吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(3)

■正成の当面の戦略は持久

<本文から>
 「正成、気強う思うぞ」
 直々のお声だ。−伝奏を期していた正成はどう答えていいかわからず、ただ「はっ」と、体が言ったのみである。
 そのあとから、花山院師賢、千種忠顕らが、帝に代って、かわるがわる訊ねた。「要は南東を打ち破るてだてはどうか。忌博なくその謀計を述べてみよ」と、いうのであった。
 ここで、正成が答えたことばとして「古典太平記」は、こう書いている。
「合戦の慣いです。一旦の勝負に、一喜一憂なされてはなりません。正成一人生きて在りと聞こし召すあいだは、お心丈夫に、いつかは聖運の醜かれるものと思し召しあって、およろしいかと存じまする」
 たしかに、彼に勝算などはなかったろう。単なる武力だけの比重なら三歳の児童でもわかりきった戦いである。それも充分知っての上の正成とすれば、大言には似るが、あえて自分を巌頭に立たせるためにも、このくらいなことはいったかもわからない。
 けれど、思慮にも富む彼である。気休め同様な自負や、そんな気概だけを述べて、得々とはしていなかった。べつに自己の謀とする抱懐もつぶさに述べて、やがて笠置を退がったにちがいない。−とにかく正成は、また即刻、河内の水分へ帰って行ったのだった。
 その日、正成から奏聞に入れた当面の戦略は、要するに、
 持久
 ということに尽きていた。
 またなぜ、正成が笠置にふみとどまらず、河内へ帰ったのかといえば、ここでは自身の指揮も、徹底的には行われ難いと見抜いたからであったろう。
 むしろ少数でも、一族一体を基盤とする金鉄の本塁を奥河内の瞼に築いて、築塁が成ッたら、すぐさまそこへ天皇を迎えて、思うざまな統御を取ろうとするものにほかならなかった。
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■正成の作戦

<本文から>
 連日、敵のその虚を突きつつ、正成は十月二十日がらみとなって、ついに悲壮な一令を、赤坂中の将兵に触れ出した。
「よく戦った。矢は尽き力も果てるところまでやった。ところで今夜、正成は死のうと思う。生きたい者は落ちるがいい。別れても止まっても、ここまで信じあった者、二心とは思わぬ。随意、どこへでも落ちてくれい」
 もとより正成の真意はべつにある。最後とは本心ではない。むしろ、阿修羅の世に、ぜひなく悪鬼正成と生れかわった自己の修羅道の苦患は今日が第一歩ぞとさえ、ほんとには思っている。
 けれど。
 もう後悔をおぼえだしている兵も中にはあるにちがいない。かりにじぶんがただの一兵だったら、この二十日あまりの血の籠城だけでもうたくさんだ。泥水をすすって野に生きるまでも逃げ出したくなるだろう。そうした者までを、このさき無限の修羅道へひッ抱えてゆく気にはなれなかった。
 そこで、
「正成は今夜死ぬ覚悟」
 と、彼らへ告げ、
「生きたい者は、どこへでも落ちて行くがいい。ここまでもよく戦ってくれたぞ」
 と、礼までいったわけである。−が、寂としたきり、土塊の群れを思わせる将士の列はいつまで何の声だになかった。かすかな列のせせらぎは鬼みたいな男が顔をおさえているすすり泣きなのだった。
「さて心には思うても、おたがいの前では、あらわにも言いえまい。いま名のり出よとはいわん。……深夜、ここが火の手となるいぜんに、随意思うところへ落ちのびてよいぞ」
 言いわたしは終った。
 だが、それからの指揮は峻烈そのものだった。
 砦のうち二カ所ほどに大坑を掘らせ、あちこちの屍をみなその中へ運ばせる。もちろん敵方の死骸も拾い残さない。
 正成の所持の品、持仏、経巻なども、一つの坑へ入れた。さらには、一卜すじの菊水の旗もそえておく。
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■あわれな一挿話

<本文から>
 −あわれな、その一挿話というのは、こうである。
 後醍醐のあまたな御子のうちに、項子内親王という姫ぎみがあった。おん母は藤原為子。        
 かの土佐に流された一ノ官尊艮や、讃岐へ流された宗良も、ひとつおん母であるから、二皇子のじつの御殊にあたるわけで、その年、十六歳であったという。
「島とやらへ、わが身も、行きたい。島へ行きたい」
 おん母の為子は、とうに世に亡いお人であったから、姫は孤独にたえなかった。侍女にせがんで、父皇のおあとを慕い、ついに都を出てしまった。
 かよわい足で、しかもはるかな旅を、どんな人々に付き添われて来たろうか。とにかく表向きは、   
「先へ行った三位ノ局の女童です」
 という態に装って、ひたすら父のみかどのあとを追い、やっと米子の辺か、この美保ノ関へ来て、追いついたといわれている。
 しかし、もとより姫のいたいけな願いが、かなえられるはずもない。
 また親しく、父皇と会って、さいごのお別れを遂げたらしいような記録もない。伝説として残っているのは、米子市附近の安養寺にある五輪ノ塔だけである。
 所伝によれば、身の孤独と、世の荒びに、すべてを見失った十六のおとめは、この地で黒髪をおろして一宇の庵主としてついに果てられたというのである。
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