吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(5)

■後醍醐に後醍醐の理想があったように、高氏にもまた高氏のいだく未来図はあった

<本文から>
 先ぶれが一騎、早くにつたえていたとみえ、宿の入口までくると、上杉憲房と細川和氏のふたりが迎えに立っていた。
 こう二人は、先に高氏の秘命をおびて、矢作から鏡へ先発していたものである。そして、ここの歌野寺のうちで、官方の密使と出会い、
 後醍醐の輪旨
 をうけていたのであった。
 こんな手順は、彼の鎌倉出発いぜんに取られていたのはいうまでもないが、その仲介者はたれなのか。「梅松論」以下の書にも、それはたれとも明記はしてない。しかし前後の事情からみて、おそらくは、かの岩松経家の弟昔致あたりの才覚ではなかったかとおもわれる。
 いずれにせよ、高氏のむほんは初めから独走して起ったものではない。やほり後醍醐の輪旨をうけ、それによって、こころざしを遂げようとしたものだ。
 が、官方にすれば、彼の幕府離反は、まぎれない彼の勤王精神とみたであろう。そこで、あらゆる困難の中を、鏡の宿まで、勅の密使をくだして来たものにちがいない。
 −ただ、後醍醐に後醍醐の理想があったように、高氏にもまた高氏のいだく未来図はあったのだ。それは元々、似ても似つかぬ理想であったし、初めから妥協の余地鴻ないものだった。
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■東国勢の敗走

<本文から>
  死傷、ソノ数ヲ知ラズ
 といわれ、そして、
 味方ノ屍ヲ踏ンデ逃グル者、マタ忽チ屍トナツテ、他ノ馬こ踏マル−
 と、古戦記にある惨状は、まさに、ここらで現出されたことだったのであるまいか。
 もちろん、楠木勢も、この辺までは、追撃をゆるめず追ッかけて来ていたに違いあるまい。
 敗走の兵馬ほど、怪しまれるものはない。これがきのうの、あの大軍か、あの歴々な大将たちの軍旗かと、あきれもされる。
 その東国勢は。軍のすがたもなく、ちりぢり、奈良へ逃げ込んだようだった。
 逃げおくれた兵は、生駒や龍田あたりで殲滅されたり降伏した。あるいはまた、自国へさして、逃げ帰った武族も少なくなかったろう。
 いずれにせよ、二万の軍も、雲散霧消のていだった。阿曾、長崎らの諸大将は、ひとまず南都興福寺に拠って、残兵をかりあつめ、
 「このうえは、洛中へ出て六波羅を奪り回さん」
 と、再起をはかってみたものの、もう昔日の士気はない。それにここでも、奈良の土民の眼は冷たかった。また僧団側も、食糧の協力をさえ、はや拒み出す有様だった。
 結局。−彼らも今は、鎌倉へ落ちようにも行く道なく、やがてはみな、首を揃えて降伏に出るしかないものと見られるにいたっていた。「保暦間記」には、五月中、なおしばしば、奈良近傍に官方の出撃あり、とみえるが、それは以後ひきつづいて、敗残の鎌倉諸将を、興福寺へ狩り立てるための行動だったに相違ない。
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■正成の声望が高くなったが無欲であった

<本文から>
 時にさて、正成の方はどうなっていたか?
 このさいにおける楠木正成の態度は、よほどよく、見ておく必要があろう。
 いまや勝者の陣でも、彼こそは、武勲第一と自他共にゆるされるものだった。
 いや、武門列だけでなく、民衆の声望もまた誰より高い。領下の民はもちろん散所民まで、
 「ようも、あの砦一つで」
 「関東の大軍を。……」
 「しかもそれも、六波羅へ向った官方とは、わけがちがう。楠木勢だけの一手じゃった」
 と、熱狂的にほめたたえた。沸騰すると、民衆は、事実以上にも、誇張したがる。
 しかし、野に充つるそんな声に、正成は酔ったであろうか。自身の武勲に驕ったろうか。どんな史に徹しても、このときの正成に、それらしき風はみじん見あたらない。
 もしその正成に、他日への野望があり、また当初の笠置出仕″の腹が、栄達への野心であったら、それへ登る階梯は、
 今こそ目の前
 に、あったといえよう。 − 孤塁千早を開いて、百七十日ぶりで降りてきた菊水の旗の前には、数千の降兵と、また和泉、紀伊、摂津の各地から呼応してきた味方とに、
「たのもしい楠木殿」
「わが多聞兵衛どの」
と、それこそ、時の氏神の顕現のように、囲椀されていたのである。−だから今なら、それら参陣の武族へ、彼がどんな高い床几から尊大な一顧をくれても、人々はみな彼を大将と仰いで、行く末までの随身も惜しまなかったに相違ない。
 ところが、彼には、その気がなかった。そしてそのことが後には逆に、野心満々な時人からは、物足らない人と見られて、やがては彼から人の離れて行く、一因にもなっていたかと思われる。
 とにかく河内平野は、この戦勝で沸騰していた。兵は勝どきに酔い、散所民には、豊年だった。彼らは山野を走りまわって、東国勢の屍から、その持物を剥ぎ、肌着まで奪って、一夜のうちに、どの死骸もみな、まる裸にしてしまった。その景気が飢餓の町を、近年になくさんざめかせた。
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■新田軍の旗上げ

