で上方へ出陣したときは、父貞氏の喪に会していた。よくよく、出陣祝いにはめぐまれない巡り合せがつきまとっている。
  しかし彼は、こんな形式事を気に病むものではないらしい。粥腹に温もった五体をよろいにつつむと、かえって彼本来の面目とおちつきをもち、そして、頼春や寺中の家士がそれぞれの腹拵えや身支度をすますあいだ、独りあぐらをくんでゆったりと庭の朝霜に対していた。
 もちろん心はもう戦場へとんでいよう。自分が駈けつけてゆくまで届の直義がよく敵の大軍をささえて生きているかどうか。あれこれ、限りのない惑念も湧いたであろう。
 しかも、この敗退の因は、彼にある。尊氏が初めから起たなかった出ばなの士気の不振にあったと言っていい。−−−その大事な機会を−なぜ彼はわれから恭順をとなえて寺へなどに龍っていたのか。
 後世の史家は、これを尊氏が打った賊名のがれの芝居″であったと結論する。
 なるほど多分に意識的な計算のあとはある。だが、これが彼の名分だけの擬態であったとするなら、何もこうまで、あぶない橋は渡るまい。足利一門の致命ともなりかねないような最悪の最後まで、じつと、蟄居をまもっている愚はしまいし、その必要もなかったのだ。
 おもうに。−彼が後醍醐の恩寵をふかくわすれず、また朝廷は朝廷としてあがめておきたいと声明していたのも、それは彼の本心で決して偽りではなかったものと考えられる。けれど、足利一門の滅亡もそのためには捨てて惜しまぬというほどまでには徹底した恭順でもなかったのである。− そして彼は、朝廷へは抗したくないが、対義貞との戦いならば−と、義貞のおびき出しには、むしろ主戦的な構えですらあったのだった。
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■足利軍の敗走

<本文から>
  こんな乱軍中の浮説が、いかに危なッかしいものであるかの実例には、つい十日前の闇合戦のあとでも、
「敵将の楠木正成と脇屋義助が昨夜討死した」
 と、その首まで拾って来て立ち騒いだことなどある。もとよりそれは偽首だった。
が、偽首と分ったあとの空々しい敗北感はいつまで後味わるく尾をひくものであった。
 果たして−官軍方の北国落ちなども、その日の夕には、第五列の流言とわかった。しかし、そのときもう直義の軍は深入りをしすぎていた。敵は、山に拠り、夜を待雲母坂にいた山法師の一軍、赤山明神↑の洞院ノ実世の七千人。これが一時にうごき出すと、鼓を合せて、白川越えの上や鹿ヶ谷のふところでも山を裂くような武者声がわきあがったり新田義貞、義助の一万余騎だ。
 そして、山科から粟田口へかけても、北畠顕家の奥州勢が、とつぜん、直義のうしろを通って、いきなり二条の尊氏の本陣へ、突進していた。
 形からみても、足利軍は四分五裂のほかなかった。
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