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<本文から>
閑話休題−
干七百年前の支那にも今日の中国が見られ、現代の中国にも三国時代の支那がしばしば眺められる。
戦乱は古今を通じて、支那歴史をつらぬく黄河の流れであり長江の波涛である。何の宿命かこの国の大陸には数千年のあいだ半世紀といえど戦乱の絶無だったということはない。
だから支那の代表的人物はことごとく戦乱の中に人と為り戦乱の裡に人生を積んできた。また民衆もその絶えまなき動流の土に耕し、その戦々兢々たるもとに子を生み、流亡も離合も苦楽もまたすべての生計も、土蜂の如く戦禍のうちに営んできた。
わけて後漢の三国対立は、支那全土を挙げて戦火に連なる戦火の煉原と化せしめ、その広汎な陣炎は、北は蒙彊の遠くを侵し、南は今日の雲薯南から仏印地方(インドシナ半島)にまでわたるという黄土大陸全体の大旋風期であった。大乱世の柑璃であった。
このときに救民仁愛を旗として起ったのが劉備玄徳であり、漢朝の名をかり王威をかざして覇道を行くもの親の曹操であり、江南の富強と士馬精鋭を蓄えて常に潮上を計るもの建業(現今の南京)の呉侯孫権だった。
建安二十四年川
曹操が本来の野望を実現して、自ら親王の位につき、天使の車服を冒すにいたり、劉備玄徳もまた、孔明のすすめに従って蜀の成都に漢中王を称えた。そして魏呉両国に境する荊州には関羽をおいて、しばらくは内政拡充に努めていたのである。
果然、蜀の大不幸は、その時に、その荊州から起った。関羽の死と、荊州の喪失とである。
後の史家は、紛議して、これを玄徳の順調と好運がふと招いた大油断であるといい、また王佐の任にある孔明の一大失態であるとも論じて、劉備と孔明のふたりを非難したりした。
けれど。
大局からみると、蜀にとって、中原の大事は、剤州よりも、むしろ漢中にある。そしてその漢中には、親の曹操が自ら大軍を率して、奪回を計っていた。この際、当然、蜀の関心は曹操にそそがれていた。
その曹操と呉の孫権とは、赤壁以来の宿敵である。まさか一夜にしてその積年の障壁が外交工作によってとりのざかれ、魏呉の大艦船が長江を遡り、荊州を圧そうなどとは夢もできない転変だったにちがいない。
加うるに、劉備も孔明も、いささか関羽の勇略をたのみすぎていた。忠烈勇智、実に関羽は当代の名将にちがいなかった。けれどそれにしても限度がある。ひとたびその荊州の足場を失っては、さすがの関羽も、末路の惨、老来の戦い疲れ、描くも忍びないものがある。全土の戦雲今やたけなわの折に、この大将星が燿として麦城の革に落命するのを境として、三国の大戦史は、これまでを前三国志と呼ぶべく、これから先を後三国志といってもよかろうと思う。「後三国志」こそは、玄徳の遺孤を奉じて、五丈原頭に倒れる日まで忠涙義血に生涯した諸葛孔明が中心となるものである。出師の表を読んで泣かざるものは男児に非ずとさえ古来われわれの祖先もいっている。誤りなく彼も東洋の人である。以て今日の日本において、この新釈を書く意義を筆者も信念するものである。ねがわくは読者もその意義を読んで、常に同根同生の戦乱や権変に禍いさるる華民の友国に奇する理解と関心の一資ともしていただきたい。 |
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