吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(2)

■天皇御謀反

<本文から>
  俊基はあらたまって、その目的を、うちあけた。
 先日の南都行幸も、次いで予定されている叡山行幸も、すべては、朝廷お旗上げの御準備にはかならない。
 まず僧団勢力を、味方にひきいれておくことは、対関東の作戦上には、欠くことのできない策である。−で、天皇行幸とあわせて、紀州の高野山、播磨の大山寺、伯耆の大社、越前の平泉寺−この地方四大社寺へたいしても、一朝のさいには、王事に協力あるべしと、懇諭の密勅がくだされることになったという。
 「その密使として、これから高野をはじめ、諸山へ経巡る道すがらじゃ。太夫、まだ話したいことは、一夜に尽くせぬほど、山々あるぞ」
 天皇御謀反
 ということばは、初めは雲の上の光文のごとく、また、ごく一部の幕府主脳の秘語としてしか呵かれていなかったが、正中ノ変このかた、表沙汰となり、今日では、たれの口もつかわれている。
 だが、天皇御むほん?
 どうもおかしいではないか。こんな語は、ことばの意味をなしていないと、いう者もあるにはあった。
 武家もなく、幕府もなく、また院政だの、公卿の専横もなかった以前の世は、政治は天子が統べ給うものときまっていた。
▲UP

■楠木正成が大江時親から兵学を学んだことへの考察

<本文から>
 これまでの楠公伝″や河内郷土史などの上では。一様に、幼名多聞丸といった楠木正成は、八歳のころより、同地の大江時親について、兵学を学ぶ−としている。
 これがどうも、おかしいのである。なぜ、八歳でなければいけないのか。
 おそらくは、伝記筆者がその勉学ぶりを、なるべく幼少な姿に仮りたかったのであろう。ほかの理由は見いだせない。
 では?
 と当然、べつな疑いが付随してくる。
 そのことすでに、そんな根拠のないことなら、大江時親なる兵学者が、当時、河内の山間に住んでいたというのも、あてにならない仮説ではないのか。
 だから慧眼な史家は、大江時親の実在も疑い、正成の師事などもみとめていない。それに従来の楠公伝や、郷土史自体が時親の素姓については、具体的になに一つ傍証していなかった。−こういう事情になっている。
 で、作者は。
 正成の弟、正季の口をかりて、大江時親、すなわち毛利時親の素姓を、前段でやや語らせたわけであるが、事のついでに、もうすこし、時親の実在と、その人の生涯とを、手みじかに、この一章で、閑話することをゆるされたい。
 時親を、大江氏で呼ぶのは、たとえば、正成を楠木正成といわずに、橘ノ正成とよぶようなものである。大江は族姓で、毛利時親という方が正しい。
 その毛利姓は、相模ノ国愛甲郡毛利から起っている。
 尊卑分脈の「大江民系図」によると、大江広元の子季光以後、愛甲郡毛利に住み、ほどなく越後南条の領国へ移って行き、経光、時親、と代をかさねている。
 そして、この微々たる家が、やがて信長、秀吉などの戦国時代にいたっては、かの毛利元就や輝元を生み、またその支流からは、吉川元春、小早川隆景らの輩出を見るのであった。
 しかし毛利家の「毛利系図」の上では、相模愛甲郡時代の季光や、越後に任国していた頃の経光などは祖流に加えず、河内のおくへ隠遁した−つまり正成の住居、水分と二里ほどの近所だった山家の人−時親を以て、
 家祖時親
 と、系譜の初代にすえているのである。
 なぜといえば。−晩年、安芸の吉田へ移って、郡山城の芸州毛利家の基礎をなした最初の人が、この時親だったせいであろう。−ただ彼が、河内の加賀田をすてて安芸へ下った年代となると、それはいつ頃ともしれないが、おそらくは、やがてこの地方の千早、金剛山から洛中洛外も戦火となって、大乱の険悪さが、ついには閑人の閑居もここにゆるさない日となってからではあるまいか。とにかく、それまでは、加賀田の一隠者として、この地にいた時親なので、彼と正成とが知りあったのも偶然ではない。
▲UP

