吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(4)

■後醍醐天皇と三人の妃の淋しい島脱出

<本文から>
  また、三名の妃には、貧しげな板興が与えられ、侍者二人は、馬の背だった。
 八尾川ぞいに、西郷の港へと思いのほか、軍兵の列は、島奥の原田の方へえんえんと流れて行った。港の人目をわざと避けたものにちがいない。−歌木の山地を迂回してやがて淋しい島南の磯へ出た。
 都万の漁村だった。
 船手の勢が、船をそろえて待っていた。いささかの休息さえない。それぞれ、船へ追小乗せられた。そして島前の三つの島影へさして、六海里の海上を帆が鳴りはためく。
 たそがれ頃、帝はせまい島と島の両ぎしを船のうちから眺められた。はや島前へ着いたのである。かねて聞く後鳥羽法皇の崩られた遺跡はこのへんと思われるにつけ、お心ぼそさは一卜しおだったにちがいない。−それというのは、渡島いらい、おやつれもない、むしろ埋め火となった覇気一ぱいな、ご健康ぶりでさえあすたが、都万の漁村からこっちは、妃たちとも侍者とも船をべつにされ、海上は後醍醐おひとりであったからだ。
 そして、その御船の艦には、見るからにひとくせありげな男が腰をかけていた。男は大太刀を凧から解き、杖のようにそれへ肩を焦せかけている。
 ときおり船尻の幕が舞いあがると、帝の御座からその男のすがたが見えた。また男のけわしい顔も、きまって、その無作法な眼でジロと帝の御気配をねめすえているのであった。
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■逃亡天皇を追う幕府方の不手際

<本文から>
 「おそかったぞ、隠岐どの」
 浜迎えに出た小波の田所種直も、地だんだ踏ンで、こういった。
「不覚はわれらにもあるが、目標のお人は早や船上山の上らしいのだ。事ごと、出し抜けを食わされておる」
 小波の城は、淀江から南へ半里だ。
 稲井瀬ノ五郎や梶岡の入道永観も駈け合わせて来て、ここはたちどころに、幕府方の拠る船上山攻めの本陣のかたちとなった。
 北日本の平和は一夜に様相を変えていた。
 急を告げる早馬は、六波羅や鎌倉へ、狂気のようなムチを打ちつづける。
 同時に、地方武士から在国の間でも、これまでの日和見主義や対岸の火災視はゆるされず、即座に、
 船上山の官方か。
 幕府勢の寄手につくか。
の去就をせまられたことでもあった。
何と言っても地方ではまだ幕府依存の根が強い。寄手は日増しにさかんな旗幟を加え出した。逃亡天皇の追捕と聞く大きな功名心まとも、彼らの眠っていた野望をふるわせたにちがいない。
 中でも、船上山から北三里の赤崎城にいる地頭三河守清房は、まッさきに小波城の隠岐勢にこたえをみせた。
 また、船上山へはもっとも近いところに位置している中山谷の糟谷弥次郎重行もただちに寄手として立った。
 とくにこの糟谷は生ッ粋な鎌倉武士だ。それに伯菅の守護代でもある。だから彼は、
 「隠岐の武士どもは、昼寝でもしていたのか。野良猫に籠の鳥を取られるのも知らずにいたとは何たるうつけだ」
 と、罵り立ったものである。
  このほか小鴨城の小鴨治部少輔元之なども迷うなく幕府方の名のりをあげ、船上山の東方へはや兵をすすめていた。
  これを戦図上でみれば、船上山をかこむ西、北、東、あらましは有力な幕軍である。
 −小波の城を本拠としてやや心身の疲れをとりもどしていた隠岐ノ判官清高も、
 「このぶんなら」
 と、やや眉をひらいた。
 が、じっさいには彼として苦慮にたえない空気がみえる。
 寄手は随所に奮い立ったが、しかしそれを統率する大将というものはない。六波羅から特命の将でも下ってくればだが、清高は、隠岐一島の守護にすぎないし、それに帝の脱島を追って来た、いわば不始末を起した下手人でしかないのである。
“そんな不覚者を、首将といただいて、彼を助けようとするような人のいい地方武者は一人もいない。みな「おれこそは」の気ぐみなのだ。清高の失脚などは意に介するとこうでない。わが手に後醍醐を捕って、賞にあずからんとする方がみな急だった。
 ために船上山攻めは、おそろしく急速に、また気負い込んでくり返されたが、そのほとんどが惨敗だった。個々、てんやわんやの戦列や突撃が因をなしたのはいうまでもない。
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■置文から説いて幕府転覆に立つ高氏