<本文から>
 生晶明神は、東山道に沿う道ばたの小社で、世良田ノ館からほぼ二里、方角は、北にあたる。
 だが、鎌倉は真南だ。
 一路、南進すべきはずの新田軍が、そのかど出になぜ北方へ逆行したのか。旗上げ場所を、生晶明神の社頭としたのか。
 理由はいくつもあったであろうが、鎌倉がたの代官がいる群馬郷の国府(現・前橋市と高崎市の中間、元総社と呼ぶ地)をうしろに、それを措いて南進するのは無謀であり、危険と考えられたことも一つにちがいない。
 それとまた。
 義貞の別館(しもやしき)のある反町にも近く、脇屋義助の脇屋ノ里や、そのほか江田、綿打、田中、額田などの同族たちが一瞬にあつまるにも雀晶明神がもっとも地の利であったなどの点も考えられる。
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■鎌倉幕府は滅んだが高氏が時の人に

<本文から>
 鎌倉幕府はここに亡んだ。
 炎々数日らいの湘南の兵火は、昨日までのあらゆる権力のあとを焼きつくして、時の空に、
 夢
ただそれしか思わせない余塵のけむりを描いていた。そして新たな時の人″新田義貞の名が、焦土鎌倉を産土として、はや次代の人心に、すぐ大きく映りはじめている
 だが、一夜に百五十年の武家機構とその経営の府が根こそぎ崩れ去ってみると、こことて、−ただの関東の一海浜で、しかもあわれな瓦礫の一町にすぎない。
 時の人。それは誰か。果たしで自分か。義貞といえ、まだまだ、驕っていなかった。
 五月二十三日である。それは鎌倉占領のすぐあくる日だった。彼は長井六郎、大和田小四郎の二名を選んで、
 「今日、立て」
 とばかり、西への使いを急がせたい。
 伯菅船上山の行在所−すなわち後醍醐のみかどのもとへ−ここの大戦捷を、上奏するための早馬だった。
 ところが。偶然といえようか。
 もちろんまだ、後醍醐には、鎌倉がほろんだなどのことは、ご存知もなかったが、すでに六波羅陥落の報につづき、千早城もまた大捷と聞えたので、同じ五月二十三日、還幸の沙汰を布令だされ、晴れの都門凱旋の途についておられたのである。−そして、
 その龍駕を待つ都には、高氏がいた。
 足利殿
 この名もまた、いまや洛内では、義貞以上にも、時運の波に乗ってきた時の人″のひとりであった。
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■恩賞に不平

<本文から>
 とすら怪しまれた例外中の例外があった。
 播磨の赤松円心則村にたいする授賞だった。
彼の軍功は、顕著である。−おそらくは円心自身も、名和長年や千種忠顕には劣らぬものと自負していたにちがいない。
 ところが、発表になってみると、佐用ノ庄一所を賜う、とあるだけだった。−のみならず前から所領していた播磨の守護は取り上げて、これを新田義貞の新知行の方へ組み入れ、人の物で他人の恩賞を行っている。
 「怒ったろう」、
 「おれでも怒る」
 「ましてや円心入道だ」
 「あの戦下手な公卿大将の千種殿さえ大国三カ所も受領したというのに、その人を扶けて、早くから中国の勢を狩り催し、六波羅攻めにも、獅子奮迅のほたらきをした赤松勢がよ」
 「このあつかいでは、恩賞の不平よりは、武士として顔が立つまい」
 「勇猛をほこる円心だけに、一族や部下を死なせた数も、赤松が一番だろうといわれておる」
 「ばかばかしさよ、とあの円心が、おもてに朱をそそいで、沙汰書を引き裂いて捨てたというが、目に見えるようだ」
 と、衆口は、みな円心に、同情的だった。
 果たして、それからまもなく、赤松円心の一勢は、朝廷へも届け出ず、ただ一書を六波山維の高氏へ投じたのみで、憤然、京をひきはらって国元へ帰ってしまった。
 それを見た目も、武士大衆は、
 「むりはない」
 と、みな言った。みな円心の後ろ姿を思って気のどくがった。けれど、かえりみて自分たちが必死を賭けて、いま、掌に乗せ得たところの恩賞を見ると、
 「……何と、これは」
 と、一抹の不満七淋しみを噛む顔でない者はない。内々たれもが、自己の功には過大な期待を持ちすぎるものではあったが、やがて彼らの間に起ったやり場なき不平の色は、ただ単にそれだけのものでもなかった。
 国家の名で戦った勝者と勝者との、分けまえ争いも、ひとりの女を捕えて身の皮を剥ぎ、その分け前で、仲間争いせ演じ出す野盗山賊のつかみ合いも、何と大した違いはないものか。
 後醍醐のご理想も。
 新政府の新政第一歩も。
 まずはこのおなじ轍を踏みはずさない人間通有の欲の目に迎えられ、武士大衆は公然、ごうごうと不平を鳴らしだした。
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■武士は自力を信じ、公卿は御稜威に帰した天下であるとした

<本文から>
  その北畠親房の書は、べつのところで、こういう論旨をも述べている。
 「−北条の末路は、天運が極まったもので、人力ではない。その運を開いたのは、朝威であった。それを武士どもは、自分の力のように思っている。そもそも、武士はどういうものかといえば、元来、代々の朝敵である。それなのに、はからずも天皇のお味方に参じ、その家々を失わないですんだだけでも、皇恩というべきだ。しかるを、多少の忠をいたし、労を積んだからといって、功にほこり、恩賞の不足を鳴らすなど、けしからんことといわねばならん」
 これは「神皇正統記」の著者ひとりの考え方ではなかった。当時の公卿思想そのものを代弁したものといってよい。
 武士は、武士大衆の自力を信じ、公卿は公卿で、御稜威に帰した天下であるとし、それはわが世の春だと思っている。
 真っ向、利害も理想も、武士大衆とは、根本からちがっていたのだ。−得意絶頂にある朝廷方は期している。
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