吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     三国志 7

■前三国志と後三国志の流れ

<本文から>
 閑話休題−
 干七百年前の支那にも今日の中国が見られ、現代の中国にも三国時代の支那がしばしば眺められる。
戦乱は古今を通じて、支那歴史をつらぬく黄河の流れであり長江の波涛である。何の宿命かこの国の大陸には数千年のあいだ半世紀といえど戦乱の絶無だったということはない。
 だから支那の代表的人物はことごとく戦乱の中に人と為り戦乱の裡に人生を積んできた。また民衆もその絶えまなき動流の土に耕し、その戦々兢々たるもとに子を生み、流亡も離合も苦楽もまたすべての生計も、土蜂の如く戦禍のうちに営んできた。
 わけて後漢の三国対立は、支那全土を挙げて戦火に連なる戦火の煉原と化せしめ、その広汎な陣炎は、北は蒙彊の遠くを侵し、南は今日の雲薯南から仏印地方(インドシナ半島)にまでわたるという黄土大陸全体の大旋風期であった。大乱世の柑璃であった。
 このときに救民仁愛を旗として起ったのが劉備玄徳であり、漢朝の名をかり王威をかざして覇道を行くもの親の曹操であり、江南の富強と士馬精鋭を蓄えて常に潮上を計るもの建業(現今の南京)の呉侯孫権だった。
 建安二十四年川 
曹操が本来の野望を実現して、自ら親王の位につき、天使の車服を冒すにいたり、劉備玄徳もまた、孔明のすすめに従って蜀の成都に漢中王を称えた。そして魏呉両国に境する荊州には関羽をおいて、しばらくは内政拡充に努めていたのである。
 果然、蜀の大不幸は、その時に、その荊州から起った。関羽の死と、荊州の喪失とである。
 後の史家は、紛議して、これを玄徳の順調と好運がふと招いた大油断であるといい、また王佐の任にある孔明の一大失態であるとも論じて、劉備と孔明のふたりを非難したりした。
 けれど。
 大局からみると、蜀にとって、中原の大事は、剤州よりも、むしろ漢中にある。そしてその漢中には、親の曹操が自ら大軍を率して、奪回を計っていた。この際、当然、蜀の関心は曹操にそそがれていた。
 その曹操と呉の孫権とは、赤壁以来の宿敵である。まさか一夜にしてその積年の障壁が外交工作によってとりのざかれ、魏呉の大艦船が長江を遡り、荊州を圧そうなどとは夢もできない転変だったにちがいない。
 加うるに、劉備も孔明も、いささか関羽の勇略をたのみすぎていた。忠烈勇智、実に関羽は当代の名将にちがいなかった。けれどそれにしても限度がある。ひとたびその荊州の足場を失っては、さすがの関羽も、末路の惨、老来の戦い疲れ、描くも忍びないものがある。全土の戦雲今やたけなわの折に、この大将星が燿として麦城の革に落命するのを境として、三国の大戦史は、これまでを前三国志と呼ぶべく、これから先を後三国志といってもよかろうと思う。「後三国志」こそは、玄徳の遺孤を奉じて、五丈原頭に倒れる日まで忠涙義血に生涯した諸葛孔明が中心となるものである。出師の表を読んで泣かざるものは男児に非ずとさえ古来われわれの祖先もいっている。誤りなく彼も東洋の人である。以て今日の日本において、この新釈を書く意義を筆者も信念するものである。ねがわくは読者もその意義を読んで、常に同根同生の戦乱や権変に禍いさるる華民の友国に奇する理解と関心の一資ともしていただきたい。