■俊基の最期

<本文から>
 唾するように、
「ええい、措け措け。−それよりは、この朝臣こそ大事なれだ。それっ、すぐさま引っ立てろ」
 もとより無知な雑兵輩である。わっとばかり寄りたかって俊基の身に縄を縛けようとする。が、俊基はきびしい眉をいからせて、しりぞけた。断乎としてゆるさなかった。
「−逃げぬもの」と、前提して、言って聞かせた。
「郡部の上から縄打つ法はあるまい。まして官門の内より縄付きを出してよいものか。万一、どうしても肯じねば、俊基、この場で舌を噛み切って死ぬまでぞ。ならば、汝らの功もむだとなり、鎌倉の諸費はのがれ得まいが」
 で、二の句もなく、
 「縄はよせ。そのまま囲んで」
 鬼六はもう先へ歩きかける。
 「しばし待て」
 俊基は、なお動かず。
……死にもせず、素直にどこへでも歩いてやろう。が、暫時、おいとま乞いを申す間、なんじらも神妙に、そこにて待て」
 乱れた髪や束帯をやや正して、俊基は地1に坐った。そして、内裏の大屋根へ向って、長いこといひれ伏した。
 彼が、どんな心の叫びを、みかどのお産所へ向ってなしていたかは、見ている者にもわからなかった。
 ただ、その凄惨な面を流れくだる涙は、心ない検断所の荒くれどもをさえ、しゅんとさせていた。ましてや、人も多いはずなこの官苑の内である。殿上の眼も幾多、どこかでは、この有様を密と見ていたことでもあろうに。
 やがて俊基は、胸を上げて、一言、辺りへも聞えるように言った。
 「……思い残すことあらじといいたいが、俊基には、そういえぬ。わけて、吉田ノ定房卿にただ一言の怨みも地てぬこそ無念なれ」
 ぬッくと起って、彼は大内の万歳でも叫ぶように、またいった。
 「−とはいえ、時は五月だ。若いみどりは萌え止まぬわ。俊基一人亡しとて、天下の夏が後ろ向きするものか。残る方々よ。いよよ強く世に生き給えや!」
 とたんに、鬼六が、
 「やめろッ」、
 と、その背を一つどんと突いて、牛でも急くように、追っ立てた。
 「ちッ、曳かれ者の小唄など、耳うるせいわえ、さ、歩け歩け」
 俊基を拉した一群が、待賢門から出て行ってしまうと、そのあと、大内のそこかしこに、卒然と、泣くような怒るような騒めきが沸いていた。
▲UP

■後嵯峨天皇後の大分裂

<本文から>
 皇統の連綿″も万世一系″も乱脈の相を来して、南朝北朝、しのぎを削る国内の大分裂を招来
 では、それはどんな事情から始まったかというに。
 当時の後醍醐天皇からさかのぼって、およそ九十年前に、
 後嵯峨天皇
がある。
 この帝は、北条氏のさしがねで、北条氏が推したお方だから、一も二もなく関東方には御柔順だった。そして、中宮ノ西園寺嬉子の産んだ第一皇子が四歳となると、御位をゆずって、これを、
 後深草天皇
と立てたのである。
 ところが、その後、同じお腹に生れた第二の皇子を鍾愛のあまり、いわれもなく、後深草を十七歳で退位させ、第二皇子十一歳を立てて、
 亀山天皇
 となさしめた。
 後に。
 後深草は、持明院を御所としたので、持明院統とよばれ、亀山は、大覚寺にお住みだったので大覚寺統と世間がいった。
 そしてまた、これが両統迭立″の端緒にもなったのだ。
 なぜといえば。やがてその皇太子に、父帝の後嵯峨は、またも弟の亀山天皇の皇子を立てられたからである。−弟の亀山はお気づよく、兄の後深草はおとなしい。しかしさすがこれにはお腹を立てた。
 その思いは、多年潜伏していた。やがて、父皇後嵯峨の崩御をみるや、後深草は時こそいたると、院政の覇座を狙われた。ところが、これにも、亀山天皇の邪魔が入った。−弟と兄の喧嘩である。−両方から訴えられた北条幕府は、どっちへ采配をあげたものかに迷ってしまった。
 そこで、先帝のみきさき、皇太后の嬉子に「−後嵯峨の御遺志は、どちらにあったか」を伺わせるという扱いに出たのである。
 すると、大官院ノ姶子は、一も二もなく、
 「もとより亀山の御系統にありました」と、答えた。
 後深草にも御子はある。御失望はいうまでもない。かくてこの時を境に、朝廷の臣まで、二派に割れてしまったのだった。
 院政
 という制、これは古い。
 天子はその頃も象徴だった。じつさいの政治、権勢、栄位欲をみたす君王ノ座は、遠い源平時代以前から院ノ御所″にいます上皇、或いは法皇の御手にあったのである。
▲UP