<本文から>
 「まかせる」
 と、彼はあっさり同意した。そしてすぐそれも忘れ顔だった。
 なにしろまた、柳堂の本陣は、それほどに忙しくもあった。たえず、三河武者の訪れ車早馬の到着を見、高氏のまわりには、もう軍事でない遠いさきの政略まで始まっている。
上野国の新田からも早馬の密使が来た。これはさきに鎌倉で別れた岩松吉致がもたらした何らかの諜し合せであったらしいが、高氏はその返答を、
 「師直、書け」
 と、師直に口述して、執筆させた。
 また上方方面からの情報も、ひっきりなしにとどいた。六波羅のもよう、赤松勢の進退、千早金剛の戦況、伯菅大山以後の後醍醐軍のうごきなどまで、ほぼ、把握していた高氏だった。
「兄者、連判の用意がととのいました。子ノ刻集合の布令、よろしゅうございましょうか」
 直義から念をおしてきた。
「よし」
 との、ゆるしをえた直義は、師直からそのむねを、すぐおもなる将にふれさせた。
 子ノ刻(深夜十二時)密々に柳堂の御本陣へあつまれという令である。何事かとみな顔をそろえて見た。
 −場所は、日ごろ時宗の信徒が大勢寄って念仏講せするがらんとした大床の板かべ板じきで、阿弥陀像の壇にだけ、あかりが灯っていた。見ると壇には、足利家先祖の仮位牌と、またとくに、高氏の祖父にあたる七代の人−鎖阿寺に謎の置文をのこして憤死した−例の家時の位牌がべつにまつられていた。
 その家時公ノ置文≠フ由来から説いて、高氏はこの夜はじめて、大望の本心を一同にうちあけた。
 一瞬はみな無限の感に氷りつめた座であった。けれどやがて、ほ一つと大きな吐息を聞きあった。それは熱い息吹きだった。一人として狼狽してはいず、意外とほしていなかったのである。連判は即座に書かれ、書いた者の順から、家時の霊に焼香して座へもどった。
 −そして皮肉にも、執権高時から贈られた源家重代の白旗は壇の香華のように香煙のわきに垂れさがっていたのである。終ると一同声を和して、高氏へ誓った。
 「祝着にぞんじまする」
 連判の巻は巻かれた。
 けれど翌朝、もう一家の名が加判された。
 細川和氏であった。和氏もまた弟の頼春、掃部助などつれて、その朝、上杉憲房とともにこれへ臨み、幕府転覆の大謀にも異議なく加盟したのであった。
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■道誉を味方に引き入れる