■関羽の最期

<本文から>
関羽はしずかに眸を向けて、
「思いあがるを止めよ、碧眼の小児、紫髯の鼠輩。まず聞け、真の将のことばを」
 と、容を正した。
「劉皇叔とこの方とは、桃園に義をむすんで、天下の清掃を志し、以来百戦の中にも、百難のあいだにも、疑うとか反くなどということは、夢寐にも知らぬ仲である。今日、追って呉の計に墜ち、たとえ一命を失うとも、九泉の下、なお桃園の誓いあり、九天の上、なお関羽の霊はある。汝ら呉の逆賊どもを亡ぼさずにおくべきか降伏せよなどとは笑止笑止。はや首を打て」
 それきりロをつぐんで再びものをいわない。さながら巌を前に置いているようだった。孫権は左右を顧みて、
「一代の英雄をわしは惜しむ。何とかならんか」
 と、ささやいた。
 主簿の左咸が意見した。
「おやめなさい。おやめなさい。むかし曹操もこの人を得て、三日に小宴、吾に大宴を催し、栄誉には寿亭侯の爵を与え、煩悩には十人の美女を贈り、日夜、機嫌をとって、引き留めたものでしたが、ついに曹操の下に留まらず、五関の大将を斬って、玄徳の側へ帰ってしまった例もあるではありませんか」
「失礼ですが、あの曹操にしてすらそうでした。いわんや呉の国ヘビうして居着くものですか。苦杯をなめた曹操も後に大きな悔いを抱きました。今彼を殺さなければ後には呉の大害となるにきまっています」
「……」
 孫権はなお唇をむすんでしばらく鼻腔で息をしていたが、やがて席を突っ立つや否や、われにも覚えぬような大声でいった。
「斬れっ。斬るのだっ。−それっ閑羽を押し出せ」
 武士はかたまり合って関羽を陣庭広場までひき立てた。そして養子開平と並べてその首を打ち落した。

■曹操の最期

<本文から>
曹操はなお苦笑して、
「日々千金を費やすとも、天命ならば一日の寿も購うことはできまい。況んや、英雄が死に臨んで、道士に祓いをさせたなどと聞えては、世のもの笑いであろう。無用無用」
 と、退けて、その後で、重臣すべてを枕頭によびあつめ、
「予に、四人の子があるが、四人ともが、みな俊英秀才というわけにもゆかない。予の観るところは、平常のうちに、おまえたちにも語っておる。汝らよくわが意を酌み、忠節を継ぎ、予に仕える如く、長男の曹丕を立てて長久の計をはかれよ。よろしいか」
 おごそかに、こういうと、曹操はその瞬間に六十六年の生涯を一望に回顧したのであろう、涙雨のごとく頬をぬらし、一族群臣の鳴咽する陣の中に、忽然と最期の息を終った。−時、建安二十五年の春正月の下旬、洛陽の城下には雹のような雪が降っていた。

■孔明の諌めを用いて玄徳は皇帝に

<本文から>
「さればです。臣、草廬を出てよりはや十余年、菲才を以て君に仕え、いま巴蜀を取ってようやく理想の一端は実現されたかの感があります。しかしなおここに万代の基礎をたてて、さらに、この鴻業、この輝きを、不朽ならしめんとするに当たって、如何なる思召しやら、あなた様にはこの期に至って、世の俗論をおそれとする当たって、如何なる思わり、ついに天下の大宗たるお志もないようであります。一世の紛乱の暗黒を統べ闢き、万代にわたる泰平の基をたつるは、天に選ばれた人のみがよく為しとげることで、志さえ立てれば誰でも為し能うものではありません。−不肖臣亮が廬が出て、あなた様に仕えたのは全くその人こそあなた様をおいてはほかにないと信じたからでした。またあなた様におかれましても当年の大志は明らかに百世万民のために赫々と燃えるような意気を確かにお持ちでした。・・・しかるに、ああ、ついに劉皇叔ともある方も、老いては小成に安んじて、一身の無事のみが、ただ希うところになるものかと、あれこれ思うものですから、臣の病も日々重くなつものとめまする」
 孔明のことばは沈痛を極めた。また彼のことばには裏にも表にも微塵の私心私欲はなかった。玄徳は服せざるをえなかった。
 元来、彼は非常に名分を尊ぶ人である。世の毀誉褒貶を気にする性であった。それだけにこの問題については、当初から孔明の意見にも容易に従う色は見せなかったが、周囲の事態形勢、また蜀中の内部的なうごきも、遂に、玄徳の逡巡を今はゆるさなかった。
「よくわかった。予の思慮はまた余りに小乗的であったようだ。予がこのまま黙っていたら、かえって、議の曹丕の即位を認めているように天下の人が思うかも知れない。軍師の病が癒ったらかならず進言を容れるであろう」
玄徳はそう約して帰った。
 数日のうちに、孔明はもう明るい眉を蜀営の政務所に見せていた。太傳許靖、安漢将軍糜竺、青衣侯尚挙、陽泉侯劉豹、治中従事楊洪、昭文博士伊籍、学士尹黙、そのほかのおびただしい文武官は毎日のように会議して大典の典礼故実を調べたり、即位式の運びについて、議をかさねていた。
 建安二十六年の四月。成都が開けて以来の盛事に賑わった。大礼台は武担の南に築かれ、鸞駕は宮門を出、満地を埋めるごとき軍隊と、星のごとく巡る文武官の万歳を唱える中に、玄徳は玉璽をうけ、ここに蜀の皇帝たる旨を天下に宣したのであった。

