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<本文から>
先ぶれが一騎、早くにつたえていたとみえ、宿の入口までくると、上杉憲房と細川和氏のふたりが迎えに立っていた。
こう二人は、先に高氏の秘命をおびて、矢作から鏡へ先発していたものである。そして、ここの歌野寺のうちで、官方の密使と出会い、
後醍醐の輪旨
をうけていたのであった。
こんな手順は、彼の鎌倉出発いぜんに取られていたのはいうまでもないが、その仲介者はたれなのか。「梅松論」以下の書にも、それはたれとも明記はしてない。しかし前後の事情からみて、おそらくは、かの岩松経家の弟昔致あたりの才覚ではなかったかとおもわれる。
いずれにせよ、高氏のむほんは初めから独走して起ったものではない。やほり後醍醐の輪旨をうけ、それによって、こころざしを遂げようとしたものだ。
が、官方にすれば、彼の幕府離反は、まぎれない彼の勤王精神とみたであろう。そこで、あらゆる困難の中を、鏡の宿まで、勅の密使をくだして来たものにちがいない。
−ただ、後醍醐に後醍醐の理想があったように、高氏にもまた高氏のいだく未来図はあったのだ。それは元々、似ても似つかぬ理想であったし、初めから妥協の余地鴻ないものだった。 |
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