<本文から>
 ころそうと思えば殺せる。生け捕ろうとすれば生け捕れる。いまなら、道誉の意のままだろう。
  その危険を、高氏が感じないはずはない。が、感じていないかのようである。−−庭へ眼をやっている。危険極まりないことだ。
 もっとも高氏にすれば、ここへ臨むときからすでに、八方やぶれでいるのかもしれない。しかし、それならなんで不知哉丸を連れてきたのか。一子不知哉丸を質子として預けると提言したのか。
 「足利」
 やがてであった。道誉も彼を呼び捨てに。
 そして、喉のへんで圧しつぶされたような声とひとつに、ぼってりと柔軟なその体を、膝ぐるみ、ぐいと前へのり出していた。
 「お、道誉」
 高氏も彼を正視する。
 その時を道管はとらえた。ねばりツこくいつまで相手を離せなかった。なお奥底のものを見極めようとするのらしい。こういうとき、彼の如き人間の眠気には長く耐えられないのがふつうだが、高氏はふんわりしていた。つい先に瞳孔をちらつかせたのは道誉の方であった。
 「訊くがの、足利」
 「なんじゃ」
 「勝算はあるのか、勝算は」
 「なくてどうする」
 「おとろえても、相手は天下の幕府だぞ」
 「知れたものよ」
 人を吸いこむような柔らかい顔でいながら、高氏は揶揄を弄していた。
 「恐いのか、道誉」
 「むほんをくわだてながら、恐ろしくないなら嘘だ、大きなばくちではあるまいか」
 「いやこの身には、賓はもう投げられたのだ。投げられたあとは恐さなどもない。腹をきめたらそれが分ろう。まだ、きめられぬのか、お身ほどな人物でも」
 「……」
 「畿内の戦場へ共に出よとは決して申さぬ。ただ高氏の質子をこれへ留めおくゆえ、お身はこのまま伊吹にあって、素知らぬ顔で見ていてくれ。高氏のする仕事を」
 「それでよいのか」
 「どんな勲功にもまさる大功としよう。きっと、後日にはその功におむくいする。また高氏が今日、質子をたずさえて来たわけも、一にはそこもとの疑心を解くため。二には、すぐあとから、不破へさしかかって来る名越尾張守の軍を、わずか一時でよい、質子不知哉丸を証として、足利に叛心なしと、巧く、たばかッてもらいたいためなのだ」
「…………」
「それも長くはあざむけまいが、今後十日のうちには、関東の野から、べつに叛旗をひるがえす者があらわれる。それまでの時を稼げばまずよいのだ」
「えっ、東国の野から?」
「む。新田が起つ。上野国の新田小太郎義貞も、その遠くは、足利と同祖の家。− これまでの反目も水にながして、同時に起つ密約もすんでおる。−あとは、同じ源氏の名門では、御当家だけだが、賢明なそこもとが、ここを踏み過るはずはないと、新田も見てれば、またかくいう高氏も、十年らい、この目でみてきた佐々木道誉だ、かたくその者を信じてこれへ来たわけだ。わかろうがの、こうまで申せば」
 道管も急に腹の底をかえていた。高氏はほんとにおれを信じている! そう彼も信じ込んできた容子だった。
 さもなければ。−高氏が単身でこれへ来るなどの離れ業に出るわけもない。また、われから我が子を質子に連れてくる馬鹿もあるまい。
 こうすべてに、あけっ放しな高氏が、彼には次第に利用価値の大きな愚直そのものにおもわれてきたのであった。
 よし、ここは恩凌着せておこう。望みどおりむほんの旗″を進めさせ、倒幕の荒仕事は、ぞんぶん、彼にやらせておけばよい。そして、その収穫は、悠々とあとから我が手に収める工夫をしてもおそくない。−とっさに彼はそう考えた。軍事には自信守ないが、その方には自信があった。
 「足利!」
 ふいに、道誉は立上がって、
 「見せるものがある」
 と、壁の前へ歩いて行った。
 そこを押すと、壁の一端が袋戸のように開いて、抜刀を持った三名の武者が檻の豹みたいにかがまっているのが見えた。腹心町家釆、田子大弥太、早川主膳、民谷玄蕃などだった。
 彼らは、主君の唐突な行為にあわてて、
 「あっ?」
 と、ひとしく辱じるような顔を、まぶしげに、しかめ合ったが、
 「去れ」
 と、道誉はなんの廉恥のふうもなく、あっさり命じて、その者たちを追いしりぞけた。そしてそれを心証と見せるかの如く、高氏へいったのだった。
 「質子とはいわぬが、せっかくお連れになった不知哉丸とか。たしかに、道誉がお預かりするとしよう!」
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