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<本文から>
「正成、気強う思うぞ」
直々のお声だ。−伝奏を期していた正成はどう答えていいかわからず、ただ「はっ」と、体が言ったのみである。
そのあとから、花山院師賢、千種忠顕らが、帝に代って、かわるがわる訊ねた。「要は南東を打ち破るてだてはどうか。忌博なくその謀計を述べてみよ」と、いうのであった。
ここで、正成が答えたことばとして「古典太平記」は、こう書いている。
「合戦の慣いです。一旦の勝負に、一喜一憂なされてはなりません。正成一人生きて在りと聞こし召すあいだは、お心丈夫に、いつかは聖運の醜かれるものと思し召しあって、およろしいかと存じまする」
たしかに、彼に勝算などはなかったろう。単なる武力だけの比重なら三歳の児童でもわかりきった戦いである。それも充分知っての上の正成とすれば、大言には似るが、あえて自分を巌頭に立たせるためにも、このくらいなことはいったかもわからない。
けれど、思慮にも富む彼である。気休め同様な自負や、そんな気概だけを述べて、得々とはしていなかった。べつに自己の謀とする抱懐もつぶさに述べて、やがて笠置を退がったにちがいない。−とにかく正成は、また即刻、河内の水分へ帰って行ったのだった。
その日、正成から奏聞に入れた当面の戦略は、要するに、
持久
ということに尽きていた。
またなぜ、正成が笠置にふみとどまらず、河内へ帰ったのかといえば、ここでは自身の指揮も、徹底的には行われ難いと見抜いたからであったろう。
むしろ少数でも、一族一体を基盤とする金鉄の本塁を奥河内の瞼に築いて、築塁が成ッたら、すぐさまそこへ天皇を迎えて、思うざまな統御を取ろうとするものにほかならなかった。 |
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