吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     私本太平記(1)

■足利家時の置文

<本文から>
  「そうそう、祖先の忌日ごとには、かならずあの菩提寺の庭を見た。−足利家代々の苔さびたおくつきに額ずいた後で」
 「特に、若殿御元服の日、その報告を御先祖にささげられた後で、重臣どもの意見の相違から、ついに置文″の披見なく、御帰館となったことは、なお御記憶でござりましょうが」
 「はて、置文とは」
 「足利家七代の君、若殿には御祖父にあたる家時公の御遺書のことでござりまする」
 肺腑を突くとは、こんな言を擬して、一瞬、はっと息を呑ませる鋭さをいうのだろとう。又太郎は、いや、かたわらの経家さえも、粛と、顔いろを研いで、固くなった。
 −およそ足利家の者にとっては、先々代の主君家時の話というのは禁句だった。なぜならば、絶対に公表できない原因で、しかもまだ三十代に、あえなく自殺した君だからである。
 ところが。−その家時の血書の置文″(遺書)というものが、菩提寺鎖阿寺のふかくに、家時の霊牌とひとつに封ぜられているということを、重なる家臣は知っている。
 −で、又太郎高氏が元服報告の日にも。「−もはや御元服なされた上は、お見せすべきだ」という臣と。「−いやまだ時節でない。もっと若殿が御成人の後ならでは」という臣と、両者二説にわかれたため、その折にも、それはついに開かれずにしまったほど、足利家にとっては、なにしても重大な意味をもつ秘封でもあるらしかった。
 「……そうだ、わしとしたことが、うかと、あの日のことは忘れておった」
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■置文を焼いてから高氏は変わった

<本文から>
  高氏は突如、不きげんな色をなして、右馬介を怪しませた、というよりもびっくりさせた。
 彼にすれば、高氏のそんな激語の迸りなど、理解できるわけがない。問注の場のいきさつは見ていず、また、高氏の胸奥にある、もひとつの秘を、打明けられてもいなかった。
 いや高氏自身にすら、複雑な今の胸を、どう支えるべきか、持って行くべきか、冷静な処理もついてはいない。
 では一体、何をそんな重荷に感じているのかといえば、いうまでもなく、かの祖父家時の置文″にほかならなかった。
 その置文は、あの朝、密かに焼きすてて、内容だけを、自分一人の胸に秘封してしまったのだ。その日から、高氏という人間はどこか違って来ている。又太郎高氏の再生が始まっていたといっても過言でない。−許した母の清子が、「もいちど、男の子を生むにひとしい陣痛」といった意味も、今にして、よくわかる。
 だから、もし、置文を見ぬ前の高氏であったら、多摩川の場合にせよ、新田を先に渡してただ見てはいまい。−臆病な彼がよけい臆病に見え出したのは、置文を焼きすてた朝から、彼の内容において、生命の比重がちがって来たのである。何かにつけ、
「……生命なくば」と大切に思い、そのいのちも「……長からねば」と、心がけるようになってきたのは争えない。
 また、今日の佐々木道誉との対決にしても、である。
 ひとたび、彼が堪忍を破って、事実をたてに、言いたいことをいわんとしたら、どうなったことだろうか。
 −それを、じつとこらえて、ただ被疑者の弁解ですまして来たのは、伯父憲房の忠言にもよるが、高氏の胸に、かの傲々たる置文の声があったからである。
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■日野資朝は革命者の素質が備わっていた

