吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     三国志 8

■姜維との出会い

<本文から>
 「姜維姜維。なぜこころよく降参してしまわぬか。死は易し、生は難し、ここまで誠を尺せば、汝の武門には辱はあるまい」
 驚くべし、孔明のうしろには、いつのまにか、糞城にのこしていた彼の母が、輿に載せられて、大勢の大将に守られている。
 うしろには、関興の一軍の迫るあり、前にはこの大軍であった。かつは、敵にとらわれた母の姿を見、姜維は胸ふさがって、馬を跳びおりるや否や大地にひれ伏し、すべて天意にまかせた。
 すると孔明は、すぐ車をおりて、姜維の手をとり、姜維の母の側へつれて釆た。そして母子を前にして彼は云った。
「自分が隆中の草庵を出てからというもの、久しい間、つねに天下の賢才を心のうちでさがしていた。それはいささか悟り得た我が兵法のすべてを、誰かに伝えておきたいと思う希いの上からであった。−しかるにいま御身に会い、孔明の日頃の騎いが足りたような気がされる。以後、わが側にいて、蜀にその忠勇を捧げないか。さすれば孔明もまた報ゆるに、自分の慈蓄を傾けて、御身に授け与えるであろう」
 母子は恩に感じて泣きぬれた。すなわち姜維は、この日以来、孔明に師事し、身を蜀に置くことになったのである。

■馬謖を斬る

<本文から>
 孔明は、侍臣を走らして、さらに催促させた。−と、間もなく、変り果てた馬謖のすがたが、首となってそこへ供えられた。ひと目見ると、孔明は、
「ゆるせ、罪は、予の不明にあるものを」
 と、面を袖におおうて、床に哭き伏した。
 とき蜀の建興六年夏五月。若き馬護はまだ三十九であったという。
 首はただちに、陣々に梟示され、また、軍律の一文が掲げられた。
 その後、糸をもって、胴に縫いつけ、棺にそなえて、あつく葬られた。かつ、その遺族は、長く孔明の保護によって、不自由なき生活を約されたが、孔明の心は、決して、慰められなかった。
−罪、我にあり。
 孔明の自責は、みずから刃を身に加えたいほどだった。しかし蜀の危急はさし追っている。なおかつ先帝の遺託もある。彼は身の重責を思うと死ぬにも死ねない思いを新たに持つ。そして遂に、こういう形をとるほかなかった。

■三年は内政の拡充に力を

<本文から>
「しかし孔明がこの遺狐に仕えることは、玄徳が世にいた頃と少しも変らなかった。いやもっと切実な忠愛と敬礼を捧げきって骨も細りゆく姿だった。それだけに帝劉禅が彼を慕い彼を惜しむことも一通りでなかったが、如何せん、孔明がいないときというと群臣がうごく。群臣がうごくと帝も迷いにつつまれる。蜀朝廷は実にいつも遠きに孔明の後ろ髪を引くものであった。ここにおいて孔明は、
「三年は内政の拡充に力を注ごう」
 と決意した。三年師を出さず、軍士を養い、兵器糧草を蓄積して、捲土重来、もって先帝の知遇にこたえんと考えたのである。
 いかなる難事が重なろうと、中原進出の大策は、夢寐の間も忘れることなき孔明の一念だった。そのことなくしては孔明もない。彼の望み、彼の生活、彼の日々、すべては凝ってそれへの懸命に生きていた。
 三年の間、彼は百姓を恤み宥わった。百姓は天地か父母のように視た。彼はまた、教学と文化の振興に努めた。児童も道を知り礼をわきまえた。教学の根本を彼は師弟の結びにありとなし、師たるものを重んじ、その徳を涵養させた。また内治の根本は更にありとなし、吏凰を醇化し衷心を高めさせた。衷にしてひとたび涜職の辱を冒す者あれば、市に曝して、民の刑罰よりもこれを数等厳罰に処した。

■魏と蜀の明暗を分けた逃げ方

<本文から>
 反対に、魂にとっては、この小さな一機智が、実に大きな倖せだったといえる。もしこの時、蓼化が仲達の機智を見破って、
(灰を、東の道へ落したのは、かえって、西の道こそ疑わしい)
となして、その方角へ、敵を追求して行ったとしたら、全戦局は一変して、後の蜀も魏の歴史もまったくあのように遺されて来なかったであろう。
 しかし、歴史のあとを、大きく眺めるときは、いつの時代でも、いかなる場合にも、これを必然なる力と、人力を超えた或るものの力−いわゆる天運、または偶然とよぶようなものとの二つに大別できると思う。
 魏国の国運というものや、仲達個人の運勢も強かったことは、このときの一事を見ても、何となく卜し得るものがあった。それにひきかえて、蜀の運気はとかく揮わず、孔明の神謀も、必殺の作戦も、些細なことからいつも喰いちがって、大概の功は収め得ても、決定的な致命を殊に与え得なかったというのは、何としても、すでに人智人力以外の、何ものかの運行に依るものであるとしか考えられない。

■姜維に二十四編を託す

<本文から>
 孔明の病状はこの時から精神的にもふたたび恢復を望み得なくなっていた。翌日、彼はその重態にもかかわらず姜維を身近く招いていった。
「自分が今日まで学び得たところを書に著したものが、いつか二十四編になっている。ゎが言も、わが兵法も、またわが姿も、このうちにある。今、あまねく味方の大将を見るに、汝をおいてほかにこれを授けたいと思う者はいない」

■死せる孔明、生ける仲達を走らす

<本文から>
 するとたちまち一方の山間から闘志溌剌たる金鼓が鳴り響いた。蜀軍あり、と叫ぶものがあったので、司馬懿が駒を止めてみると、まさしく一彪の軍馬が、萄江の旗と、丞相旗を撮りかかげ、また、一輌の四輪車を真っ先に押して馳け向ってくる。
 「や、や?」
司馬懿は、仰天し紙。
死せりとばかり思っていた孔明は白羽扇を持ってその上に端坐している。車を護り繞っている者は、姜維以下、手に手に鉄檜を持った十数人の大将であり、士気、旗色、どこにも陰々たる喪の影は見えなかった。
「すわ、またも不覚。孔明はまだ死んでいない。 −浅慮にもふたたび彼の計にかか
った。それっ、還れ還れっ」
仲達は度を失って、馬に鞭打ち、にわかに後ろを見せて逃げ出した。
混乱を現出し止レ
「司馬懿、何とて逃げるか。反賊仲達、その首をさずけよ」
蜀の姜推は、やにわに檜をすぐつて、孔明の車の側から征矢の如く追ってきた。
突然、主将たる都督仲達が、駒をめぐらして逃げ出したのみか、先駆の諸将も口々に、
 −孔明は生きている!
 −孔明なお在り!
と、驚愕狼狽して、我先に馬を返したので、魏の大軍は、その凄じい怒涛のすがたを、急激に押し戻されて、馬と馬はぶつかり合い、兵は兵を踏みつぶし、阿鼻叫喚の大混乱を現出した。

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