■張飛の最期

<本文から>
 出陣を前に、便々と盲も猶予しておられようか。わが命に違反なす奴、懲らしめててれ。」
 武士に命じて、ふたりを縛り、陣前の大樹にくくりつけた。
 のみならず、張飛は、鞭をもって二人を撲った。味方の者の見ている前で、このことを与えられた范疆兄弟は、絶対なる侮辱を覚えたにちがいない。
 けれども二人は、やがて悲鳴の中から、罪を謝してさけんだ。
「おゆるし下さい。やります。きっと三日のうちに、ご用命の物を調達いたします」
 至極単純な張飛は、
「それみろ、やればできるくせに。放してやるから、必死になって、調えろ」
と縄えお解いてやった。
その夜、彼は諸将と共に酒を飲んで眠った。平常もありがちなことだが、その晩はわけても大酔したらしく、帳中へはいると床のうえに、鼾をかいて寝てしまったのである。
すると、二更の頃。
 ふたりの怪漢が忍びこんで、やや久しく帳内の壁にへばりついていた。范疆、張達の兄弟だった。張飛の寝息を充分にうかがいすまし、懐中の短剣をぎらりと持つや否、
「うぬ!」
 と一声、やにわに寝姿へおどりかかって張飛の寝首を掻いてしまった。
 首をさげて、飛鳥の如く、外の闇へ走ったかと思うと、?江のほとりに待たせてあった一船へ跳びこみ、一家一族数十人とともに、流れを下って、ついに呉の国へ奔ってしまった。
 実に惜しむべきは、張飛の死であった。好漢惜しむらくは性情粗であり短慮であった。まだまだ彼の勇は蜀のために用うる日は多かったのに、桃園の花燃ゆる日から始まって、ここにその人生を終った。年五十五であったという。

■玄徳の最期

<本文から>
「丞相よ。人将に死なんとするやその言よしという。朕の言葉に、いたずらに謙譲であってはならぬぞ。・・・君の才は、曹丕に十倍する。また孫権ごときは比肩もできない。……故によく蜀を安んじ、わが基業をいよいよ不壊となすであろう。ただ太子劉禅は、まだ幼年なので、将来は分らない。もし劉禅がよく帝たるの天質をそなえているものならば、御身が補佐してくれればまことに歓ばしい。しかし、彼不才にして、帝王の器で
ない時は、丞相、君みずから一蜀の帝となって、万民を治めよ……」
孔明は拝して、手足の惜くところも知らなかった。何たる英断、何たる悲壮な遺詔であろう。太子が不才ならば、汝が立って、帝業を完うせよというのである。孔明は、龍床の下に頭を打ちつけ、両眼から血を流さんばかり哭いていた。
玄徳はさらに幼少の王子劉永と劉理のふたりを側近くまねいて、
「父のない後は、おまえたち兄弟は、孔明を父として仕えよ。もし父の言に反くときは不孝の子であるぞ。よいか・・・」
 と、諭して、しばし人の親として名残り惜しげの眼ざしをこらしていたが、ふたたび孔明に向って、
「丞相、そこに坐し給え。朕の子らをして、父たる人へ、誓拝をさせるであろう」
 と、云った。
 ふたりの王子は、孔明のまえに並んで、反かざることを誓い、また再拝の礼をした。
「ああこれで安心した」
 と玄徳はふかい呼吸を一つして、傍らの趙雲子龍をかえりみ、
「御身とも、百戦万難の中を久しく共歓共苦してきたが、ついにきょうがお別れとなった。晩節を香ばしゅうせよ。また丞相とともに、あとの幼き者たちをたのむぞ」
(中略)
 新帝劉禅、字は公嗣。ときまだ御年は十七歳であったが、父の遺詔を奉じて、よく孔明を敬い、その言を尊んだ。
 帝のお旨によって、孔明は武卿侯に封ぜられ、益州の牧を領した。また、その年八月、恵陵の大葬がすむと、国議は、先帝劉玄徳に、昭烈皇帝と諡した。

