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<本文から>
また、三名の妃には、貧しげな板興が与えられ、侍者二人は、馬の背だった。
八尾川ぞいに、西郷の港へと思いのほか、軍兵の列は、島奥の原田の方へえんえんと流れて行った。港の人目をわざと避けたものにちがいない。−歌木の山地を迂回してやがて淋しい島南の磯へ出た。
都万の漁村だった。
船手の勢が、船をそろえて待っていた。いささかの休息さえない。それぞれ、船へ追小乗せられた。そして島前の三つの島影へさして、六海里の海上を帆が鳴りはためく。
たそがれ頃、帝はせまい島と島の両ぎしを船のうちから眺められた。はや島前へ着いたのである。かねて聞く後鳥羽法皇の崩られた遺跡はこのへんと思われるにつけ、お心ぼそさは一卜しおだったにちがいない。−それというのは、渡島いらい、おやつれもない、むしろ埋め火となった覇気一ぱいな、ご健康ぶりでさえあすたが、都万の漁村からこっちは、妃たちとも侍者とも船をべつにされ、海上は後醍醐おひとりであったからだ。
そして、その御船の艦には、見るからにひとくせありげな男が腰をかけていた。男は大太刀を凧から解き、杖のようにそれへ肩を焦せかけている。
ときおり船尻の幕が舞いあがると、帝の御座からその男のすがたが見えた。また男のけわしい顔も、きまって、その無作法な眼でジロと帝の御気配をねめすえているのであった。 |
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