吉川英治著書
ここに付箋ここに付箋・・・
     三国志 6

■玄徳が初めて国をもったとき家臣の田宅より民を優先

<本文から>
 「予は初めて、予の国をもった」
 玄徳も万感を抱いたであろう。国ばかりでなく、このときほどまた、彼の左右に人物の集まったこともない。
 軍師孔明。
(略)
「自分が国を持ったからには、それらの将軍たちにも、田宅をわけ与えて、その妻子にまで、安住せ得させたいが」
 ある時、玄徳がこう意中をもらすと、趙雲薯はそれに反対した。
「いけません、いけません。むかし秦の良臣は、旬奴の滅びざるうちは家を造らず、といいました。蜀外一歩出れば、まだ凶乱を嘯く徒、諸州にみちている今です。何ぞわれら武門、いささかの功に安んじて、今、田宅を求めましょうか。天下の事ことごとく定まる後、初めて郷土に一炉を持ち、百姓とともに耕すこそ身の楽しみ、また本望でなければなりません」
「善い哉、畑要の言」と、孔明もともに云った。
「蜀の民は、久しい悪政と、兵革の乱に、ひどく疲れています。いま田宅を彼らに返し、業を励ませば、たちまち賦税も軽しとし、国のために、いや国のためとも思わず、ただ孜々として稼ぎ働くことを無上の安楽といたしましょう。その帰結が国を強うすること申すまでもありません」

■孔明は厳しき法律を制定した

<本文から>
 なおこの前後、孔明は、政堂に籠って、新しき蜀の憲法、民法、刑法を起算していた。
 その条文は、極めて厳であったので、法正が畏る畏る忠告した。
「せっかく蜀の民は今、仁政をよろこんでいる所ですから、漢中の皇祖のように法は三章に約し、寛大になすってはいかがですか」
 孔明は笑って教えた。
「漢王は、その前時代の、秦の商鞅が、苛政、暴政を布いて、民を苦しめたあとなので、いわゆる三章の寛仁な法をもって、まず民心を馴ずませたのだ。−前蜀の劉璋は、暗弱、紊政。ほとんど威もなく、法もなく、道もなく、かえって良民のあいだには、国家にきびしい法律と威厳のないことが、淋しくもあり悩みでもあったところだ。民が峻厳を求めるとき、為政者が甘言をなすほど敵なる政治はない。仁政と思うは間違いである」
 孔明はなおいった。
「民に、恩を知らしめるは、政治の要諦であるが、恩に狎れるときは、良心が慢じてくる。民に慢心放縦の癖がついた時、これを正そうとして法令をにわかにすれば、弾圧を感じ、苛酷を誹り、上意下意、相もつれてやまず、すなわち相剋して国はみだれだす。−いま戦乱のあと、蜀の民は、生色をとりもどし、業についたばかりで、その更生の立ち際に、峻厳な法律を立てるのは、仁者の政でないようであるが、事実は反対であろう。すなわち、今ならば、民の心は、どんな規律に服しても、安心して生業を楽しめれば有難いという自覚を持っているし、前の劉璋時代とちがって賞罰の制度が明らかになったのを知れば、国家に威厳が加わって来たものとして、むしろ安泰感を盛んにする。これ、民が恩を知るというものである。−家に慈母があっても、厳父なく、家の衰えみだれるを見る子は悲しむ。家に厳父あって、慈母は陰にひそみ、わがままや放埒ができなくとも、家訓よく行われ、家栄えるときは、その子らみな楽しむ.……一国の政法も、一家の家訓も、まず似たようなものではあるまいか」

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