■出師の表

<本文から>
彼は今や北伐の断行を固く決意したもののようである。一句一章、心血をそそいで書いた。華文彩句を苦吟するのではなく、いわゆる満腔の忠誠と国家百年の経策を述べんとするのであった。
 文中にはまず帝として後主の行うべき王徳を説き、あわせで天下の今日を論じ、蜀の現状を述べ、忠良の臣下を名ぎして、敢て信任を加えらるべきを勧め惹いて、先帝玄徳と自分との宿縁、また情誼とを顧みて、筆ここにいたるや、紙墨のうえに、忠涙の痕、滂沱たるものが見られる。
 表は長文であった。
 臣亮もうす。
 先帝、創業いまだ半ばならずして中道に崩弭せり。今天下三分し益州は疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり。しかれども侍衛の臣、内に懈らず、忠志の士、身を外に忘るるものは、けだし先帝の殊遇を負うて、これを陛下に報いんと欲するなり。誠に宜しく聖聴を開張し、以て先帝の遺徳をあきらかにし、志士の気を恢弘すべし、宜しくみだりに自ら菲薄し、喩をひき義をうしない、以て忠諌の道を塞ぐべからず−
冒頭まず忠肝をしぼって幼帝にこう訓えているのであった。
 さらに筆をすすめては、
 宮中府中は倶に一体たり、臧否を陟罰し、宜しく異同すべきにあらず。もし姦をなし、科を犯し、及び忠善をなすものあらば、宜しく有司に付して、その刑賞を諭じ、以て、陛下の平明の治を明らかにすべく、宜しく偏私して、内外をしてをして法を異にせしむべからず。
と、国家の大綱を説き、また社禝の人材を列記しては、
(中略)
 賢臣を親しみ、小人を遠ぎけしは、これ先漢の興隆せし所以にして、小人を親しみ、賢人を遠ぎけしは、これ後漢の傾頽せる所以なり。先帝いまししときは毎に臣とこの事を論じ、いまだかつて桓霊に歎息痛恨したまわぎるはあらざりき。侍中尚書、長史参軍、これことごとく貞亮死節の臣、ねがわくは陛下これに親しみこれを信ぜよ。すなわち漢室の隆んなる、日をかぞえて待つべき也。
 転じて孔明の筆は、自己と先帝玄徳と相知った機縁を追想し、その筆は血か、その筆は涙か、書きつつ彼も熱涙数行を禁じ得ないものがあったのではなかろうか。
 −臣はもと布衣、みずから南陽に耕し、いやしくも性命を乱世に全うし、間達を諸侯に求めざりしに、先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥におんみずから枉屈して、三たび臣を革廬にかえりみたまい、臣に諮るに当世の事を以てしたもう。これによりて感激し、ついに先帝にゆるすに駆馳を以てす。後、傾覆にあい、任を敗軍の際にうけ、命を危難のあいだに奉ぜしめ、爾来二十有一年。
 先帝、臣が謹慎なるを知る、故に崩ずるにのぞみて、臣によするに大事を以てしたまいぬ。命をうけて以来、夙夜憂歎し、付託の効あらずして、以て先帝の明を傷つけんことを恐る。故に、五月、濾を渡り、深く不毛に入れり。いま南方すでに定まり、兵甲すでに足る。まさに三軍を将率し、北中原を定む。庶わくは駑鈍を竭し、姦凶を孃除し、漢室を復興して、旧都に還しまつるべし。これ臣が先帝に奉じて、而して、陛下に忠なる所以の職分なり。
 孔明はこの条で国家のゆくてを明示している、そして、その完遂をもって自己の臣業となし、蜀の大理想であるともいっている。すなわちそれは漢室の復興と、旧地への遷都、その二つの実現である。そのためには臣らの粉骨はもちろんながら、陛下おんみずからと、あたかも父のごとき大愛と臣情を傾けて訓えているのであった。
 斟酌損益し、進んで忠言を尽くにいたりては、すなわち、攸之・韓・允の任なり。ねがわくは陛下臣に託するに、討賊、興復の効を以てせられよ。効あらぎれば、すなわち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げさせたまえ。もし興徳の言なきときは、すなわち攸之・韓・允らの咎を責め、以てその場を顕させたまえ。陛下また宜しくみずから謀り以て善道を諮諏し、雅言を察納し、ふかく先帝の遺詔を追わせたまえ。臣、恩をうくるの感激にたえざるに、今まさに遠く離れまつるべし。表に臨みて、涕泣おち、云うところ知らず。
 表の全文はここで終わっている。おそらく彼は筆を擱くとともに文字どおり故玄徳の遺託にたいして瞑目やや久しゅうしたであろう。そしてさらにその誓いを新たにしたであろう。ときに彼は、四十七歳、蜀の建興五年にあたっていた。

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