<本文から>
  京極ノ為兼が、武家の迫害にあい、六波羅武士の手に捕われて曳かれた日、人ごみの中で見ていた資朝は「……何も一生、世にあらん思い出には、いっそ、かくもあらま欲し」と、傍若無人な言を吐いて立ち去ったという。
 彼の倒幕の誓いは、このとき腹にかたまったものだといわれるが、いずれにしても、寡黙のうちに潮風をふくみ、骨の髄からの闘志と反骨の人だったことは、疑いない。
 また、年下の日野蔵人俊基にも、こんな一語が、巷間に伝わっていた。
 弾じ検非違使の前職にあった頃とか。
 遍照寺の憎が近くの広沢の他に遊んでいる雁の群に、よく餌をやっていた。
 鳥を愛するのかと思うと、そうでなく、折々、庫裡で鳥を煮る匂いがする。鳥肉が食いたくなると、坊主は餌で釣って、堂内に雁をおびき入れ、急に戸を閉めて、羽バタキ荒々と囁き騒ぐ中で、これを何十羽となく叩き殺す。
 村民の訴えで知った俊基は、ただちに、坊主どもを搦め捕り、坊主たちの頸に、雁や水鳥の骸を懸けさせて、市中引廻しに処した、というのである。破戒、無慈悲な僧どもは、人中でさんざんな目に遭ったという。
 この日野俊基、まえの資朝。いずれも、従来の古い公卿型ではない。そんな行為のうちにも、革命者たるの素質がすでに窺われる。
 いや、現朝廷に仕える若い朝臣のあいだには、およそ現代の公卿気質ともいえるほどな、おなじ鋭気をもった青壮年が多く見られた。−日野資朝、俊基の双輪は、いわばその代表的な者だったといってよい。
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■大覚寺派と持明院派

<本文から>
 大納言公泰、洞院ノ公敏、近衛経忠、参議ノ光顕、坊門ノ清忠、権中納言実世……。
 なお、しばらくしては。
 万里小路宣房、三条公明、藤原ノ藤房、二条道平、北畠顕房、吉田ノ大納言定房まで−およそ今上をめぐる上卿という上卿は、このほか、余すなく中殿の東西に居ながれた。
 すべて、これらの公卿は、後醍醐が即位の頃からの、いわゆる大覚寺派≠ニいわれる人々にかぎられて、おなじ宮廷の重臣でも持明院派≠ニ疑われる者は、一名も交じっていない。
 大覚寺派とは、何か。
 持明院派とは何か。
 これは今、ここでの説明はむりであるが、一言でいえば、皇室自体の数代にもわたる派閥の皇統争い″なのである。言い換えれば、朝廷の内部も、一つでなかったことなのだ。悩みはまた、ここにもあった。
 しかし、みかども、
 「ここには、選ばれた者のみあるぞ。なべて一心同体の人々」
 と、その御態度からして、特にお親しみを示されていた。女性では、三位ノ廉子もまた、同志の一人として、ゆるされていたのはいうまでもない。
 「−冬信。いずれもへ、告文の奉書を廻して、一覧に入れよ」
 やがて後醍醐のおんみずからな、おさしずであった。
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■道誉は天下を窺う好敵手

<本文から>
  否々、時により、案外な好意をしめし、あのあいそ黒子を、十年の知己かの如く、にんまり見せる。 − そんな場合の道誉は、憎もうにも憎めなかった。さりとて、親しむには、親しみきれぬ異質感を、また、どうしようもない高氏でもある。
「わしの小心を見抜かれたか」
 高氏は元来、自己を大胆者とは、信じきれていない。むしろ小心だと思っている。
 自分が道誉を無視しえないのも、そもそも、その小心が抱いた過大な大望のせいだと気づいた。−道誉のごとき地位と才物は、将来、敵に廻しては厄介にちがいない。あわよくば、行く末、味方にもしようとする放い分別が、自分を弱くさせ、卑屈にさせ、また、彼の乗ずるところにもなるのであろうか。
 立場をかえて。
 なぜ道誉が、つねに自分を目のかたきにしているのか、からみたがって来るのかを考える。
 或いは、彼も自分同様、ひそかに天下を窺っているものかもしれない。−もし将来の天下におなじ野心を抱く者なら、類は類に敏しで、こっちの腹も当然観破しうるはずである。この自分を目すに、いつか、中原の鹿を追う好敵手!としているのではあるまいか。
 「そうだ、好敵手」
 やや道誉が分りかけてきた気がしていた。
 単なる婆婆羅大各としてでなく、一朝の変には、天下へ手をかける下心もある野心家として彼を見直すと、伊吹以来の事々も、今日の新田義貞を加えての一会なども、すべて彼の深慮遠謀の反映と解されぬでもない、と思った。
「おもしろい。中原の鹿は、誰が射中てようと勝手だ。さはさせじと、争う敵手が現われてこそ、なお、おもしろい」
 暗い夜道の馬上、高氏は、部下のたれも知らない闘志と夢に、その肋骨をふくらませていた。
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