■持明院統と大覚寺統との決着をつける後醍醐の決意

<本文から>
 後二条天皇
へ御位を譲られた。
 そして、順序として、次代皇太子には、また持明院統から、後伏見の弟、富仁を擬していたところ、これがまた大覚寺の後宇多上皇の御気色にさわり、一応悶着をみたが、関東方では、交代制を堅持して、とりあわなかった。
 とかくするうち。後深草は崩ぜられ、亀山上皇も御逝去られた。さらに後二条も、在位わずか五年で天折され、かねての皇太子、富仁親王が御位についた。これを、
 花園天皇
 と、申しあげる。
 次いで、つぎの皇太子には。
 大覚寺統の後宇多の御子、尊治親王がすえられた。−この君尊治こそ、すなわち、
 後醍醐天皇
 であって、皇太子となったのが二十一。帝位につかれたのが三十一。歴代、幼少天皇ばかりつづいて来たあと、珍しくや思慮経験もゆたかな、壮年天皇の出現をここに見たわけだった。
 帝位の十年交代制は、代をかさねるにしたがって、当然、むりな形になってくる。
 皇太子の冊立にあったて、正嫡だけを立ててゆけない。弟流のまた弟流など、枝に枝を生じて、すでに、後醍醐の世には、朝廷内の臣も事実上、四君四派にもわかれていた。
 持明院統には、後伏見、花園の二上皇があり、大覚寺統にも、後宇多、後二条の両院が在すといったふうに。
 が、後醍醐のみは、長い皇太子時代において、半民間的な自由生活もして来た御経験などもあるので、とくに考え方もちがっていた。
 「皇統の選びなどは、わが家のことに過ぎん。−後嵯峨このかた、九十年もの間、幕府の鼻息を恐れて、いちいちそれに問うて来たなど、愚の限りぞ」
 との、御見解の下に、
 「歴代は知らず、朕は朕だ」
 と、即位と共に、もうその頃からひそかな睥睨を、おもちだった。
 在位十年は、すぐ過ぎていた。約束の退位期限である。じつに、あっけない。
 が、皇太子邦良(亡兄、後二条の御子)とすれば、待望の季節であった。しきりに密使を関東へやり、早くも後醍醐の譲位を暗に策動しだした。
 後醍醐は、暗愚でない。よく知っておいでなのだ。
 それのお答えには、十年すぎても、頑として退位の御様子すらなかった。−そのうちに正中ノ変。ひきつづいて、皇太子邦良が世を去られた。
 奇貨措くべし、とはそのさいの御心中ではなかったか。
 後醍醐は、わが第二皇子の世良親王を、皇太子に推そうとした。だが北条幕府では、
「ゆめ、油断ならぬみかど」と、警戒していたことである。断乎として反対した。
「御交代の約を反古にはなりますまい。次の皇太子は、持明院統より挙げるのが御順序である。−後伏見天皇の御子、量仁親王こそ、おふさわしい」
 いやおうなく、それは実現となった。北朝第一の帝、光厳天皇は、この皇太子である。しかるになお、持明院方では、
「はや、十年はすぎている。一日もはやく、後醍醐は御譲位あるべし」
 と、裏面から、さまざま関東を突ッついた。だが、正中ノ変によっても露呈された通り、北条氏自体が、すでにその実力も怪しげになって釆ていた。
 「幕府の手の内、見えたり」
 と、なされて、後醍醐はいまや居直ッているお容である。−かりに持明院統の量仁を皇太子とはなされていても、もうそんな歴代のおろかな轍は、御自身ふたたび践もうなどとは思っても細られない。
「時なるかなだ。朕というものが帝位についたからには、二度とこの帝姫を、他統に譲ってよいものか。……のみならず、こんな皇室の在り方も正し、王政を延喜、天暦の古制に還しで、鎌倉のごとき醜武者の府は、これを一掃せねばならぬ」
 これがお腹の底の御誓であった。
▲UP

■持明院統、大覚寺統、幕府の三つどもえ

<本文から>
  幕府が憎むものは、幕府を倒さではやまじ、としている後醍醐中心の大覚寺統″一派にあるのみで、おなじ皇室の持明院統″までを、抹殺しようとするのでは決してなかった。
 で、このところ、抜かりだらけな六波羅でも、
 「それよ、持明院統の方々に、万一があっては」
 と、混乱のさなかに、兵力を割いて、その方面には、さっそく保護の手をさしむけた。
 すなわち、持明院系の後伏見、花園の二上皇と、皇太子量仁とを、それぞれの御所からみ車にのせ、一時、六条の仮御所へ、ご避難を乞うたが、「そこもなお物騒−」とあって、すぐまた、六波羅の北ノ一殿へ移しまいらせたのだった。
 これを見ても分ることは、幕府側にも、後醍醐に代る次の帝位ノ座が、
 「いつでも」
 と、用意のできていたことである。
 もちろん、持明院統の上皇も皇太子も、人質同様な庇護ながら、その日のくるのを、切に待ちこがれていらっしゃる。いわば、ここの方々にすれば、
「憎むは、幕府」
 というお形だ。
 だが、その幕府はいまや、てんてこ舞いの状である。
 そもそも、天皇は官苑から一歩も自由には出られぬ籠の鳥上みていたのが大誤算だった。−いかに後醍醐の豪気といえ、暗夜、皇都脱出の拳に出ようなどとは、夢想もしていなかったことだから、その狼狽ぶりたるや、絵にも描けない。
 するとまた、ちょうど、そんな緊急事やら、早馬立てに、ごッた返していた中である。叡山の一法師が、駆け込み訴えをして来た。その坊主の告げるところを聞けば、こうだった。
 −天皇のお行方は叡山でおざる。二十四日の夜どおし、鞍馬の間道をさまよわれ、二十五日の朝がた、北嶺より入山あって、釈迦堂を行在所にあてられ、即刻、みことのりを発せられたうえ、坊舎の上に高々と、錦の御旗をお掲げでおざった」
 おおかた、それとは察していたところだが、この訴人をえて、六波羅方は、
「やはり、そうか」
 と、ふるい立ち、
「いまは一刻も猶予すな」
 とばかり、即刻、全兵力を叡山攻めにかたむけた。
▲UP

■御夢は楠木正成一族を、この不利な陣へ招き入れる策

<本文から>
  北条幕府の天下を向うにまわしての、展陣の第一歩だ。
 こんな大勝負へのぞむさい、もし元来の武将だったら、かならず士気を考えよう。大いにそれを振るわすため、途上の神仏に願文をささげ、また何らかの奇蹟を行い、三軍を沸騰させて出向くのを常道とする。兵法として、はばかるまい。
 いわんや、笠置の今。
 地勢こそ瞼だが、また、草木もなびくべき天皇旗だが、いたずらに山風寒いのみで、馳せ参じてくる者といっては、微々たる小族烏合の輩ばかりだった。
 おそらくは、側近輩も、
 「案に相違したことよ」
 と、ここ数日の情勢をみて、うたた心細さに耐えなかったことでもあろう。
 とはいえ、彼ら若公卿たちは、新しい宋学にもふれ、宋代の兵法書にも精通していた。この貧しい孤軍の士気を考えないわけはない。
 楠木正成一族を、この不利な陣へ招き入れる策としても、御夢は、ただのみことのり≠ノも増して、大きな感激を正成にあたえるものと思われる。
 と、すれば、策を立てたのは誰だろう。後醍醐ご自身か、藤房か、聖尋か。−ともあれ、その朝のことは、全山の将士にもすぐひろまった。そして、
 「ここの弥勤菩薩と、虚空蔵菩薩が、みかどの夢枕に立たれた」
 と、称えあい、中腹の岩壁像のまえでは、山の律師、成就坊たちが、盛大な戦勝祈願を執りおこなった。そして式には、天皇以下も列せられて、その場から、万里小路藤房へ、
 「すぐさま、河内へ行け」
 との御命がくだった。
 勅を拝すと、藤房はすぐ身装を変えて、陣中を立った。−九月初めである。わざと従者も多くは連れなかった。−さはいえ任は重い。正成のこたえも予断はゆるされていなかった。
▲UP

メニューへ


トップページへ